147.見よ、飾られた形骸を

ダンマパダ 第11 老いの章 147

ナモー タッサ バガワトー アラハトー サンマーサンブダッサ
Namo  tassa   bhagavato  arahato   sammāsambuddhassa
阿羅漢であり正自覚者であり福運に満ちた世尊に敬礼致します


見よ、飾られた形骸を
傷をそなえ、集まっている
思いが多く、病める身を
そこには堅固も存続もない


(片山一良先生 訳)


○超訳の試み

見なさい、着飾れているが、
傷だらけで、よせ集められた肉体を
病気がちで、悩まされている
身体には老いないものはなにもない


○子供のためのダンマパダ

よく食べよく遊び丈夫な身体を作ろう
またよく勉強して良い頭を作ろう
でもそれ以上に大切なことがあります
それはやさしい心を育てることです





○一口メモ

 数日前に、バンクーバー冬季五輪スノーボード男子ハーフパイプ代表の国母和宏選手の「服装の乱れ」が問題になっていることをこのブログでも話題にしました。しかし、日本で問題にしているその論点が国母選手の服装、態度は、間違っているかどうかです。私は論点が違うのではないかと考えています。

 ちょっと大上段にかぶりすぎるかもしれませんが、日本文化は形式、形を重んじます。実は形を整えれば、心、内容が整うと考えているというのがその主張の主要なところだったのですが、今では心や内容はどうでも良くなって、形について問題にしているということが日本の国民の現状です。
これらのことは、あらゆるところに現れていています。あまり問題を広げたくないのですが、元横綱朝青龍の問題や、鳩山首相や小沢幹事長にまつわる、政治と金の問題もそうです。もっと大切な問題があるだろうと言いたくなるのです。

 あまりにも日本人が何が大切か考えなくなったから、問題山積みで、問題を解決できなくなっているのです。国母和宏選手の問題に戻せば、国母選手の服装よりも、国母青年の心を問題にしてほしいと思います。かれが道徳を守っているのかどうか、道徳を守るということは、シャツをズボンの中に入れるとか、入れないとかということではないのです。まわりの人々に親切な青年かどうかです。

 少し私見に走りすぎたかもしれませんが、形式や外見のみを議論しても、何も結論はでません。皆さんも、少し考えてみて下さい。今回の147番の詩は、心という点から考えれは、身体は「飾られた形骸」なのです。そのは「そこには堅固も存続もない」のです。身体は老いるだけの存在で、執着する意味のないものだとこの詩は教えているのです。


○スマナサーラ長老のこの詩に関する説法

お洒落にかける人生 ~身体は裏切りもの~
http://www.j-theravada.net/howa/howa64.html


○前回の「この詩から学ぶこと」

見なさいよ、飾られているこの肉体を病に犯され歳をとるだけ
http://76263383.at.webry.info/200904/article_12.html


○パーリ語原文

147.
パッサ チッタカタン ビンバン
Passa  cittakataṃ   bimbaṃ,
見よ  飾られた   身体を
アルカーヤン サムッスィタン
arukāyaṃ     samussitaṃ;
傷のある身体  集められた
アートゥラン バフサンカッパン
Āturaṃ     bahusaṅkappaṃ,
病ののある  思いの多い
ヤッサ  ナッティ ドゥワン ティティ
yassa    natthi   dhuvaṃ  ṭhiti.
そこには ない   恒常の  生存は

○詩のパーリ語について。100番からは正田大観先生を中心に行われました関西のダンマパダ輪読会の時の御自分のノートを参考にして、木岡治美様がわざわざ書き下ろしたものを私に送って下さいました。それを参考にさせて頂いております。

〇慈悲の瞑想

~私は幸せでありますように~
~私の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の願いごとが叶えられますように~
~私に悟りの光が現れますように~
~私は幸せでありますように(三回)~

~私の親しい人々が幸せでありますように~
~私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の親しい人々の願いごとが叶えられますように~
~私の親しい人々にも悟りの光が現れますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように(三回)~

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~

~私の嫌いな人々も幸せでありますように~
~私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように~
~私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように~

~私を嫌っている人々も幸せでありますように~
~私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように~
~私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように~

~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~


(この慈悲の瞑想を唱える人には必ず幸せが訪れます。)

◎お願い:今回の詩に共感された方は、ページ右上の『仏教』をクリックをお願いします。そうすると、仏教ランキングのランクが上がります。ランクが上がると多くの人の目に留まりやすくなり、ダンマパダの認知度が高まるからです。

この記事へのコメント

2010年02月19日 21:42
まったくおっしゃられる通りだと思いました

その人がどんな心で、そのような態度をとったか

そこが、とても、とても大切なところであると思います

そこが分からずして、何が、相手の方にいえましょうか

またそのように相手のお方をみることも、大きなやさしさのこころだと思います
2010年02月20日 03:52
ワンギーサさん、おはようございます。私の独断と偏見で言わせて頂ければ、「心の状態」は表にでます。特に歳をとればとるほど、人格は顕著にでます。品性を感じる人の内面は高貴で気品に充ち、穏やかそうな人の行為はやはり優しく美しいのです。逆もしかりです。だから、どうせ私たちは絶対老化するのだし、「心」を磨いていれば外見のことなど心配する必要は一切ないと考えてます。そして何より自分自身が落ち着いて幸福でいられると思います。有難うございました。
頭でっかち
2010年02月20日 05:05
おはようございます。ワンギーサ先生。
なぜ日本人が何が大切か考えなくなったのかと考えると、今が気持ち良ければそれでいいという教育になっているからではないかなと考えます。
儲かれば、今が苦しくてもいいというのも同じで、本人はそれで気分がいい。
自分の役割を勝手に決めてそこから出ないことに決めてしまうというのも、本人はそれでうまくいっていると考えている。
でも、そんな人々の間でも優しい行動原理を作って、「そういわずに頼みますよ」とか「それならやれますからやります」とか「これこれをやっときましょうか」とかなんとなく関わっていくと、なんとなくうまいことコミュニケーションを取れることがよくあります。
なぜかを考えると、そういった行動をではお互いにうまくいく体験をするからです。誰も損をしないので誰も悔しい人がいない。
優しい気持ちはつくづく不思議で深いものだなあと感じます。
こうしたことを体験するとますます仏教に魅せられてしまいます!!!
ぱん
2010年02月20日 08:57
おはようございます。今週から職業訓練を受けています。平日は心を磨いている暇がありません。土日は心を磨きたいと思います。生きとし生けるものが幸せでありますように。
ワンギーサ
2010年02月20日 10:13
ぱんさんへ。
今日はパーリ語勉強会があるので、今は長く書けませんが、考え違いしてますよ。心を磨くことは、つつでも今ここで行うことです。職業訓練を受けている瞬間にも行うことです。
ぱん
2010年02月20日 18:57
ワンギーサさん、アドバイスありがとうございます。来週は職業訓練の授業中に、今ここの瞬間に気付きを入れながら、ExcelやWordの技術習得のために、努力をいたしたいと思います。
こころざし
2015年08月19日 07:45
こころが成長していないと、自分本位で周囲と摩擦を起こすような生き方になりかねいと感じます。服装は一つの着目点かもしれませんが、服装で良い印象を持つのもそうでないのも、自身のこころのようにも思います。
日本ではマスコミ等の注目して欲しい顕示欲や・利益の追求の優先が目立ち、庶民はそれに気がつかずに乗せられているような印象も感じます。何が大事かをしっかり学んでいきたいです。
たか坊
2017年01月13日 21:41
今回も明るく楽しく学べたコトを嬉しく思います♪

この記事へのトラックバック