155.156.かれらは過去のことを嘆き折れた矢のように臥す

ダンマパダ 第11 老いの章 155,156


ナモー タッサ バガワトー アラハトー サンマーサンブダッサ
Namo  tassa   bhagavato  arahato   sammāsambuddhassa
阿羅漢であり正自覚者であり福運に満ちた世尊に敬礼致します


若いときに財を得ず
梵行に励むこともない
かれらは魚が尽きた池の
老鷺のように消え失せる

若いときに財を得ず
梵行に励むこともない
かれらは過去のことを嘆き
折れた矢のように臥す


(片山一良先生 訳)

○超訳の試み

若いとき心を育てず働かず
その人老いて嘆き悲しむ
魚のいない沼にいる
やせ衰えた鷺のように 

若いとき心を育てず働かず
その人老いて嘆き悲しむ
昔はよかったなと
使い古された弓矢のように


○子供のためのダンマパダ


子供の時に勉強しないで
道徳も守らないならば
みじめな大人になっているか
生きているかもわからないよ






○一口メモ

 仏教では、よく働いて、お金持ちになることも、たくさん勉強して、知識人になることもあまり高くは評価しないのです。いくらたくさんお金をためても、たくさん知識をためこんでも、それらは死ねば捨て去るのみで、なにもその人には役には立たないのです。しかし、心を育てるならば、いつまでもその人の役にたちます。死んでも役にたつのです。

 心を育てるとは、慈悲喜捨の心と智慧を育てることです。慈悲喜捨の心は、このブログ内の検索で調べれは、いろいろな詩の解説記事で書いてあると思いますが、以下に簡単に述べて見ます。

 慈の心とは、友情の心です。人々が幸せであるように思う気持ちです。怒りのない心です。悲の心は、困っている人を助けようという気持ちです。

 喜の心とは、他人の喜びを自分の喜びのように感じられる心です。嫉妬のない心です。人間はけっこう嫉妬心があり、他人の喜びをいっしょによろこべないものです。

 捨の心は、差別のない心、なにごとも平等に見ることができる心です。これらをまとめて慈悲喜捨の心と言います。これらの心は毎日このブログの最後に掲載している慈悲の瞑想によってで養成できます。

 最後は智慧です。これはありのままに見ること、認識できる能力です。これはヴィパッサナー瞑想で養成できます。慈悲喜捨の心と智慧は、限界なく無量に育てることができるのです。

 心を育てることは、その必要性に気がついたら始めればよく、始めるのに遅すぎたということはないのですが、早く始めるのに越したことはあるません。若い時ときから始めれは、心は育てやすいのです。悪い癖があまり付いてませんから。歳をとるとどうしても悪い癖が付いています。その癖を直してから、心を育てなければなりません。悪い癖とは、例えば疑り深くなっているのです。慈悲の瞑想をやりなさいと言われても、それが本当に効果があるのかなと思ったりします。疑いがあると真剣に慈悲の瞑想ができないということがあるのです。

 この詩のように、「梵行に励むこと」とは「心を育てる」ということですが、心を育てることもなく、仏教では高く評価しない、お金を儲けることも、知識を得ることもしないのであれば、みじめな結末になることは火を見るより明らかなことです。このブログを読んでいる方の中には私のように、老人もおられるでしょうが、若い人はもちろん老人も心を育てることに真剣に挑戦しましょう。


○スマナサーラ長老のこの詩に関する説法

「社会が認めるのはどのような人か」~道徳が支える人生に後悔なし~
http://www.j-theravada.net/howa/howa71.html


○前回の「この詩から学ぶこと」

若い時こころ育てず働かずその人老いて嘆き悲しむ
http://76263383.at.webry.info/200904/article_19.html

○パーリ語原文

155.
アチャリトゥワー ブラフマチャリヤン
Acaritvā       brahmacariyaṃ,
行わない      梵行を
アラッダー ヨッバネー  ダナン
aladdhā   yobbane     dhanaṃ;
得ないで 青年において 財産を
ジンナコーンチャーワ ジャーヤンティ
Jiṇṇakoñcāva        jhāyanti,
老いた白鷺のように   消える
キーナマッチェーワ パッラレー
khīṇamaccheva     pallale.
魚のいない まさしく 沼おける
156.
アチャリトゥワー ブラフマチャリヤン
Acaritvā       brahmacariyaṃ,
行わない      梵行を
アラッダー ヨッバネー  ダナン
aladdhā   yobbane     dhanaṃ;
得ないで 青年において 財産を
セーンティ チャーパーティキーナーワ
Senti      cāpātikhīṇāva,
横たわる   捨てられた弓のように
プラーナーニ アヌットゥナン
purāṇāni     anutthunaṃ.
過去のことを  嘆き悲しむ

