183.いかなる悪も行わずもっぱら善を完成し自己の心を浄くする

ダンマパダ 第14 ブッダの章 183

ナモー タッサ バガワトー アラハトー サンマーサンブダッサ
Namo  tassa   bhagavato  arahato   sammāsambuddhassa
阿羅漢であり正自覚者であり福運に満ちた世尊に敬礼致します


いかなる悪も行わず
もっぱら善を完成し
自己の心を浄くする
これが諸仏の教えなり


(片山一良先生 訳)


○日常語訳

どんな悪いことも行わない
良いことを積極的に行う
自分の心を清らかにする
これがブッダの教えです


○子供のためのダンマパダ

人に迷惑になることはしないように
人の役に立つことをするように
明るくやさしい心を育てるように
これがお釈迦さまの教えです





○一口メモ

 今回の183番の詩は有名でテーラワーダ仏教の読経の際、毎回唱えているものですが、大乗仏教でも大切にされていて七仏通戒「諸悪莫作  衆善奉行  自淨其意  是諸仏教 」(しょあくまくさ しゅぜんぶぎょう じじょうごい ぜしょぶっきょう)として唱えられています。

 道元禅師の「正法眼蔵 諸悪莫作」の巻の終わりに面白い逸話がありますのでそれを紹介しましょう。中国の有名な詩人の白楽天が道林禅師のもとで修行しました。あるとき、白楽天が道林禅師に「仏教とは何でしょうか?」と質問しました。禅師は「一切の悪いことをしないこと。良いことを行うことだ。」と答えました。白楽天は「そんなことなら、3才の子供でも言えるでしょう。」と言うと、禅師は「3才の子供でも言えるが、80才の老人も実践は難しい。」と答えたということです。白楽天は一本取られて謝ったということですが、この詩を実践することは簡単ではないのです。

 この詩は上に述べた逸話のように、簡単なそうに見えて、実践は簡単ではないのです。他のダンマパダの詩が教えるように、この詩で涅槃への道が示されいるのです。この詩の内容を確実に実践すれば、涅槃の境地に至ることを教えているのです。

 涅槃に至った阿羅漢は一切の悪いことはすることはないし、することは良いことであり、心は清らかなのだと思います。


○スマナサーラ長老のこの詩に関する説法

一言で知る仏教の全て<1> ~釈尊もインスタントの方が好きでした~
 The truth is always simple.
http://www.j-theravada.net/howa/howa98.html


○前回までのこの詩に関するブログ記事


一切の悪を為さずに善をなせ心を清めよこれが仏教
http://76263383.at.webry.info/200905/article_15.html

一切の悪業をなさないこと
http://76263383.at.webry.info/200807/article_1.html


○パーリ語原文

183.
サッバ パーパッサ アカラナン
Sabbapāpassa    akaraṇaṃ,
一切の悪を    為さないこと
クサラッサ ウパサンパダー
kusalassa  upasampadā ;
善を    達成すること
サチッタ   パリヨーダパナン
Sacitta     pariyodapanaṃ ,
自分の心を  清めること
エータン ブッダーナ サーサナン
etaṃ    buddhāna   sāsanaṃ.
これが   諸仏の   教え

〇詩のパーリ語原文の訳について。100番からは正田大観先生を中心に行われました関西のダンマパダ輪読会の時の御自分のノートを参考にして、木岡治美様がわざわざ書き下ろしたものを私に送って下さいました。それを参考にさせて頂いております。


〇慈悲の瞑想

~私は幸せでありますように~
~私の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の願いごとが叶えられますように~
~私に悟りの光が現れますように~
~私は幸せでありますように(三回)~

~私の親しい人々が幸せでありますように~
~私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の親しい人々の願いごとが叶えられますように~
~私の親しい人々にも悟りの光が現れますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように(三回)~

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~

~私の嫌いな人々も幸せでありますように~
~私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように~
~私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように~

~私を嫌っている人々も幸せでありますように~
~私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように~
~私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように~

~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~


(この慈悲の瞑想を唱える人には必ず幸せが訪れます。)

◎お願い:今回の詩に共感された方は、ページ右上の『仏教』をクリックをお願いします。そうすると、仏教ランキングのランクが上がります。ランクが上がると多くの人の目に留まりやすくなり、ダンマパダの認知度が高まるからです。

