153.154.家の作者よ、お前は見られた 二度と家を作りえず

ダンマパダ 第11 老い章 153、154


ナモー タッサ バガワトー アラハトー サンマーサンブダッサ
Namo  tassa   bhagavato  arahato   sammāsambuddhassa
阿羅漢であり正自覚者であり福運に満ちた世尊に敬礼致します


家の作者を探し求め
幾度も生まれて、輪廻の中を
得ることもなく、さ迷った
再三再四の生まれは苦なり

家の作者よ、お前は見られた
二度と家を作りえず
お前の垂木(たるき)はすべて折れ
棟木(むなぎ)も破壊されている
心はすでに無作(むさ)にいたり
渇愛の滅に到達す


(片山一良先生 訳)


○超訳の試み

私は無数の再生を繰り返し
あてどもなく輪廻をさまよってきた
再生の原因を探し求めて
再生は苦しいことだった

お前の正体を見破った
もはやお前は身体を再生させることはできない
心はありのままに知ろうとしない無明を破り
いくら生きても満足しない渇愛が
再生の原因であること見抜き
渇愛を捨て去ったのだから


○子供のためのダンマパダ

シャカ国の王子であったお釈迦さまは
人々の苦しみをなくすために
29歳で出家して、6年間の修行の末に
苦しみをなくすことに成功しました。

その時次のように言いました。
「苦しみの原因が分かったぞ。
生きることは苦しみなのに、
生きたい生きたいと思う気持ちが
苦しみの原因だ。
私にはもう苦しみはない。」

実際の言葉は上の言葉と少し違いますが
内容はだいたい上の通りです。





○一口メモ

 今回の153番と154番はお釈迦さまが、無上なる正覚を得たとき、最初に述べられた歓喜の言葉として有名なものです。日常読誦の際にも、「因縁の教え」の後に必ず唱えます。

 詩の内容は、人間の認識のメカニズムから言うと不可能な発見、悟りを得た過程が述べられてあります。私たちが悟るならば、この過程をたどる必要があるのだと思います。すなわち、主観的な認識のメカニズムである、下のスマナサーラ長老の説法によれば、「生命は知ったつもりでいて、なにも知らないという無明を破って、苦の原因がいつまでも生きていたいという渇愛であることを発見するということであります。

 詩の原文は、片山一良先生の訳にありますように、比喩で書かれていますから、それが何の比喩なのか、書いておきます。

 「家」は身体のこと。「家の作者」は身体を再生させる原因。「垂木」は煩悩。「棟木」は無明。「無作」は形成作用を離れること、すなわち主観から離れること。「渇愛」はいつまでも生き続けたいと思う気持ち。

 この詩の意味は、「超訳の試み」や「子供のためのダンマパダ」を読めは分かると思います。パーリ原文を何度も読んで、お釈迦さまの喜びの気持ちを感じてみて下さい。また、お釈迦さまのこの偉大なる、聖なる発見のおかげで、初めて人類の前に苦から脱出する道が開かれたのです。その有難さは舌筆に尽くしがたいものです。


○スマナサーラ長老のこの詩に関する説法

『知っているつもり』の苦しみ ~エゴと煩悩のメカニズム~
http://www.j-theravada.net/howa/howa70.html


○前回の「この詩から学ぶこと」

アネーカジャーティサンサーラン汝の正体見尽くしにけり
http://76263383.at.webry.info/200904/article_18.html


○パーリ語原文

153.
アネーカジャーティサンサーラン
Anekajātisaṃsāraṃ ,
無数の生涯の輪廻を
サンダーウィッサン アニッビサン
sandhāvissaṃ     anibbisaṃ;
流転した       見出すことなく
ガハカーラカン ガウェーサントー
Gahakārakaṃ   gavesanto,
家の作者を   探し求めて
ドゥッカー ジャーティ  プナップナン
dukkhā    jāti      punappunaṃ.
苦      生は     再三再四の

154.
ガハカーラカ ディットースィ
Gahakāraka   diṭṭhosi,
家の作者よ  お前は見られた
プナ ゲーハン ナ カーハスィ
puna  gehaṃ   na  kāhasi;
再び  家を  ない 作ら
サッバー テー   パースカー バッガー
Sabbā    te     phāsukā    bhaggā,
すべての お前の  梁は     壊れた
ガハクータン ウィサンカタン
gahakūṭaṃ   visaṅkhataṃ;
家の屋根は  構成力を離れた
ウィサンカーラガタン チッタン
Visaṅkhāragataṃ    cittaṃ,
構成力を離れた    心は
タンハーナン カヤマッジャガー
taṇhānaṃ     khayamajjhagā.
渇愛を      滅尽に到達した 


○詩のパーリ語について。100番からは正田大観先生を中心に行われました関西のダンマパダ輪読会の時の御自分のノートを参考にして、木岡治美様がわざわざ書き下ろしたものを私に送って下さいました。それを参考にさせて頂いております。

〇慈悲の瞑想

~私は幸せでありますように~
~私の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の願いごとが叶えられますように~
~私に悟りの光が現れますように~
~私は幸せでありますように(三回)~

~私の親しい人々が幸せでありますように~
~私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の親しい人々の願いごとが叶えられますように~
~私の親しい人々にも悟りの光が現れますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように(三回)~

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~

~私の嫌いな人々も幸せでありますように~
~私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように~
~私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように~

~私を嫌っている人々も幸せでありますように~
~私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように~
~私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように~

~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~


(この慈悲の瞑想を唱える人には必ず幸せが訪れます。)

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この記事へのコメント

2010年02月26日 04:00
ワンギーサさん、おはようございます。当然のことながらよく分かりません。しかし「不殺生戒」の理解が自分なりに深まりました。生命はだれでも生き続けたいと思っている。同じ生命であるなら、他の生命の生きる権利を守る義務が生じます。問題は、今の日本社会では潜在化してますが、背に腹をかえられないという状況、相手を殺さなければ自分が死ぬという状況での「不殺生」の意味だと思います。「そこまでして生き延びることに特別な重大な意味があるのか?」という問いかけはどうでしょう。単に「何が何でも生き延びたい」という衝動だけで、殺し合い、戦争、核兵器開発、環境破壊を引起してます。その結果、皮肉にも死に至り、生きるのがしんどい世界になり、逆に寿命が縮まったりします。これは明らかな矛盾です。この矛盾を根本的に解決するには「悟り」ということかもしれませんが、現にこうして生きている以上、「共存」で生きるしかありません。仏道とは「不殺生戒」にはじまり「不殺生戒」の完成で終わるのかな、とも思いました。有難うございました。
まさこ
2010年11月08日 07:09

本当に、そんなにまでして、自分を守らなくても、いいのですね。どうやっても、生きていることは苦しいのですものね。
こころざし
2015年08月21日 07:29
無明がベースにあり、そして渇愛を満たそうとして輪廻転生を繰り返す事は、実生活で生き続けたい・○○を得たいの状態が常態的にある事から察するものがあります。
ですが、教えて頂けなければ、自分では100%気付けないと思います。
智慧を持てるよう努力し、そしてそんな苦しみから脱したいです。
たか坊
2017年01月21日 22:47
今回も明るく楽しく学べたことを嬉しく思います♪

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