160.自己こそ自己の寄る辺なり

ダンマパダ 第12 自己の章 160

ナモー タッサ バガワトー アラハトー サンマーサンブダッサ
Namo  tassa   bhagavato  arahato   sammāsambuddhassa
阿羅漢であり正自覚者であり福運に満ちた世尊に敬礼致します


自己こそ自己の寄る辺なり
他の何者が寄る辺になろう
自己を調御するならば
得がたい寄る辺を獲得す


(片山一良先生 訳)

○超訳の試み

己こそが己の守護者
己の他は守護者になりえない
よく躾けられた己こそ
得難い守護者になりえる

○子供のためのダンマパダ

頼りになるのは自分自身です
しっかりした自分になれば
それより頼りになる
味方はありません





○一口メモ

 一口メモといいながら、長々と書くことが多いのですが、今日は短くまとめます。

 この詩の趣旨は、多くの人々はいろいろなものを頼って生きているが、仏教修行者は何者も頼ることなく生きるように、涅槃を目指すように教えていると理解すべきです。
 
 そうすれば、仏教は無我を言うのに、なぜ自己を「寄る辺」とか「守護者」にするとか言うのですかという疑問の答えになると思います。また、何者にも頼るなと言うのであれば、仏教で大切にする三帰依、すなわち、仏、法、僧を頼りにしますという言葉は何なのかと言う疑問を持たれる方もおられると思います。

 三帰依について、スマナサーラ長老の説法のなかで、詳しく解説されていますので、そちらをお読み下さい。三帰依もそうですが、自己を寄る辺とする、守護者とすることは、そのことを通じて真に自立した自由な心を育てるための方法なのです。

 自己と言っても無我ですから、頼るべきものではありません。詭弁のように聞こえますが、あながち詭弁とはいえないと思います。反論はあるでしょうが、各自考えて下さい。


○スマナサーラ長老のこの詩に関する説法

「何に頼れば安全ですか」 ~不安がこころの自由を壊す~
http://www.j-theravada.net/howa/howa74.html


○前回の「この詩から学ぶこと」

己こそ己の守護者躾けられた己は得難い己の守護者
http://76263383.at.webry.info/200904/article_23.html


○パーリ語原文

160.
アッター ヒ  アッタノー ナトー
Attā    hi   attano    nātho,
自己は 実に 自己の  守護者
コー ヒ   ナトー  パロー スィヤー
ko   hi    nātho   paro   siyā;
誰が 実に 守護者  他人  あるだろう(か)
アッタナー   ヒ    スダンテーナ
Attanā      hi     sudantena,
自己によって なぜなら よく調御された
ナータン ラバティ ドゥッラバン
nāthaṃ   labhati  dullabhaṃ.
守護者を 得る   得難い


○詩のパーリ語原文の訳について。100番からは正田大観先生を中心に行われました関西のダンマパダ輪読会の時の御自分のノートを参考にして、木岡治美様がわざわざ書き下ろしたものを私に送って下さいました。それを参考にさせて頂いております。

〇慈悲の瞑想

~私は幸せでありますように~
~私の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の願いごとが叶えられますように~
~私に悟りの光が現れますように~
~私は幸せでありますように(三回)~

~私の親しい人々が幸せでありますように~
~私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の親しい人々の願いごとが叶えられますように~
~私の親しい人々にも悟りの光が現れますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように(三回)~

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~

~私の嫌いな人々も幸せでありますように~
~私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように~
~私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように~

~私を嫌っている人々も幸せでありますように~
~私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように~
~私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように~

~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~


(この慈悲の瞑想を唱える人には必ず幸せが訪れます。)

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この記事へのコメント

2010年03月02日 21:16
涙が出そうになります

この言葉には

こころは、変化している

何よりの救いです

僕はずーっと自分はだめな人間だと思って生きてきました

自分のこころは自分の責任

生きとし生けるものが幸せでありますように
2010年03月03日 03:59
ワンギーサさん、おはようございます。身口意の行為で生きてます。それがねじ曲がっていたり、汚染されていれば当然「幸福」にはなれません。誰も「私は不幸でありますように」とは願わないでしょうが、実際はそんな自己愛があれど自信がない。救いは邪魔になるような「我」がないので「仏法僧」をお手本にしながら、自信をつけていくことだと思います。知りたいことを先生に質問して理解したり、注意されて成長することも「我」がないから可能になります。「怒り」を克服しようとするのも「無我」であればこそ望みがあります。有難うございました。
あっきん
2010年03月03日 07:43
おはようございます。
自己の源は心でしょうか。心を躾けると役に立ち、しないとただの野蛮人になります。躾けというと、一般的子供の事だと連想していまいがちですが、精神的に大人になっても幼稚かもしれません。そんな時、仏法僧を道しるべにすると正しい道と感じます。だからと言って人に頼って考えないと能力は開発できませんね。
ワンギーサ先生ありがとうございました。
1951男
2010年03月03日 11:40
この詩は孤独なすべての生命を励ますお釈迦様のやさしい言葉です。
導きの言葉です。そのまま素直に聞こえてきます。
パーリ語の経文がそのまま心に染み渡ってきます。

