158.まずは自己を第一にふさわしきものに調えよ

ダンマパダ 第12 自己の章 158

ナモー タッサ バガワトー アラハトー サンマーサンブダッサ
Namo  tassa   bhagavato  arahato   sammāsambuddhassa
阿羅漢であり正自覚者であり福運に満ちた世尊に敬礼致します


まずは自己を第一に
ふさわしきものに調えよ
それより他者を教誡すれば
賢き者は汚れることなし


(片山一良先生 訳)


○超訳の試み

第一に自分が
正しい行いをして
次に他人を教育すべきだ
そうすれば賢者は非難されない


○子供のためのダンマパダ

車道に出て
「車道に出ないように」と
言っている君
車に引かれそうだよ





○一口メモ

 けっこう、人間は教えるのが好きです。教えて下さいと言わないのに教えようとします。そして嫌われるのです。教えられる人はありがた迷惑なのです。私もその傾向があるのです。このブログを書いているのもこの傾向の表れかもしれません。出家はお釈迦さまの教えを人々に伝えるという仕事があるので行っているのですが、教えたいという気持ちについては注意が必要です。相手が受け入れたくないのに、いくら教えようとしても無駄な努力ですし、それこそ迷惑なのです。

 ではなぜ、そんなに教えたいのでしょうか?(一部には本当に教えるのが嫌いな人もいますが、今回はその話しはおいておきます。)私は自分を認めてもらいたいという気持ちが、教えたいの第一理由だと思います。次は相手に対する優越感を持ちたいという理由があるでしょう。つまり、自分という存在は、相手に認めてもらわなければ、落ちつかなほどの危うい存在なのでしょう。なんとか自分の存在意義を感じようとしているのです。そのことが、自覚できれば、無理に教えようとなどしないはずです。親が自分の子供を教えようとするのは、自分の子供と自分と同一化しているので、自己愛の一つの形態でしょう。

 以上のことを踏まえて、基本的には、他人に教えることよりも、自分の行いを正すということが第一です。以前、スマナサーラ長老の「世直しよりも、自分直し」という言葉を引用しましたが、今回は「他人直しよりも、自分直し」ということになります。この内容はダンマパダの50番に述べられていることで、仏教の基本的な態度です。

 しかし、社会的に、他人を指導する、教える立場の人々はいます。例えば、学校の先生、会社では会社の上司、僧侶や政治家なども、指導する立場であるときがあります。その時は教えなけれなりません。その時は教えること、指導する内容について、自分が知っている、実践できてる必要があるのです。そうでなければ、教えられる人々、指導される人々は、指導者を信頼できません。

 教えたり、指導する立場でない人は「他人直しより、自分直し」です。今回のこの詩では、賢者について述べているので、社会的に指導すべき立場でないならば、賢者のみが他人を指導できると考えた方がいいのではないかと、私は考えています。賢者ならば、他人を指導すべきか否かも分かると思うからです。ちなみに僧侶は賢者でなくとも、仏教を教える役割があります。

 最後になりましたが、このメモで述べなかった指導における説得力のポイントについて、スマナサーラ長老の説法に詳しく述べられてありますので、そちらも是非お読み下さい。


○スマナサーラ長老のこの詩に関する説法

「守る気になれない道徳」 ~説得力を持たない道徳は無意味です~
http://www.j-theravada.net/howa/howa73.html


○前回の「この詩から学ぶこと」

第一に自分が実践二番目に他人を指導これが原則
http://76263383.at.webry.info/200904/article_21.html


○パーリ語原文

158.
アッターナメッイェーワ パタマン
Attānameva        paṭhamaṃ,
自己を こそ        第一に
パティルーペー ニウェーサイェー
patirūpe       nivesaye;
ふさわしく     確立する
アタンニャマヌサーセッヤ
Athaññamanusāseyya,
次に 他人を 訓戒するように
ナ  キリッセッヤ パンディトー
na   kilisseyya   paṇḍito.
ない 汚れない   賢者は



○詩のパーリ語原文の訳について。100番からは正田大観先生を中心に行われました関西のダンマパダ輪読会の時の御自分のノートを参考にして、木岡治美様がわざわざ書き下ろしたものを私に送って下さいました。それを参考にさせて頂いております。

〇慈悲の瞑想

~私は幸せでありますように~
~私の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の願いごとが叶えられますように~
~私に悟りの光が現れますように~
~私は幸せでありますように(三回)~

~私の親しい人々が幸せでありますように~
~私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の親しい人々の願いごとが叶えられますように~
~私の親しい人々にも悟りの光が現れますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように(三回)~

