128.死が征服しない場所は世界のどこにもない

ダンマパダ 第9 悪の章 128

ナモー タッサ バガワトー アラハトー サンマーサンブダッサ
Namo  tassa   bhagavato  arahato   sammāsambuddhassa
阿羅漢であり正自覚者であり福運に満ちた世尊に敬礼致します

大空になし、大海になし
山の洞(ほら)に入るともなし
死が襲うことのない場所は
世界のどこにも見られない


(片山一良先生 訳)


○超訳の試み

空中や、海中や
山の洞窟に入ろうとも
死が征服しない場所は
世界のどこにもない


○子供のためのダンマパダ

君は死んだ動物を知っていますか
生まれた生命は必ず死にます
お父さんもお母さんも君も
死なない生命はありません





○一口メモ

 今回の詩ものんきに読まないで下さい。「そうだ。そうだ。」と読んでしまうと、釈尊の教えが分からないということになります。今回の詩の意図は「子供のためのダンマパダ」で述べたことだと思います。どうでしょうか、このような詩を子供に読ませていいのだろうかと批判・非難される方もおられかと思います。先日、このような話を子供にして、家族や周りの大人に批判されたお母さんのことを聞きました。

 「生まれた者は必ず死ぬ」という無常の教えの究極のところを、私たちは実は抵抗なし受け入れられないのです。この事実を、抵抗なく受け容れることができれば、「私が、私が」という自己主張がなくなり、他の人との争いがなくなります。善い意味で「どうせ死ぬのだから」、ほとんどのことがらは大したことではなくなります。こだわる必要がなくなります。こだわり、執着がなくなれば、悩みや苦しみがなくなります。悩み苦しみがなくなるということは涅槃に近づいているということでしょう。

 「生まれた者は必ず死ぬ」という無常はなかなか受け入れられないことですから、その真理を心底理解し、受け入れるために、ヴィパッサナー瞑想を実践する必要があるのです。

 また、子供のためのダンマパダに戻れば、必ず死ぬ生命だから、生き物を慈しみ、殺してはいけないのだと教えてる必要があります。また、生きている一日一日は大切で、無駄に過ごしてはいけないのです。無駄な生き方をせず、価値ある生き方をする必要があるのです。価値ある生き方とは、心を育てること、人格を向上させること、涅槃を目指す生き方なのです。


○スマナサーラ長老のこの詩に関する説法は、日本テーラワーダ仏教協会のホームページには残念ながらありません。

○前回の「この詩から学ぶこと」

空中も海水中も山中も死なない場所はどこにもないよ
http://76263383.at.webry.info/200903/article_31.html


○パーリ語原文

128.
ナ  アンタリッケー ナ サムッダマッジェー
Na   antalikkhe   na   samuddamajjhe,
ない 空中に    ない  大海の 中に
ナ  パッバターナン ワイワラン パウィッサ
na   pabbatānaṃ    vivaraṃ   pavissa;
ない 山の        洞窟に   入っても
ナ  ウィッジャティ ソー ジャガティッパデーソー 
Na   vijjati      so   jagatippadeso,
ない 見出さ    彼は  世界の地方

ヤッタッティタン  ナッパサヘッヤ マッチュ
yatthaṭṭhitaṃ     nappasaheyya   maccu
そこに立てる者を  征服しない   死が

○パーリ語原文

127.
ナ  アンタリッケー ナ サムッダマッジェー
Na   antalikkhe   na   samuddamajjhe,
ない 空中に    ない  大海の 中に
ナ  パッバターナン ワイワラン パウィッサ
na   pabbatānaṃ    vivaraṃ   pavissa;
ない 山の        洞窟に   入っても
ナ  ウィッジャティ ソー ジャガティッパデーソー 
Na   vijjati      so   jagatippadeso,
ない 見出さ    彼は  世界の地方
ヤッタッティトー  ムンチェッヤ パーパカンマ
yatthaṭṭhito      muñceyya   pāpakammā.
そこに立てる者が 逃げ出せる 悪い行為から