この記事へのコメント

林田明大
2010年03月25日 03:12
 ありがとうございます。大変参考になりました。
 ついこの間、禅と朱子学と陽明学の区別とでも申しましょうか、それぞれのスタンスというものが、明確になった、と私は思っているのですが(笑)、ところでして、テーラワーダと大乗仏教との区別も、私なりに明確にしておきたいと思っているところです。
 やはり、修養は、コツコツですね。それが自然ですね。家康ではありませんが、「急ぐべからず」ですね。
2010年03月25日 04:52
ワンギーサさん、おはようございます。

一昨日の立川から新宿に戻ってみると、ダイヤが大幅に乱れてました。

慈悲の瞑想したら、たちまち気分が穏やかになり「さすが、即効性があるな」と悦に入ってましたが、涅槃はそんな努力も不要なのだと思います。

有難うございました。
nqaz
2010年03月25日 05:28
預流果に悟られた修行者は「自分自身ですぐに明確にはっきりと預流果に悟った」と分かるものなのでしょうか?
それとも、かなり曖昧なものでテーラワーダ仏教のサンガの方に確認してもらわないと分からないものでしょうか?
有身見・疑・戒厳取は欲や怒りと違い確認しにくいと思い質問させて頂きました。
ぱん
2010年03月25日 07:27
おはようございます。今日の法話で、

「3才の子供でも言えるが、80才の老人も実践は難しい。」と答えたということです。

とありますが、20日の月例講演会に参加いたしました時、ワンギーサ先生が最前列にお座りになり、スマナサーラ長老のお話を誰よりも熱心にメモを取る姿を拝見し、心打たれました。

今日はサンガジャパンという雑誌が店頭に並ぶ日らしいので、ぜひ、ワンギーサさんの「悩みあるところ変化あり」という短いエッセイを立ち読みさせていただきたいと考えています。ありがとうございました。
ワンギーサ
2010年03月25日 08:03
皆さん、おはようございます。

nqazさんのご質問にお答えします。
阿羅漢になられた方は、自分ではっきりと分かると仏典に書いてありますので、自分で分かると思います。
その他の聖者の方については、私には何とも言えません。しかし、釈尊は、阿羅漢になるまでは安心してはいけないと仰っておられますので、そのようなことは分からなくてよいと思います。つまり、自分は阿羅漢でないと知っていればいいのです。
高橋優太
2010年03月25日 09:40
ワンギーサ先生、皆様、おはようございます。
5月8日のウェーサーカ祭に家族で行くことになりました。去年、一昨年は参加できなかったので、うれしいです。後、5月4日にスマナサーラ長老の仙台法話と冥想会が開かれるのもうれしいです。友人も誘って皆で行こうと思います。
実際に長老とお会いできると思うと仏教を頑張ろうという気持が強くなります。本当にありがたいことです。
三宝に帰依いたします。
一切の過ちを懺悔いたします。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
kumetsu
2010年03月25日 11:00
ワンギーサ先生

