152.学ぶこと少ない人は牡牛のように老いていく

ダンマパダ 第11 老いの章 152

ナモー タッサ バガワトー アラハトー サンマーサンブダッサ
Namo  tassa   bhagavato  arahato   sammāsambuddhassa
阿羅漢であり正自覚者であり福運に満ちた世尊に敬礼致します


聞くことのない人は
牡牛のように老いてゆく
そのもろもろの肉は増え
その慧が増えることはない


(片山一良先生 訳)


○超訳の試み

学ぶこと少ない人は
牡牛のように老いていく
彼の肉は増えるが
智慧は増えることはない


○子供のためのダンマパダ

勉強しないとどうなりますか
何も知らない、何もできない
何も分からない
智慧のない大人になるよ


  


○一口メモ

 「聞くことのない」とは学ぶことのないという意味です。昔は学ぶとは「聞くこと」だったのです。人間は学ぶことがなければ、牛と同じように食べて、ただ生きているだけということになります。牛は学ばなくとも役にたちますが、人間は学ばなければ何の役にもたちません。

 ただ、学びなさいということは、俗世間でも言われていることです。学ばなければ、偉くなれませんよ、出世しませんよ、お金持ちになりませんよと言われています。お釈迦さまの言われていることはそれと違います。「学ばなければ、智慧が増えることがない」と言われているのです。ですから、智慧が増えるように学ばなければなりません。智慧を学ばなければ本当の幸福が得られないからです。

 学校で学ぶことは、多くは知識や技術を学ぶことであり、よほど良い先生がいるか、注意深い学生でなければ、智慧は学べないのです。仏教では「戒、定、慧」という方式で智慧を学ぶ方法を教えています。戒は道徳を守ることです。道徳は注意力がなければ守れません。戒は道徳を守ることが目的ですが、この過程で注意力が養成されます。注意力は智慧の基礎的な力です。定は瞑想です。瞑想で知識ではない、智慧が養成できるのです。智慧は小さな弱い智慧から、限界のない大きな強い智慧まで育てることができるのです。「戒、定、慧」の方式で、無量の智慧を育てて下さい。


○スマナサーラ長老のこの詩に関する説法

からだのことしか考えられない ~智恵のない生き方はむなしい~
http://www.j-theravada.net/howa/howa69.html


○前回の「この詩から学ぶこと」

学ぶこと少ない人は牛のよう肉は増えるが智慧は増えない
http://76263383.at.webry.info/200904/article_17.html


○パーリ語原文

152.
アッパッスターヤン プリソー
Appassutāyaṃ     puriso,
少し 聞く       人は
バリワッドーワ ジーラティ
balivaddova   jīrati;
牡牛 ように  老いる
マンサーニ タッサ ワッダンティ
Maṃsāni   tassa   vaḍḍhanti,
肉は     彼の   増える
パンニャー タッサ ナ ワッダティ
paññā     tassa  na  vaḍḍhati.
智慧は   彼の ない 増え

○詩のパーリ語について。100番からは正田大観先生を中心に行われました関西のダンマパダ輪読会の時の御自分のノートを参考にして、木岡治美様がわざわざ書き下ろしたものを私に送って下さいました。それを参考にさせて頂いております。

〇慈悲の瞑想

~私は幸せでありますように~
~私の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の願いごとが叶えられますように~
~私に悟りの光が現れますように~
~私は幸せでありますように(三回)~

~私の親しい人々が幸せでありますように~
~私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の親しい人々の願いごとが叶えられますように~
~私の親しい人々にも悟りの光が現れますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように(三回)~

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~

~私の嫌いな人々も幸せでありますように~
~私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように~
~私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように~

~私を嫌っている人々も幸せでありますように~
~私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように~
~私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように~

~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~


(この慈悲の瞑想を唱える人には必ず幸せが訪れます。)

