159. 実践した者は他者を指導できる

ダンマパダ 第12 自己の章 159

ナモー タッサ バガワトー アラハトー サンマーサンブダッサ
Namo  tassa   bhagavato  arahato   sammāsambuddhassa
阿羅漢であり正自覚者であり福運に満ちた世尊に敬礼致します

他者を教誡するように
自己に対して行えば
調御者として調御しえよう
自己は実に調御しがたい


(片山一良先生 訳)


○超訳の試み

他人に指導するように
自分も実践すべきだ
実践した者は他者を指導できる
自分を制御することは難しいから


○子供のためのダンマパダ

タバコを止めた
先生の言うことならば
「タバコはやめろ」と言われても
聞く気になるよね





○一口メモ

 今の世の中は、本物を見つけにくい時代なのかもしれない。

 昔は、本物の情報を求めて、三蔵法師は中国から天竺まで命をかけて出かけ、日本でも正法を求めて何人もの僧侶が中国まで渡っていきました。途中で命を落とした方もおられたのです。日本国内でも必要な情報があると聞けば、江戸から長崎まで歩いて、何日もかけて出かけていったのです。逆に関東の浄土真宗の信徒が京都の親鸞聖人にその真意を聞くために出かけ、歎異抄ができたとも聞きます。

 今ではインターネットが普及し、ツイッターなども始まり、世界の情報が刻々と分かるような時代になっているようです。先日、ツイッター検索などを行って見たら、鳩山首相のつぶやきどころか、ダライ・ラマの声まで即刻フォローできるようになっています。

 しかし、今では情報がありすぎて、まったく何が本物か分からなくなっているではないかと思います。情報の受け取るほうも、何が本物の情報かあまり気にしないように思います。一応リテラシーなどという言葉もできて、情報を吟味する学問や技術もできているようですが、私には上滑りのような気がします。

 そこで、大切なことは情報発信者と情報との関係を調べることです。いろいろな場合がありますので、表現が難しいのですが、情報発信者がその情報を実践しているかどうかが重要なポイントだと思います。自分はその情報に関して実践してないのに、口だけいろいろ言っていても、その情報は信用しない方がよいのです。

 それでも、世間のいろいろな情報については情報の真偽を誤り、間違った判断しても大したことはありません。判断の誤りは日常茶飯事のことですから。しかし、心の修行においては、どうでもよいという訳にはいきません。それでも知識レベルであれば、いくらでも修正が聞きますから、まだよいのですが、特に瞑想の問題には特別に注意してください。瞑想の指導者が本物であるかどうかはよくよく調べる必要があります。嫌なことを思い出すことになるのですが、昔、オーム真理教の麻原彰晃について行って不幸なことになった人々がたくさんいました。そんなことがあったのに、今だに、瞑想などを安易に考えていると思います。もっとも、真剣に考えてないのだから心配ないということもありますが、人生それほど長いとはいえないのですから、心の修行は真剣に取り組んだ方がいいと思います。


○スマナサーラ長老のこの詩に関する説法

159番については日本テーラワーダ仏教協会のホームページには掲載されておりません。
しかし、昨日の158番のついての解説はこの159番についての理解においても有用です。
指導における説得力には、自己の実践が重要なのです。


○前回の「この詩から学ぶこと」

他の人を躾けることは難しい己の躾け更に困難

http://76263383.at.webry.info/200904/article_22.html


○パール語原文

159.
アッターナン チェー タター  カイラー
Attānaṃ     ce    tathā    kayirā,
自己を     もし  その如く 為すべきだ
ヤターンニャマヌサーサティ
yathāññamanusāsati;
他者のように教誡する(ならば)
スダントー       ワタ  ダメータ
Sudanto         vata   dametha,
よく調御した者は   実に 調御するだろう
アッター ヒ     キラ ドゥッダモー
attā     hi     kira  duddamo.
自己は なぜなら 実に 調御し難い

○詩のパーリ語原文の訳について。100番からは正田大観先生を中心に行われました関西のダンマパダ輪読会の時の御自分のノートを参考にして、木岡治美様がわざわざ書き下ろしたものを私に送って下さいました。それを参考にさせて頂いております。

〇慈悲の瞑想

~私は幸せでありますように~
~私の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の願いごとが叶えられますように~
~私に悟りの光が現れますように~
~私は幸せでありますように(三回)~

~私の親しい人々が幸せでありますように~
~私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の親しい人々の願いごとが叶えられますように~
~私の親しい人々にも悟りの光が現れますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように(三回)~

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~

~私の嫌いな人々も幸せでありますように~
~私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように~
~私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように~

~私を嫌っている人々も幸せでありますように~
~私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように~
~私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように~

~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~


(この慈悲の瞑想を唱える人には必ず幸せが訪れます。)

◎お願い:今回の詩に共感された方は、ページ右上の『仏教』をクリックをお願いします。そうすると、仏教ランキングのランクが上がります。ランクが上がると多くの人の目に留まりやすくなり、ダンマパダの認知度が高まるからです。

