150.そこは老いと死とさらに慢と偽善を蔵するところ

ダンマパダ 第11 老いの章 150

ナモー タッサ バガワトー アラハトー サンマーサンブダッサ
Namo  tassa   bhagavato  arahato   sammāsambuddhassa
阿羅漢であり正自覚者であり福運に満ちた世尊に敬礼致します

都はもろもろの骨で築かれ
肉よ血とに塗られたところ
そこは老いと死とさらに
慢と偽善を蔵するところ


(片山一良先生 訳)


○超訳の試み

この肉体は骨で作られ
肉と血で塗られている
その場所に老いと死と
高慢と悪意が納められている


○子供のためのダンマパダ

からだは家のように
骨の骨格に肉と血でできている
中にはプライドやいじわるな心もある
そして歳を取って死んでしまう





○一口メモ

 今回の詩は昨日の詩の追い討ちのような詩です。お釈迦さまは、これでもかと人間の真実の姿を私たちに示しておられるのです。私たちはそれぞれ自己イメージを持っています。そのイメージは、自分がかわいいですから、自分を美化したイメージなのです。例えば、いじわるな子、いやいじわるをよくする子がいても、その子は自分をいじわるな子とは思っていない可能性が大きいのです。いじわるはいけませんと言われても、自分のことを言っているとは思ってない可能性が高いのです。

 ですから、釈尊は人間の真実の現状をありのままに知るように仰られているのです。この詩はお釈迦さまの親戚で非常に美しいナンダーという方に説法されたときの言葉だと言われています。
その因縁物語はスマナサーラ長老の説法の中で説明されています。

○スマラサーラ長老のこの詩に関する説法

説法は耳障り ~美も醜も同一のものです~
http://www.j-theravada.net/howa/howa67.html

○前回の「この詩かな学ぶこと」

肉体は肉と血でなり老いて死に慢と悪意が納めらている
http://76263383.at.webry.info/200904/article_15.html


○パーリ語原文

150.
アッティーナン ナガラン  カタン
Aṭṭhīnaṃ     nagaraṃ  kataṃ,
骨で       城     作られた
マンサローヒタレーパナン
maṃsalohitalepanaṃ;
肉と血で塗られた
ヤッタ  ジャラー チャ マッチュ チャ
Yattha   jarā     ca   maccu  ca,
そこには 老い    と  死    と
マーノー マッコー チャ オーヒトー
māno    makkho   ca   ohito.
慢     偽善    と  置かれている

○詩のパーリ語について。100番からは正田大観先生を中心に行われました関西のダンマパダ輪読会の時の御自分のノートを参考にして、木岡治美様がわざわざ書き下ろしたものを私に送って下さいました。それを参考にさせて頂いております。

〇慈悲の瞑想

~私は幸せでありますように~
~私の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の願いごとが叶えられますように~
~私に悟りの光が現れますように~
~私は幸せでありますように(三回)~

~私の親しい人々が幸せでありますように~
~私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の親しい人々の願いごとが叶えられますように~
~私の親しい人々にも悟りの光が現れますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように(三回)~

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~

~私の嫌いな人々も幸せでありますように~
~私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように~
~私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように~

~私を嫌っている人々も幸せでありますように~
~私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように~
~私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように~

~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~


(この慈悲の瞑想を唱える人には必ず幸せが訪れます。)

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この記事へのコメント

2010年02月22日 21:33
失礼します

自我がなくなりそうな時に、自我を張りたくなり

自我がある時に、自我をなくそうと思います

自我がなくなりそうな時に、思い切って自我をなくしてしまえばよいと思います

その時こそ、仏法僧に帰依する時です

なぜ自分がそこまでしなくてはならないのか

と感じたときに、思い切って、その思いすら捨ててしまって

生きとし生けるものが幸せでありますように

のこころで、自我をなくし行動してみてはどうでしょうか

生きとし生けるものが幸せでありますように
ワタナベ
2010年02月22日 21:34
一連の不浄観にもとづく詩偈は僕には大変合っているようです。ヴィパッサナー瞑想の前にそういった経典をよく読みますと心が欲世界から一時的に離れて観瞑想がやり易くなります。経典の註釈書etcには人の種類には6種類あり、その中で貪りの強い性格の人には、不浄観の修習が良いと記述があります。それを読んでみますと僕にピッタリ当てはまるので、仏説は凄いなぁと感じました。
2010年02月23日 04:00
ワンギーサさん、おはようございます。「不浄観」については、自分の大腸の写真を持参してます。骨は見えませんが、肉と血で出来ているのがよくわかります。とてもグロテスクに感じます。もし、この身体が「私」なら、一%の外見より99%の身体の内部で自己紹介しなければおかしな話です(1%というのは比喩です)。間違っても履歴書に貼れないような、身体の内部部分を大切な「私」と思い、それに価値を入れるのは、理不尽極まりないな話です。どこまで「心の底から」正直にそう思えるかが勝負どころだと思います。有難うございました。
ぱん
2010年02月23日 07:39
おはようございます。人間は骨、肉、老いと死、高慢と悪意で構成されているというブッダの教えを読み、自分が執着していたものが、本当に執着に値するものなのかどうか、考えさせられます。
こころざし
2015年08月20日 07:35
身近な人が、人には厳しい事を言いますが、自分は良く分かっている・よく出来ている・イチイチ言われなくても大丈夫・・等と自信満々な発言をします。
話を聞いて分かった事は「私だから大丈夫」との、よく分からない論理を持っている・・でした。自分の事は見ようとしない印象も感じます。
自分の実態を観察し反省し、心が成長するようなその後に繋げれるように注意したいです。
たか坊
2017年01月17日 18:12
今回も明るく楽しく学べたコトを嬉しく思います♪

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