186.187.金貨の雨が降っても欲望の満足はない

ダンマパダ 第14 186,187

ナモー タッサ バガワトー アラハトー サンマーサンブダッサ
Namo  tassa   bhagavato  arahato   sammāsambuddhassa
阿羅漢であり正自覚者であり福運に満ちた世尊に敬礼致します


金貨の雨が降ろうとも
諸欲が満ちることはない
しかし賢者は了知する
「諸欲は少味、苦のもの」と

かれは天の諸欲にも
喜び耽ることがない
正覚者の弟子として
渇愛の滅において喜ぶ


(片山一良先生 訳)


○日常語訳

金貨の雨が降っても
欲望の満足はない
欲望は少楽にして苦痛である
そのように賢者は知っている 

天界の欲の楽しみも
賢者の喜びではない
渇愛の滅尽が
仏陀の弟子の喜びである


○子供のためのダンマパダ

いくつおもちゃがほしいのか
一つでいいかな、二つかな
三つは多いから
あげましょう

おもちゃをあげれば
楽しいな
欲張らなければ
みんなにこにこ





○一口メモ

 今回の詩の一つのポイントは、欲には際限がないということです。欲を満足させることはできないのです。ですから、欲にしたがって生きようとすると、決して満足することない、不満な人生を送ることになるのだとしっかりと知っておく必要があります。

 「ほしい、ほしい」という欲の生活でなく、「必要かどうか?」を考えた生活にした方が満足できる、幸福な人生を送れます。必要なものがそろえば、満足できるからです。必要なものには限度があります。永遠に努力しなくとも、限度がありますから、それなりに努力すれば、揃えられるのです。

 「子供のためのダンマパダ」に書きましたように、子供の欲も際限がありません。子供の時から、必要なもので満足する習慣をつける必要があります。遊ぶときは、おもちゃは一つでいいと思いますが、両手がありますから、右手で一つ、左手で一つ、二つで充分だと思います。三つは余計ですから、あげたらいいのです。(これは比喩的な表現です。)しかし、子供はこれに抵抗すると思います。親は力でなく智慧で「子供が欲を抑える訓練する」教育をする必要があります。

 実は、今日スマナサーラ長老のダンマパダの説法がゴータミー精舎で行われました。その最後に質問がありました。
 「4才と7才の子供がゲームをやりたがって困るが、どのように対応したらいいか?」
 と言うものでした。
 スマナサーラ長老の答えは、
 「親と子供の知恵くらべです。親は子供をしつけしなければいけないのだから、知恵で負けてはいけない。子供の個性をよく見て、子供が自分でゲームをやりたい欲を少しでも抑えて、勉強などをさせるように工夫すべきだ。そのようなことを通じて、父親なり母親になるのだ。」
 と仰られました。

 この詩のもう一つの重要なポイントは「 欲望は少楽にして苦痛である」ということです。これは欲は苦であることを知ることです。欲が苦であること知ってしまえば、欲を捨てようと思うのです。そのことが納得できなければ、欲を捨てようと思わないのです。ですから、天界における欲の楽しみも、欲が苦しみだと知った賢者、ブッダの弟子は渇愛(欲望)が滅尽することは、苦がなくなることですから、喜ぶことになるのです。


○スマナサーラ長老のこの詩から学ぶこと

明日を楽しめる保証はない~まだ欲しいのに賞味期限は切れている~
 Wealth does not compromise with happiness.
http://www.j-theravada.net/howa/howa102.html


○前回までのこの詩に関するブログ記事

186、187番:金が降っても満足しない欲望は少楽にして苦痛であるのだ
http://76263383.at.webry.info/200905/article_18.html

186番:金貨の雨が降っても
http://76263383.at.webry.info/200807/article_4.html

187番:天界の楽しみも
http://76263383.at.webry.info/200807/article_5.html



○パーリ語原文

186.
ナ  カハーパナワッセーナ
Na   kahāpaṇavassena,
ない  金貨の雨で
ティッティ カーメース ウィッジャティ
titti      kāmesu    vijjati;
満足は  欲望において 見出され
アッパッサーダー ドゥカー カーマー
Appassādā       dukhā   kāmā,
楽しみが少ない   苦     欲は
イティ ウィンニャーヤ パンディトー
iti     viññāya      paṇḍito.
と    了知して     賢者は

187.
アピ    ディッベース カーメース
Api     dibbesu     kāmesu,
いえども  天界の    欲における
ラティン ソー  ナーディガッチャティ
ratiṃ    so    nādhigacchati;
楽しみに 彼は  到達しない
タンハッカヤラトー    ホーティ
Taṇhakkhayarato      hoti,
渇愛の滅尽を楽しむ者 ある
サンマーサンブッダサーワコー
sammāsambuddhasāvako.
正覚者の弟子は