この記事へのコメント

トム
2010年03月01日 22:32
なるほど。他人に対して教えるように、諭すように、指導するように、自分に対してそのように心がけると、心の制御がしやすいかもしれませんね。ちょっと取り入れてみます。
高橋優太
2010年03月01日 23:55
ワンギーサ先生、こんばんは。
間違ったことを本物だと思い込むことは恐ろしいことだと思いました。僕の場合だと、自分さえよければいいという考えは当たり前であり、それで幸福になると確かめもせず思い込んでいた時期がありました(そのようなワガママなことが書かれた本も読んでいました)。
多くの本や教えは確かめもせず、証明もせず、無責任な言葉が多いと感じますが、お釈迦様の教えの場合だと実際にお釈迦様の実証済みですし、さらに自分自身で確かめることができるので本当にすばらしいなあと思います。信じるということになると、自分で確かめることはできないし発言の自由もないようです。それに比べて仏教は質問がいつもオープンなところも本当に素晴らしいと思います。お釈迦様が仰ったことをひとつひとつ確かめるよう努力します。今日もありがとうございました。
2010年03月02日 06:32
ワンギーサさん、おはようございます。新しい携帯にしてコンピュータが邪魔してきます。
便利がいいのか悪いのか。先ほどから2時間失敗してるので、今日はこのへんで。
実践の重みをこうして感じるのは皮肉なもんです。
説明書をよんでもよくわかりませんから。有難うございました。
1951男
2010年03月02日 11:07
anusaasatiというパーリ語の成立ちに興味をひかれました。
anu-saasana-sati
とはなりませんか?
教えるってことは気付かせるって意味ならほんとうにそのとおりと思います。
anu:~に従って、according to
saasana:教え、order、instruction、message
sati:気付き
おんがえし
2010年03月02日 16:09
 ワンギーサさまのおっしゃるとおり、瞑想指導者が本物かどうかはよくよく調べる必要があると思います。
 井沢元彦氏は、次のように述べておられます。
 オウムの信者の中に、麻原の指導のもとに修行していたら、光明が見えたり妙なる音楽が聞こえたと言う人々がいる。
 これを嘘だと思ってはいけない。・・・中略・・・
 「邪教には薬の使用でもない限りそんな現象が起こるわけがない。それが起こるのは高級な宗教だけだ」と内心思っている人が大勢いるということだ。
 ここで声を大にして、それは大きな間違いであると申し上げたい。・・・中略・・・
 それは悟り(解脱)ではなく、全では魔境とされてきた。それを錯覚させないように禅宗各派には、お師家さんという練達の指導者がいるのである。・・・(『風塵抄二 なま解脱』司馬遼太郎著、中央公論社刊・・・)
 まさにこの通りで、そういう「魔境」があるということは、歴史的に見て秘密でもなんでもなかった。その証拠にこういう状態を表わす「野狐禅」という言葉すらある。それも大きな辞書でなくても普通の国語辞書に載っている。
 意味は「禅をおさめる人が、さとってもいないのに、さとったつもりでうぬぼれること。生禅」(『新選国語辞典』小学館刊)。まさに「なま解脱」だ。
 もちろん、これは江戸時代以前は日本人の常識であった。そうであったからこそ、こういう言葉が仏教語辞典ではなく普通の国語辞典に載っているのだ。・・・中略・・・
 本当は「その宗教が邪教であろうとなかろうと、一定の条件のもとに”悟り”と錯覚するような現象(幻視・幻聴等)は起こり得る」これが真実であり常識なのだが、そうではなく「そういう現象は高級な(まともな)宗教でしか起こらない」という誤った「常識」を信じていたらどうなるか?(逆説の日本史6中世神風編小学館文庫136ページ以下) 
2010年03月02日 20:31
ブッタは、実践して、その事を私たちに伝えられたのだ

という根拠、は何でしょうか

そのような根拠はなく

自ら実践してみて、あーなる程、となった時に、はじめてこの言葉を残した人がいたのだなーとなります

それまでは、半信半疑なのです

実践あるのみ


いきとしいけるものが幸せでありますように
1951男
2010年03月03日 01:18
anusaasatiのようにsatiで終わる動詞は無数にあって、気づきのsatiとは無関係のようですね。
しかし、教えるってことが「気付かせる」「思い出させる」という意味もあるのだと気づいたのは収穫でした。
(自作自演になってしまった)
まさこ
2010年11月11日 07:09

私もお酒は辞められました。しかし、人に薦めると嫌がられるので、してません。
こころざし
2015年08月22日 07:55
何が大事かを教わるのに、本当かどうか確かめる姿勢は大事と思います。
私事ですが、教材としてスマナサーラ長老の本を見て下さい→そして私の勉強会で冥想について学んで下さい、と誘っている方に接した事があります。何か違和感を感じました。
色々な意味で情報に惑わされないように注意したいです。
たか坊
2017年01月25日 19:39
今回も明るく楽しく学べたコトを嬉しく思います♪

この記事へのトラックバック