129.130. 殺してはならぬ、殺させてはならぬ

ダンマパダ 第10 暴力の章 129、130

ナモー タッサ バガワトー アラハトー サンマーサンブダッサ
Namo  tassa   bhagavato  arahato   sammāsambuddhassa
阿羅漢であり正自覚者であり福運に満ちた世尊に敬礼致します

すべての者は鞭に怯える
すべての者は死に怯える
自分のことに引きあてて
打ちつけるな、打ちつけさせるな

すべての者は鞭に怯える
すべての者に命は愛しい
自分のことに引きあてて
打ちつけるな、打ちつけさせるな


(片山一良先生 訳)


○超訳の試み

すべての者は暴力におびえる
すべての者は死を恐れる
自分がなされたらと思って
殺してはならぬ、殺させてはならぬ 

すべての者は暴力におびえる
すべての者には命は愛しい
自分がなされたらと思って
殺してはならぬ、殺させてはならぬ


○子供のためのダンマパダ

ぶたれるのは嫌だよね
殺されのは怖いよね
だからどんな生き物も
いじめてはいけないよ
殺してはいけないよ

ぶたれるのは嫌だよね
自分が一番好きだよね
どんな生き物もそうだから
いじめてはいけないよ
殺してはいけないよ





○一口メモ

 仏教の五戒の一番目は「生き物を殺さないという戒めを受けて守ります。」です。なぜ、生き物を殺してはいけないのかという問いに、お釈迦さまは明確にこの二つの詩で説いておられます。

 「自分が殺されたら」と考えて下さいということです。「自分は殺されたくない」という答えは明確に出てきます。すべての生き物は「生きていたい」という強い本能を持っています。自分が殺されたくないのならば、他の生き物を殺してはいけないのです。自分は殺されたくないが、他の生き物は殺してよいと理屈は成り立ちません。自分が他の生き物の命を守ることで、自分の命が守られるのです。

 この考え方について、スマナサーラ長老の説法で詳しく解説されて是非そちらもお読み下さい。

 一言説明を付け加えれば、この詩では単に、「殺してはいけない」だけでなく、「殺させてはいけない」と書かれています。仏教では、行為を身体でする行為、口で話す行為、頭で思うことも行為であると考えています。ですから、「殺せ」と人に命令して、殺させた場合でも、自分が殺したのではないといい逃れられないのです。また、殺したいと思うことも罪になるのです。そのため、わざわざ、「殺させてはいけない」と書いてあるのです。

 さらに、前の129番の詩とあわせて考えると、すなわち、「生まれてきた者は必ず死ぬ」運命にある生き物を殺すということは、何なのかも考えてほしいと思います。

 以上、殺すという言葉で書いてきましたが、暴力やいじめも殺すと同じことなのです。


○スマナサーラ長老のこの詩に関する説法

129.なぜ殺してはいけないのか ~人類の歴史は流血の歴史です~
http://www.j-theravada.net/howa/howa53.html

130.131.続・なぜ殺してはいけないのか ~殺意は無知から生まれる~
http://www.j-theravada.net/howa/howa54.html


○前回の「この詩から学ぶこと」

人々は死ぬこと恐れるそれゆえに殺してはならぬ殺させてはならぬ
http://76263383.at.webry.info/200904/article_1.html


○パーリ語原文

129.
サッベー    タサンティ ダンダッサ
Sabbe       tasanti    daṇḍassa,
すべての者は 震える    棒に
サッベー    バーヤンティ マッチュノー
sabbe       bhāyanti     maccuno;
すべての者は 恐怖する    死に      
アッターナン ウパマン カトゥワー
Attānaṃ    upamaṃ   katvā,
自己を    例えと    して
ナ ハネッヤ ナ  ガータイェー
na  haneyya  na  ghātaye.
な 殺す    な 殺させる

130.
サッベー    タサンティ ダンダッサ
Sabbe       tasanti    daṇḍassa,
すべての者は 震える    棒に
サッベーサン ジーウィタン ピヤン
sabbesaṃ     jīvitaṃ    piyaṃ;
すべての者は 恐怖する    死に
アッターナン ウパマン カトゥワー
Attānaṃ     upamaṃ  katvā,
自己を    例えと    して
ナ ハネッヤ ナ  ガータイェー
na  haneyya  na  ghātaye.
な  殺す   な 殺させる

○詩のパーリ語について。100番からは正田大観先生を中心に行われました関西のダンマパダ輪読会の時の御自分のノートを参考にして、木岡治美様がわざわざ書き下ろしたものを私に送って下さいました。それを参考にさせて頂いております。

