177. 物惜しみする人々は天界に行くことはない

ダンマパダ 第13 世間の章 177

ナモー タッサ バガワトー アラハトー サンマーサンブダッサ
Namo  tassa   bhagavato  arahato   sammāsambuddhassa
阿羅漢であり正自覚者であり福運に満ちた世尊に敬礼致します


強欲の者は天界にいかず
愚か者は布施を称えず
しかし賢者は布施を喜び
そのため他世で楽になる


(片山一良先生 訳)


○口語訳

物惜しみする人々は天界に行くことはない
愚かな人々は布施を賞賛することはない
しかし賢者は布施をして随喜する
それ故に彼はあの世でも幸せになる


○子供のためのダンマパダ

けちな子供は愚かな子
何でも一人で抱え込み嫌われる
賢い子供は人気もの
何でも皆で分け合うよ





○一口メモ

 前々回と前回のこの詩に関するブログ記事を読んで見ました。よいことも書いてあるので、そちらを読んで下さい。皆さんのコメントも参考になります。時間のない方はスマナサーラ長老だけは読んで下さい。

 処世訓的に言えば、人に物をあげると人気が上がり、友達ができます。しかし、仏教的に言えばそれだけではなく、人に物をあげるという行為は、困っている人を助けるという慈悲の心を育てることになるのです。また、人に物をあげるという行為は自分の欲に反する行為です。そのような行為を喜んでできるようになれば、強欲な人は少欲の人になります。煩悩をなくす行為であり、涅槃への道であるのです。


○スマナサーラ長老のこの詩に関する説法

『与える』人は損をしますか? ~幸福に生きる秘訣~
http://www.j-theravada.net/howa/howa92.html


○前回までのこの詩に関するブログ記事

愚か者物惜しみして嫌われる賢い人は布施を喜ぶ
http://76263383.at.webry.info/200905/article_9.html

物惜しみする人々は
http://76263383.at.webry.info/200806/article_5.html

○パーリ語原文

177.
ナ  ウェー カダリヤー    デーワローカン ワジャンティ
Na   ve    kadariyā      devalokaṃ    vajanti,
ない 実に  物惜しみする人  天界に     行か
バーラー ハウェー ナッパサンサンティ ダーナン
bālā     have     nappasaṃsanti    dānaṃ;
愚者は  実に     賞賛しない     布施を
ディーロー チャ ダーナン アヌモーダマーノー
Dhīro     ca   dānaṃ    anumodamāno,
賢者は  しかし 布施を    随喜する者
テーネーワ  ソー ホーティ スキー  パラッター
teneva      so   hoti     sukhī   parattha.
それによって 彼は ある  楽ある者  あの世で


〇詩のパーリ語原文の訳について。100番からは正田大観先生を中心に行われました関西のダンマパダ輪読会の時の御自分のノートを参考にして、木岡治美様がわざわざ書き下ろしたものを私に送って下さいました。それを参考にさせて頂いております。

〇慈悲の瞑想

~私は幸せでありますように~
~私の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の願いごとが叶えられますように~
~私に悟りの光が現れますように~
~私は幸せでありますように(三回)~

~私の親しい人々が幸せでありますように~
~私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の親しい人々の願いごとが叶えられますように~
~私の親しい人々にも悟りの光が現れますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように(三回)~

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~

~私の嫌いな人々も幸せでありますように~
~私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように~
~私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように~

~私を嫌っている人々も幸せでありますように~
~私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように~
~私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように~

~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~


(この慈悲の瞑想を唱える人には必ず幸せが訪れます。)

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この記事へのコメント

2010年03月19日 03:36
ワンギーサさん、おはようございます。

昨日の朝、出勤途中にカラスが待ってました。無言の会話を交わして別れましたが、友達のようでもあります。

頭のいいカラスは、一年前にエサを与えた人物を忘れないようです。

その近くにはよく行くコンビニがあるのですすが、面白いことがありました。

よく募金箱にお金を入れます。ところが、同じ十円を入れる時、例えばお釣りの十円を入れるのと、清算してから財布から十円を取り出すのとでは、微妙に質が違うのです。コインと自分のお金の違いと表現すればわかりやすいでしょうか。

こんなことからも、お布施は電卓でそろばん勘定するのとは大違いということがわかります。

お布施について、一言付け加えるなら、最初に思ったことより、多少上乗せすると効果があるように思います。欲、怒り、無知の汚染から、二三歩抜け出たせるような実感があります。

では、どのような善果があるのか?最近感じるのは、仏教が理解しやすくなる。ということです。理屈をこねれば、聖なる方向にこころが開いてるということでしょうか。

嘘をつかないも面白いですが、お布施も色々やってると楽しいものです。あくまで、能動的だから楽しいですが。今後も継続したいと思います。

有難うございました。
高橋佑太
2010年03月19日 08:00
ワンギーサ先生、皆様、おはようございます。
まず家の人の手伝い、友人と分かち合うということからお布施の幅を増やしていこうと思います。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
おんがえし
2010年03月19日 10:17
 以前に、スマナサーラ長老は、私の知る限り、講演料、印税(=著作権料)を、一切受け取っておられないということを書きました。これに関連して書き込みます。
 