仏教の定義で「無我」とは、変化しない常住の実体がないという意味です。
A.S.長老が書いていたこととしてワンギーサさまからお聞きしたことがあります。
また、A.S.長老が慎重に語るときにはそうおっしゃってます。
われ(我、わたし、あっし、わ、私、自己、)がない!と言う意味ではありません。
ワンギーサさまから紹介のあった「中部経典第2 一切煩悩経」でも、自分の存在を疑うことは邪見ですということが書いてあります。
http://d.hatena.ne.jp/pali/
1951男
2010年03月03日 11:42
外界に触れて対象を知ると同時に私がいるという自覚が生じる。
これが主観で、生命がある以上生存している以上必ず主観があります。
一つひとつの生命に必ずひとつの主観があります。

悟り、解脱とは「私がいるという自覚」は現象であると経験することだとテーラワーダ仏教が教えています。
外界の対象(ruupa-dhamma)も内界の主観(naama-dhamma)も現われた事実であって、これが「ある」だろうか?「ない」だろうか?ということは成立ちません。
現象としてあるのです。
「無常」「苦」「無我」というあり方をしていると教えるのがテーラワーダ仏教です。

主観(自意識、私)が消えるのは解脱してnibbaanaに至った時です。
固定した私というものはなくて、私は「無我」だから「無常」であって、原因結果の法則に従って無限大に生滅変化できる自由があります。
しかし生存する以上は主観からは逃れようもなく常に内界の私と外界とは隔てられています。
主観があるのをほんとうに「苦」と感じ、私と言う牢獄を厭い離れたいと思ったときに、生存から脱出する道に歩き出すのだと思います。
それまではしっかりと自己を確立し瞑想の対象にしましょうと言うことでしょう。

以上は今の私の理解です。

ワンギーサ
2010年03月03日 18:04
1951男さんへ
私に聞きたいということは、「以上は今の私の理解です。」でよろしいかということでしょうか?そうならば、だいたいそれでよろしいと思いますが、瞑想する時は、あまり余計なことを考えずに、妄想しないで、身受心法をただ観察するという態度がいいと思います。
おんがえし
2010年03月03日 18:13
 以下、私の記憶です。
 以前、瞑想合宿において、ある女性の方がこのような質問をしました。
 「感覚は生まれた時から(生滅変化しながらも)ずっと続いているように感じる。(そうすると、もっと遡っていくことができるように思う。)はじめに誰が感覚を作ったのか?」

 皆様はどう思われるでしょうか?さすがに創造神と答えるテーラワーダ仏教徒の人はいらっしゃらないと思いますが、誰かが感覚を作ったのではなくて、感覚はずっと続いていて、「無始である」と答える人は多いのではないでしょうか?

 この女性の質問に対して、いくつか長老とのやりとりがあって、スマナサーラ長老はこのように答えられました。
 「石が腕にぶつかると痛みが起こる。」

 つまり、感覚は石が腕にぶつかったときに初めて生じるのであって、生まれたときからずっと続いているものではないということだと思います。 
おんがえし
2010年03月03日 18:24
 中部経典第2「総煩悩経」については、Dhamminiさまのテーラワーダ仏教普及委員会法話29以下にスマナサーラ長老の説法がありますので、お読みになられては如何かと思います。

 それと、前の書き込みの続きですが、「無始」というのは、『幻覚』である「自我」が現れるのはいつかという問に対する答えではないかと思います。この点は、パティパダー仏暦2550(2006)7月号26頁以下(スマナサーラ長老の説法)をお読み頂ければと思います。
1951男
2010年03月03日 18:42
テーラワーダ仏教の教えについて私の理解がまあはずれていないと教えていただき、ありがたいことだと思いました。冥想中は静かに観察を心がけています。テーラワーダ仏教の理解のしかたが、ずれていやしないかずーとそれが気がかりでしたので、あれこれ考えを整理することが多かったです。
ちょっと落ち着きました。ありがとうございました。
こころざし
2015年08月22日 07:59
自分のこころが明るくなるのか・暗くなるのか、それは自分の生き方次第と思います。自ら学ぶ姿勢を持ちながら、何で心が明るくなるのか・何でこころが暗くなるのか分かり、そして自立して心が明るくなる方で生きれるように努めたいです。
たか坊
2017年01月26日 21:41
今回も明るく楽しく学べたことを嬉しく思います♪

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