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この記事へのコメント

2010年02月24日 22:05
今晩は、失礼します

丁度、夜間学校に通っているような感じで

ここは、とても心安らぎ、同志と共に

楽しく学べ、たとえ学べなくとも

善き同志と会え、うれしいです

ワンギーサ先生、皆様、共に

はなし、人を学び、こころを学びましょう

生きとし生けるものが幸せでありますように
2010年02月25日 04:12
ワンギーサさん、おはようございます。今月のパティパダの「智慧の扉」に「他の生命の役にたつこと」という言葉があります。「自分のため、相手のため、皆のため」というのがあります。問題は、それは一体何なの?よく「あんたの為だよ」と迷惑な場合もありますが、確実なのが、戒を守ることです。まだ確定した結論ではありませんが、真に「役に立つ、ためになる」行為にはそれなりの智慧が必要だと思います。それを養ってくれるのが「戒」の実践です。例えば「奪わない」ことは100%相手や皆のためになります。その継続が「智慧」の世界につながるように思えてなりません。繰り返しますが、そう断定できるほどの智慧がありません。更に「学び」ということに関しては「継続は力なり」ということが言えます。よく「熱しやすくさめやすい、三日ぼうずだぞ!」と親から指摘されました。何であれ、継続、持続がなければものになりません。コメントさせて頂いているのも、コツコツ継続することで自分の弱味を直すのが最大の理由なのです。継続して初めてわかることが沢山あります。「戒」を継続するための基礎にもなります。有難うございました。
ぱん
2010年02月25日 07:29
おはようございます。ワンギーサさんの仰るように、よほど注意深い学生は別として、私のように不注意な学生は、とにかく、小学校や中学校時代に、私をいじめていたようなやつらよりも、優位に立ちたいという動機によって、高校時代は勉強いたしました。勝ちたい、有名になりたい、情けない自分を変えたい、自分のクラスの愚民たちなどとは同じ空気も吸いたくない、一刻も早く自分はとにかく上に行かなければならないと、何か本当に必死に勉強していました。ものすごく集中して勉強いたしましたが、今から思うと動機が不純で、慈悲とか、人の役に立ちたいというような気持ちは微塵もなく、自分さえよければそれでいいと、本当にそういう感じでした。しかし、有名にもなれず、金持ちにもなれず、、美女とも付きあえず、世間的な成功はできませんでした。あれほど努力をしたのに、得たものといえば、老いくらいのものです。年齢だけが増えました。また、今年のミスマガジンは誰々だとか、そんな情報ばかりが増えました。パソコンの前でアダルト動画を見ているだけの毎日でした。このままでは今日の詩にあるように、牛のようにただ老いるだけです。いや、もっとひどいです。パソコンを自分の私利私欲のみに使用していました。自分さえよければそれでいいと思っていました。そんな自分の生活にとって、ブッダの清らかで正しく美しい教えを毎日教えてくださるこのブログは、まさに一筋の光明です。仏法僧についてゆけば、パソコンの使い方も、変わると思います。お釈迦様が残してくださった教えを繰り返し学ばせていただけば、日常生活の送り方も変わり、無知の年輪ではなく、智慧の年輪を重ねてゆけるような気がいたします。一日でも早く涅槃に到達できるように不放逸、正念の生活を送りたいです。ありがとうございました。
1951男
2010年02月25日 10:52
前回の「この詩から学ぶこと」を読みました。
生きる目的はという問いは、自分を狭く決め付けることになりそうなので考えません。
自分の生命を自分の意志で作り出したという自覚は全くありませんので、どんな目的だったかと思い出すのは非論理的です。また誰かからの指令という考えは仏教では邪見です。
今いかに生きるかが課題です。具体的です。実際的です。今こうするとその結果どうなるのか、であれば今こうしよう。
ほんものの安らぎ、落ち着き、安心の世界にたどり着くために今学びます。学び自体が喜びです。
おんがえし
2010年02月25日 12:49
 ぱん(pun)さま。
http://gotami.j-theravada.net/2007/10/post-184.htmlのスマナサーラ長老の30分30秒くらいから始まる説法が、ぱんさまの役に立つのではないかと思います。
 また、冥想してもなかなか悟ることができないと思っている方も、聴かれるとよいのではないかと思います。
ぱん
2010年02月26日 01:05
おんがえしさん、説法の紹介ありがとうございます。「悟りなんか宝くじと同じで、10000人の中で一人くらいしか成功しないものなのか、それとも、全員が全員、それを目指せば結果が出るのか、教えてください」という質問に対して、スマナサーラ長老が答えている法話でした。私も、八年間も仏教を学んで来たのに、まだ悟りが開けていないので、興味深くその質問を聞かせていただきました。長年学び、努力をしているにもかかわらず、涅槃という結果が得られていないのは、自らの不徳の致すところも多々あるのだろうと思います。最近、オリンピックがやっていますが、努力をしてもなかなか、思うような結果が出ないというのは、よくあることのようです。みな、金メダルを取ることを目標に掲げ、あるフィギュアスケートの選手なんかは、四回転に挑戦し失敗したりなんかもしてました。「八年間もやっているのに悟れない自分はだめだ」と自己否定モードになっているならば、それに気づき平常心を取り戻し、また、「自分は過去にいろいろと遊んできたから、その報いを受けているのだ」という後悔モードになっているならば、それにも気付き平常心に戻る。そして、フィギュアの選手のように、最初の四回転に失敗したことを引きずらずに、演技を最後まで演じきれば、それなりの結果が出るということを教訓にして、スマナサーラ長老がその説法の中でアドバイスなさっているように、柔軟性をもち、現在自分が知っている教えよりも、論理的に正しいと思われる教えを見つけたら、飛びつく。またそれよりもよさそうな教えがあったら飛びつくという、ということをやっていれば大丈夫であるという言葉を参考にして、怒りや欲や焦りが出たらなるべく早くに気付きを入れて平常心に戻るという不放逸と正念の生活に励んで参りたいと思います。
まさこ
2010年11月07日 10:09

私も、今のままではまずいです。夜寝る前と、朝起きてから瞑想できる時間をとり、実行しないといつまでたっても、このままです。私も、説法聞いてみます。
こころざし
2015年08月20日 07:49
冥想をする事で、あーじゃこーじゃ感情が入り思考が回転し妄想に走る・・ような機会が減り、思考を止めてそのままを観るような機会を得られている印象を感じています
少しづつでも智慧が養えるように、精進したいです。
たか坊
2017年01月19日 20:14
今回も明るく楽しく学べた事を嬉しく思います♪

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