〇慈悲の瞑想

~私は幸せでありますように~
~私の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の願いごとが叶えられますように~
~私に悟りの光が現れますように~
~私は幸せでありますように(三回)~

~私の親しい人々が幸せでありますように~
~私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の親しい人々の願いごとが叶えられますように~
~私の親しい人々にも悟りの光が現れますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように(三回)~

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~

~私の嫌いな人々も幸せでありますように~
~私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように~
~私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように~

~私を嫌っている人々も幸せでありますように~
~私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように~
~私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように~

~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~


(この慈悲の瞑想を唱える人には必ず幸せが訪れます。)

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この記事へのコメント

2010年02月09日 03:49
ワンギーサさん、おはようございます。「私は幸せでありますように」自己愛をしっかり確認することがまずは大切ですね。私はいつか死にますが、寿命を全うする権利があります。それを奪われたくはありません。だから、全ての生命は死すべきものですが、その寿命を全うする権利を奪う権利は私にはありません。ところで、世直しより自分直しですが、とても窮屈な世の中になったとつくづく感じます。マンションのセキュリティも尋常ではありません。近所の小学校の通学路も穏やかではありません。「殺しません」。これだけ守れば、かなり穏やかに人と人が信頼しあえる世の中になるように思えてなりません。とても生きやすいでしょう。それは、誰にとっても、全ての生命にとっても幸福なことです。「私は幸せでありますように」。とても深~い意味があるように理解してます。有難うございました。
1951男
2010年02月09日 11:28
弱肉強食、競争社会、適者生存、敵と戦い生き残ること、を率直な基本原理としている人々に対して、なぜ殺してはいけないかを理論的に説明できていないように思います。敵が嫌がることをするのがゲームであり、商売であり、人生は戦いだと思ってる人々を説得できていないと思います。
仏教の基本的な教えをそのとおりだと思えない人であっても、「なるほど人を殺してはいけないのだ」と理解できる理屈がどこかにあると思わないほうがよいかもしれません。他の生命を害したら、殺したら、自分が苦しみ、相手が苦しみ、まわりの人々が苦しむことを理解すると言うことは仏教がわかると言うことです。仏教に親しむことが答えだと思います。
パッキー
2010年02月09日 17:35
世界には様々な考えがあるでしょう。それも「生きているからこそ」ですね。
不戦勝という勝ちがあります。絶対ゲームに勝つまならこれしかありません。
サッカーにしろ野球にしろ、相手がいてこそ面白いのです。
だからやはり「殺していい」は論理的には破綻しています。
たま
2010年02月09日 22:19
ワンギーサさん、1951男さん、新さん、パッキーさん、こんばんは。
1951男さんへ
道徳の前提には、「生き物は誰しも幸せになりたい」→「ではどうすれば?」という問いがあると思います。
弱肉強食等等が正しいと思っている人だって、「じゃあどっちが幸せですか?」と聞いたら答えは決まってると思います。
1951男さんは、もしかするとご自身も完全には納得されていないのかなーと思いましたが・・・妄想。まずは自分がしっかりするようにがんばります。
生きとし生けるものが幸せでありますように
1951男
2010年02月10日 01:01
たま様へ
ご心配なく、私は大丈夫です。
大丈夫ではない人たちと話をする時に、理屈では無理でしょうと言いたかったのです。
「生き物は誰しも幸せになりたい」→「ではどうすれば?」という発想があるならもうOKです。
その発想をしたがらない人々でも「なるほど」と思ってもらうのに、理論的アプローチは無理があると思うのです。因みに、ウ・コーサッラさんのおっしゃるとおり、テーラワーダ仏教は宗教でよろしいと思います。理論的に殺してはならない説明をするより、全ての生命が自分と同じように幸せであって欲しいと感じる心は、宗教としての説明でいいのだと思います。宗教であることを避ける必要はどこにもありません。
私はとても幸せです。みなさまもどうぞお幸せでありますように。
こころざし
2015年08月15日 07:51
これまでの人生で、自分に害を及ぼす事が出来ない弱い人を選んで、ストレス発散でイジメるような人を見た事があります。そのような生き様からか、その人は心が明るいとは逆の印象を感じました。
自身を内観し、自分が嫌に思う事は他の生命も嫌に思う事なのでやらない、との姿勢で生きれるように努めたいです。
たか坊
2016年12月06日 19:38
今回も明るく楽しく学べたコトを嬉しく思います♪

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