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~

~私の嫌いな人々も幸せでありますように~
~私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように~
~私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように~

~私を嫌っている人々も幸せでありますように~
~私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように~
~私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように~

~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~


(この慈悲の瞑想を唱える人には必ず幸せが訪れます。)

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この記事へのコメント

高橋優太
2010年02月28日 22:21
ワンギーサ先生、こんばんは。
仏教の教えを他人事のように考えるのではなく、常に自分のことを言っているのだと思い、自分の行動・思考に仏教の教えを照らし合わせてみるようにします。僕も人にうるさくものを教える性格が強いですが、今までの態度をみるとかなり傲慢でした。自分もあまり勉強していないのに勉強しろと言ったり、嘘をついているのに嘘をつくのは悪いと言ったり・・・自分ができないこと・納得していないことを人に教えることはできないし、まず自分で実践しなければ!!とやる気をいただきました。ありがとうございます。
1951男
2010年03月01日 00:17
教えたいという気持ちについてコメントします。
自分がずーと疑問に思っていたこと、悩んでいたこと、誤解していたこと、錯覚していたことについての出口を発見したとします。
自分の近しい人々が同じ迷路にはまっていくのを、見す見す無関心に見過ごせないということがありましょう。
黙っている方が良いと言える自信がある場合は例外ですが、わかってるなら教えてあげることはプラスに考えていいと思います。
サッカー競技場の急な階段通路で、ほとんどの人がつまづく箇所の横に座ってたことがあります。
一段だけ段差の高さが違うので、気がつかないまま激しくつまづきます。飲み物食べ物を持ったまま歩く人も多くて、けっこう危険です。みなさん決まって同じようにつまずいて振り返って驚きます。笑って見ていてもいいのですが、さてどうしますか。(これ実話です)
2010年03月01日 04:15
ワンギーサさん、おはようございます。ここで問題となっているのは「道徳、生き方」だと思います。それには相手は「正しい」と思っているので、注意してかからないと火傷します。しかしよく注意してみれば、日常の何気ない会話も「教え合い」の連続と言えます。自分が知ってる情報を相手に伝えている場合というのは結構あります。それに目くじらをたてるほどのことはないと考えてます。ある日、駅で携帯を落としたら親切にも通りがかりの方が教えてくれました。昨日、あるところで傘を忘れそうになったので教えてあげたら、大変喜んでいる様子でした。ところで中学の時、ある英語の先生に「語学をマスターするには人に教えることだ。世界中の言語をマスターした人物は授業料を自ら払って相手を雇い、その相手に教えることで、言語をマスターしたのだから」と教わりました。確かに、教えることで自分の知識が整理整頓され、不明な点が明らかになるメリットがあります。色々な「教える」があるのだと思います。有難うございました。
ワンギーサ
2010年03月01日 07:50
高橋雄太さん、1951男さん、新さん、おはようございます。

1951男さんへ。
 あなたが発見した出口が正しいとは言えないので、もし間違った出口だったら、教えられた人は迷惑します。
 また、新さんがコメントで書かれたように、こので問題にしていることはサッカー競技場の急な階段通路の問題ではないのです。仏教で問題にしていることは、心と関係がない事柄について書かれていても、いつも心の問題なのです。それをお忘れなく。
1951男
2010年03月01日 10:33
新さんへ
日常の何気ない会話も「教え合い」の連続というお話し、なるほどと思いました。
ワンギーサさまへ
テーラワーダ仏教が伝え続けている教えに、自分は確信があるのですが、自分の理解が間違っていると疑い、ごく近しい人に対しても、テーラワーダ仏教をすすめないということがなかなかできません。たぶん少々迷惑しているのでしょう。
ワンギーサ
2010年03月01日 12:26
高橋優太さん、上のコメントで、高橋雄太と書いてしまいまして、すみません。コメントはブログ管理者も変更できませんので、ここで謝罪致します。
まさこ
2010年11月10日 19:49

まず、自分ですね。頑張ります。
こころざし
2015年08月22日 07:49
本文を拝見し、他人の事は良く見ていてあーじゃこーじゃ言いますが、自分の欠点や反省点は見ようとしない人の理由が分かったように思いました。自分が優越感を持てる事で気持ちが良くなったり・安心するのかなと感じます。
まずは自分の心を成長させるように、外に視点が走っていかないように戒めたいです。
たか坊
2017年01月24日 20:44
今回も明るく楽しく学べたコトを嬉しく思います♪

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