 お布施は、徳を得るのに大切なことだと思います。
 ただ、お布施するときに注意することがあると思います。
 それは、説法、瞑想指導の対価として、お布施をすることは、三宝に対する冒涜になると思うということです。
 http://www.j-theravada.net/howa/howa141.htmlのスマナサーラ長老の説法をお読み頂ければ幸いに思います。
 協会はもちろん、各地でスマナサーラ長老の講演会などを催される方々には、特に事情の知らない初心者の方などが、三宝に対して冒涜することのないように配慮して頂きたいと個人的には思っています。
あっきん
2010年03月19日 13:15
ケチで物惜しみの性格の人が、いざ死をむかえるとなると、さぞやの苦しみになると想像されます。
大切に抱えても、いずれゴミになりお別れだからです。
協会の良い所は、布施を強制しない事です。
理解あるものが、自由意志で行っているから安心。
一般的団体だとトップが一番儲かる組織作りだと感じます。協会のパティパターのお布施欄に、お坊さまの名が書いてある事もあり仏陀の教えを実行しているんだと共感するのです。
生きとし生けるものは幸せでありますように。
ワタナベ
2010年03月19日 14:27
パティパダー法話http://www.j-theravada.net/howa/howa141.htmlを読ませて頂きました。僕は過去に読んだはずなのですが、すっかり忘れておりました。大変為になりありがとうございました。在家で医師だった比丘の例とか特に後半の部分が凄かったです。
『説法するのは出家の仕事ですが、たとえ説法しても、その代わりにお布施をもらうことは戒律違反です。』として経集の農民のバーラドヴァージャの例。
『釈尊は「如来は説法をしてその代わりに食べるものはいただかない」と答えたのです。「では、この食事をどういたしましょうか?」釈尊が答える。「これは如来の説法の報酬なので、食べられる人は存在しません。魚さえもいない水に捨てなさい。」説法は相手に対する憐れみを抱いてするものです。報酬を受け取ってはならないのです。』
「一食分をあげることで、建物を一つ寄付することで、説法の報酬にはなりません。報酬だと思うことさえも、三宝に対する冒涜になってしまうのです。」

「出家した比丘であろうとも、解脱をめざして戒律を重んじて生活するならば、日常生活に必要なものをいただくのは大変なのです。解脱を目指す比丘は、暑さ寒さ、蚊や虫に刺されること、寝るところがないこと、口に合う食べ物がないこと、身体に合う衣がないこと、病気になっても適切な薬が手に入らないことなどに不平不満を持ってはならない。修行できるから、何とか生きていれば十分だと満足しなくてはならないのです。」
凄い文章ですね。。。自分の身体を可愛がる僕にはちょっと「出来ない」と今思いました。
ただただ仏法僧に礼拝するのみです。m( )mありがとうございました。
おんがえし
2010年03月19日 15:29
 少し、舌足らずでしたので補足します。
 協会がお布施を強制したりすることはないことはもちろんです。
 ただ、例えば、ゴータミー精舎におけるスマナサーラ長老の瞑想指導会においては、1階の入り口に受付があり、そこに、日頃は設置されていないお布施コーナーが設けられます。
 そこで、任意に、お布施をすることになるのですが、特に、事情の知らない初心者の方は、瞑想指導・説法に対する対価としてお布施されるのではないかと思うのです。
 それは、たとえ任意のお布施であったとしても、三宝に対する冒涜になると思うというのが上記私の書き込みの趣旨です。
名古屋人
2010年03月19日 18:01
私も何も知らない頃は、法話を聴かせていただく御礼のつもりで喜捨しておりました。
会場や受付で御布施の意義の説明や注意喚起をしていただければ、正しい理解が広まると思います。

どうしても俗世間では、何の見返りもなしにお金を出す場面がほとんどありませんから。「喜捨で結構です」って言われても、やはり何かの対価と考えてしまうのは、やむおえないと思います。
まさこ
2010年12月14日 19:17

私も、できる限り、周りに必要な物を分け与えられるような人になりたいです。
こころざし
2015年08月28日 07:37
この人は自分にとって得な何かをくれるのか、の視点がありますと、何かいやらしい・冷たい雰囲気(オーラ?)が自分から出るように思います。
相手がどうこうではなく、自分が相手の幸いを願い、そして出来る事を無償でしてあげようと言う姿勢があると、とても温かい雰囲気に自然になると思います。相手の方も安心して心を許される流れになるのではと思われます。
自分で実践し、後者の方が心が明るくなると確認しています。慈しみの気持ちと、身の丈でもお布施をさせて頂きながら生きて参りたいと思います。
たか坊
2017年02月23日 12:43
今回も明るく楽しく学べたコトを嬉しく思います♪

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