〇詩のパーリ語原文の訳について。100番からは正田大観先生を中心に行われました関西のダンマパダ輪読会の時の御自分のノートを参考にして、木岡治美様がわざわざ書き下ろしたものを私に送って下さいました。それを参考にさせて頂いております。


〇慈悲の瞑想

~私は幸せでありますように~
~私の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の願いごとが叶えられますように~
~私に悟りの光が現れますように~
~私は幸せでありますように(三回)~

~私の親しい人々が幸せでありますように~
~私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の親しい人々の願いごとが叶えられますように~
~私の親しい人々にも悟りの光が現れますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように(三回)~

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~

~私の嫌いな人々も幸せでありますように~
~私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように~
~私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように~

~私を嫌っている人々も幸せでありますように~
~私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように~
~私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように~

~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~


(この慈悲の瞑想を唱える人には必ず幸せが訪れます。)

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この記事へのコメント

トム
2010年03月27日 23:51
今日、自然食のバイキングに行きました。全種類少しづつ食べました。すると食べ過ぎにより腹痛とゲリに悩まされ、下痢止め薬を買うはめになりました。欲望は少楽にして苦痛である・・を実感しました(笑)。
2010年03月28日 03:40
ワンギーサさん、おはようございます。

昨日のダンマパダ講義にはあいにく参加できませんでしたが、紹介された質問を読んで、「自分にとってのゲームはなんぞや?」と自覚する必要性があると思いました。

大人の場合はむしろ誰の管理下にない場合が多いので、「欲」が野放図になっていてもなかなか気がつかない。

今、布団の上に座ってますが、周囲を見渡してみると「超訳資本論」という本が読まれないままあります。欲の対象は身近にしたいのでしょう。


衝動買いしたものですが、
いまだに読みたい「衝動」に誘惑されそうになります。

一見、質素な生活をしているから、欲が少ないわけではありません。

読書や音楽のように、履歴書に書けるもの、公のスピーチで話しても恥ずかしくないものは、自分の欲を正当化してくれるので、増幅に躊躇を感じません。

私はある時から、むやみやたらと知識を増やすことの馬鹿らしさに気づきました。特に、思想、哲学の本に仏教の知識で「言いがかり」をつけて、「我正しい」という妄想を膨らませることの危険性に気づきました。

まだ、ベストセラーときくと気になって仕方ないのですが、自己管理するしかありません。

有難うございました。

ぱん
2010年03月28日 10:14
ワンギーサさん、おはようございます。昨日のダンマパダ講義、参加いたしましたが、仰るように確かに、そういう質問があったのを記憶いたしております。小学校、中学校、の頃の私は、たとえば、ドラゴンクエストとか、ファイナルファンタジーなどのゲームに夢中になり、また、近くの駄菓子屋に置いてある格闘ゲームの周囲に集まって、放課後の時間を過ごしておりました。「バカレンジャー」とかいう集団を作って遊んでいましたが、いつまでも少年時代のようであってはいけません。遊び心は大切にしつつも、これからはブッダの親衛隊になれるように、がんばります。
あっきん
2010年03月28日 10:45
苦については、いまだ自覚できてません。
あってもなくても苦。 苦をとは何だ?感じです。
欲が満たされると幸せではなく苦が真実なら、やはり逆てんで捏造していますね。捏造すると、無知が働くと昨日のダンマパダであり勉強になりました。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
おんがえし
2010年03月28日 20:11
 スマナサーラ長老の説法の記憶ですが、お釈迦様は、お布施を糞に喩えられ、信者をうじ虫に喩えられていたと思います。
 ブッダ、阿羅漢聖者は、渇愛を滅しておられるのですから、食欲も、名誉欲もないと思います。
 ブッダ、阿羅漢聖者は、お布施を大衆にねだったり、お布施を求めたり、示唆されたりする欲はないと思いますし、信者が増えることに欲を持ったりすることはないのだと思います。
 ただ、我々が徳を積むためにお布施を受け取っていただけることもありますし、また、我々に対する慈悲からブッダの教えを説いて下さるのだと思います。
 しかし、大乗仏教を含め、現在の仏教においては、こうした基本線に沿っていないこともあると思いますので、我々大衆の方で注意する必要があると思います。
こころざし
2015年08月31日 08:19
欲が一時の快楽になるような錯覚を、日常で経験しています。
昨日、小4娘とショッピングモールに行って、30分のタイムセールでバーゲン価格がさらに半額!のアナウンスを聞いて急いでその会場に行きました→確かに安く買えましたが、冷静に考えてみればどれだけ得だったのでしょうか?
小欲をベースにで生きて参りたいと思います。
たか坊
2017年03月18日 16:18
今回も明るく楽しく学べたコトを嬉しく思います♪

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