毎日ダンマパダの叡智に触れる機会を与えて頂き誠にありがとうございます。
さて、覚りの境地を自分で確認できるかどうかについては、スマナサーラ長老著の「ブッダの実践心理学第四巻心の生滅の分析」の255ページの辺りに記載があります。これによりますと、例えば預流果を得た場合、(五自在の)引転自在により自分の消えた煩悩を観察することにより「有身見・戒禁取・疑が消えた」ことが分かり、さらに観察自在により「まだ欲も怒りもある」という欠点も見えてくる。ヴィパッサナー瞑想は五自在がワンセットになっているので、ヴィパッサナー瞑想を正しく実践すれば、自分の覚り(預流果、一来果など)の状態が未熟さも含めて分かる、従ってさらに精進すべきことも分かる、という趣旨が書かれています。ヴィパッサナーによって客観的にあるがままの自分の状態を知ることができるはずですので、少なくともテーラワーダの伝統に従ってしっかりと瞑想修業をする以上は、自分が覚ったかどうか分からない、ということはあり得ないのではないかと思うのですが、いかかでしょうか?ただし、もしも自分が預流果などの覚りを得たのではないかと正直な疑問が生じた場合には、自分が覚ったと言いふらす前にスマナサーラ長老にチェックしてもらうべきではないでしょうか(実際には、自分が覚ったことは師匠にしか話さない伝統があると聞いたことがあります。)。テーラワーダ仏教にご縁のある皆様方に覚りの光が現れますように。
おんがえし
2010年03月25日 11:31
 nqazさま。
 「有身見・疑・戒厳取は欲や怒りと違い確認しにくいと思い質問させて頂きました。」というのは、誤解だと思います。 
 預流果になる場合もはっきりと分かると思います。
 ただ、師匠にあたる方に報告はすると思います(ただし、「私は預流果に悟りました」とかは言わないのではないかと思います。)。
 しかし、テーラワーダにおいては、師匠はその報告に対して、預流果に悟ったと認定することはないと思います。
 ただし、祝福(?)のためのお経をあげて下さったりすることはあるかもしれないとも思います。
 もっとも、世の中では、禅定体験や幻覚体験を預流果の悟りと混同されている方も多いのかなとは思います。
 預流果の悟りと錯覚しないためにも、昨日コメント欄で紹介しましたスマナサーラ長老の著作をお読みになられることをお勧めしたいと思います。
nqaz
2010年03月25日 14:27
ワンギーサ様、kumetsu様、おんがえし様大変ありがとうございました。
私の記憶違いでなければ長老が「阿羅漢でも他人が預流果に悟ったかどうかの判断は難しい」とどこかで発言されていたと思います。「では自分自身の肝心の本人は自分で分かるのだろうか?」という疑問が浮かび質問させて頂きました。



おんがえし
2010年03月25日 19:32
 nqazさま。
 http://www.j-theravada.net/qa/qahp25.htmlでスマナサーラ長老は、「同じレベルの人々は互いによく知っています。」とおっしゃっておられます。
 ですから、阿羅漢聖者であられる方は、阿羅漢聖者が誰であるかすら、分かるのだと私は思います。
もく魚
2010年03月25日 20:01
きょうはゴータミー学園初等科の卒業式。もくぎょ以下108人の生徒が体育館に並んでいる。そこに校長先生登場。

校長「・・・残念なお知らせです。もくぎょ君は卒業できなくなりました」

ざわざわ、ざわざわ、ざわめく生徒たち・・・。

校長「もくぎょ君はお正月3日間冥想をさぼったのに、出席カードに○を書いて先生に提出しました。きのうお母さんから報告がありました・・とても残念です」
大さわぎになる体育館。ざわざわーーっ。

顔を真っ赤にしてうつむくもくぎょ。

そのとき列の前からミカンがもくぎょに近づく。バシッ!っとおもいっきりもくぎょに平手打ち。たちまち静まる体育館。シ~~~~ン。
ミカ「もくちゃんのうそつき!」それだけ言うとくるりと戻っていく。

ミカンはお釈迦様とソーナダンダさんの説法を憶えていてその場をしずめるべく知恵を発揮したのだ。
もくぎょの新しい一年が始まった。

※ゴータミー学園初等科は実在しません。
おしまい(^^;;
nqaz
2010年03月25日 20:54
何度も失礼させて頂きすみません。
パーリ経典を読むと天眼と宿住随念智(過去の生存を想起する智)がありその違いなのですが、
天眼は自分と他人の未来の輪廻を観察できる
宿住随念智は自分と他人の過去の輪廻を観察できる
以上の理解でよろしいでしょうか?

また、宿住随念智が上記の通りならば、過去実際に存在されたブッダの人生も宿住随念智ではっきりと観察することができるのでしょうか?たとえば2600年前のこの日にはこの場所におられ、このようなお食事をとられ、このような瞑想をなされ、また次の日にはあの場所に行き、このような説法をなされ……とこれ以上ないほど具体的に分かるものなのでしょうか?
こころざし
2015年08月30日 08:14
こんな時どうしたら、と迷ったり・相談したりする方を拝見する時があります。そのような時に「悪い事をせず良い事をして、自分の心が曇らないようにしたらいいみたいですよ」と返答すると、相手の方が何か気がついたような反応をされる事があります。
自分のエゴを優先させるのではない道を知ったような感じになるのかな、と想像致しました。
悪い事を心が汚れると分かっていながら実施しないように、良い事を迷わず行えるように努めたいです。
たか坊
2017年03月11日 18:16
今回も明るく楽しく学べたコトを嬉しく思います♪

この記事へのトラックバック