○詩のパーリ語について。100番からは正田大観先生を中心に行われました関西のダンマパダ輪読会の時の御自分のノートを参考にして、木岡治美様がわざわざ書き下ろしたものを私に送って下さいました。それを参考にさせて頂いております。

〇慈悲の瞑想

~私は幸せでありますように~
~私の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の願いごとが叶えられますように~
~私に悟りの光が現れますように~
~私は幸せでありますように(三回)~

~私の親しい人々が幸せでありますように~
~私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の親しい人々の願いごとが叶えられますように~
~私の親しい人々にも悟りの光が現れますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように(三回)~

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~

~私の嫌いな人々も幸せでありますように~
~私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように~
~私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように~

~私を嫌っている人々も幸せでありますように~
~私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように~
~私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように~

~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~


(この慈悲の瞑想を唱える人には必ず幸せが訪れます。)

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この記事へのコメント

2010年02月27日 04:14
ワンギーサさん、おはようございます。大局的にもそうですが、小局的にもそうだと思いました。知識も財産(お金)が無用な時、心を育てる重要性を感じます。例えば、独りで自室にいる時など、知識もお金も無用ですが、心が激しく暴れていると幸福感が全くありません。特に「心」の重要性を感じたら、その時それは本心なのでしょう。私の場合、そんな時かなり素直に仏教を勉強したり実践したりできます。そして徐徐に「どうせなら最初から心を育てよう」という気になってきます。それは日々の修行ということですが、「もうわかった!」と思わないことが重要のように思います。「わかっています」と言った時、理解への扉は閉ざされます。有難うございました。
トム
2010年02月27日 06:00
金はあれば余計な欲が出て、なければふがいない自分に腹が立って。知識もあればエラソウに、なければ卑屈に感じ。結局、おだやかな気持ちにはなりません。時々それに気づくのですが。又、欲に基づいて知識や金の算段をしている自分にも気づきます。このへんをグルグル回っているようです。
ぱん
2010年02月27日 06:05
おはようございます。今朝早くに目が覚めると、朝まで生テレビが放送されていたので、30分ほど拝見いたしました。今日は若い起業家たちが集まっていました。私と同年代の金持ちたちの話でした。彼らはものすごくお金持ちで、名声もあり、社会人として私よりもはるかに上の境地であることのでしょう。また、私が目標としている静かな語り口の東大教授の姜尚中さんも出演されていました。50代、60代になる頃には、あれくらい落ちついていたいと思います。姜さんが自らの著書の中でも引用しているエーリッヒ・フロムの『愛するということ』という本などを読み、また、慈悲の瞑想をすることによって、ダンマパダの教えを学ばせていただくことを通して、慈悲の心を育ててゆきたいです。
チヨ
2010年02月27日 06:25
ワンギーサさん、こんにちは。毎日毎日、大切な教えをたいへんわかりやすく書いてくださってありがとうございます。日々の実践の励みになります。


頭でっかち
2010年02月27日 08:44
おはようございます。ワンギーサ先生。
私が学生のころ、親しく教えていただいた先生が、あるテーマについて私に質問され、私が答えると「なるほど。面白い。テーマをこのように見ているね。」といっていただきました。
それから数ヶ月たって、先生が同じ質問をされたとき同じように答えると「あっそう。」といって、別の話題に入られました。
この答えなら正解ということではなくて、常に照らし合わせて研究しろということだったのではないかなあと考えています。
仏教はまさにそんな勉強を自分を使っていつでもできるのがすばらしいと思います。その分、思い知ることが多いのですけど、その馬鹿さ加減が本当の姿だから面白いです。
まさこ
2010年11月09日 09:25

今からでも頑張るしかない。これからでも、がんばります。
こころざし
2015年08月21日 07:38
道徳を守る大切さは分かっても、心を育てた方が良い大事さの理解はなかなか世間で通じない印象を感じています。
それが通じるのは、何かしらでダメージを受け、なんとか這い上がろうとしている方、との経験があります。
また、今の自分に満足している方・自分はみない方も、自覚出来難い印象があります。
まずは自分のこころを成長させれるように努めて参りたいです。
たか坊
2017年01月23日 00:20
今回も明るく楽しく学べた事を嬉しく思います♪

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