○詩のパーリ語について。100番からは正田大観先生を中心に行われました関西のダンマパダ輪読会の時の御自分のノートを参考にして、木岡治美様がわざわざ書き下ろしたものを私に送って下さいました。それを参考にさせて頂いております。

〇慈悲の瞑想

~私は幸せでありますように~
~私の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の願いごとが叶えられますように~
~私に悟りの光が現れますように~
~私は幸せでありますように(三回)~

~私の親しい人々が幸せでありますように~
~私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の親しい人々の願いごとが叶えられますように~
~私の親しい人々にも悟りの光が現れますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように(三回)~

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~

~私の嫌いな人々も幸せでありますように~
~私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように~
~私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように~

~私を嫌っている人々も幸せでありますように~
~私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように~
~私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように~

~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~


(この慈悲の瞑想を唱える人には必ず幸せが訪れます。)

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この記事へのコメント

2010年02月08日 04:09
ワンギーサさん、おはようございます。難しくもあり、微妙でもあり、と思いました。「死を受け入れました」という場合、もしかすると輪廻を肯定してるかもしれないからです。これだと、邪見のひとつの常住論と紙一重のような。よくよく「心」を観察する必要があるかと思います。「渇愛」が滅するまで頑張ります。有難うございました。
ワンギーサ
2010年02月08日 04:24
新さん、おはようございます。
人のことはどうでもいいのです。自分自身がどうか問題にしてください。意味がわかりますか。自分が輪廻を受け入れてないから死を受け入れていないのですか?
2010年02月08日 05:11
ワンギーサさん、おはようございます。ご指摘有難うございます。「存在欲、生存欲」が特にあります。それを何とかしたいです。有難うございました。
ぱん
2010年02月08日 07:47
おはようございます。最近、「日々是好日経」を勉強いたしております。その経典に、明日死ぬかもしれないのだから、今日努力をすべきだ。そうすれば、死の大軍に煩わされることがない、と書かれています。お釈迦様はさまざまな経典の中で、死という無常の真理を教えているのだと、今日のダンマパダを読ませていただき、理解いたしました。幼い頃、祖父が、生々しい頭蓋骨の絵を私に見せてくれました。非常にショックでしたが、今から思うと、祖父は無常を教えたかったのかもしれません。また、正月早々、「門松は冥土の途の一里塚目出たくもあり目出たくもなし」と唱えながら、シャレコウベを高く掲げながら、京都の市中を歩き回った一休禅師も、死という真理を一丁目一番地にすべきなのだと、教えたかったのかもしれません。私もよく考えてみると、死ということを、他人事として見ていたようです。ワンギーサさんが今日の記事に書いているように、一日一日をムダにせず、価値ある生き方をしてゆきたいと思いました。
1951男
2010年02月08日 13:18
生きていたくないと思うのは病気です。その思いは邪思惟になりましょう。自然な生存欲を否定しなさいという教えは仏教にはないと思います。
しがみつくこと、執着することから離れなさいということでしょう。自然な生存欲は慈悲喜捨の心の基本です。
生存欲がある内は楽しく上手に修行しながら生きて行けばいいと思っています。覚りに近づけば自然に生存欲が薄れていて生存する必然性がなくなってゆくのだと理解しています。
こころざし
2015年08月15日 07:47
高校生の時、親が何時も元気で健康でいて、子供は養ってもらえて当たり前・・と違う時がある事を同級生から学びました。その子の母親は乳癌で入退院を繰り返した後、授業中に他界されました。
死なずにいれる状況が当たり前と思っていると、そうでない時の動揺は激しいと思います。
事実をしっかり見つめて、必要な事を学び、心を成長させれるように、そして身近な人や自分が死ぬ状況になっても動揺が少ないように精進したいです。
たか坊
2016年12月04日 20:43
今回も明るく楽しく学べたコトを嬉しく思います♪

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