188.~192.仏法僧を拠り所にする人は四つの聖なる真理を正しい智慧で見る

ダンマパダ 第14 ブッダの章 188.~192.

ナモー タッサ バガワトー アラハトー サンマーサンブダッサ
Namo  tassa   bhagavato  arahato   sammāsambuddhassa
阿羅漢であり正自覚者であり福運に満ちた世尊に敬礼致します


恐怖に駆られた人々は    もろもろの山、林、また
もろもろの園、霊樹など    多くのものに帰依をする

かかる帰依は安穏ならず   かかる帰依は最上ならず
かかる帰依によるならば    あらゆる苦から解脱せず

仏に帰依し、法に帰依し   そして僧に帰依する者は
四の聖なる真理の法を    正しい知恵をもって見る

すなわち、苦、苦の生起   苦の滅尽、そしてまた
苦の滅尽にいたらせる    聖なる八の部分の道を

かかる帰依は安穏なり    かかる帰依は最上なり
かかる帰依によるならば   あらゆる苦から解脱する


(片山一良先生 訳)


○日常語訳

人々は山を、森を、園を、樹を、社などを拠り所にする
そして恐怖に駆られてそこに出かける     

これらは安穏な拠り所ではない、最高の拠り所ではない
これらを拠り所にしても一切の苦から解放されない

仏、法、僧を拠り所にする人は
四つの聖なる真理を正しい智慧で見る

すなわち、苦と、苦の生起、苦の超越
苦の超越に至る聖なる八つ道である 

これらは安穏な拠り所である、最高の拠り所である
これらの拠り所によって一切の苦しみから解放される


○子供のためのダンマパダ

神社やお寺や教会に何しに行くの?
子供には分からないかな

大人はそこにお参りにいくのだが
お参りに行っても効果はないと思います

お釈迦さまの教えを心の支えとする人は
四つの真理を正しく理解する。それは

生きることは楽ではないこと
楽でないのは欲張るからで
欲張らなければら楽になる
お釈迦さまは正しい生き方を教えてます

お釈迦さまの教えで安心できる
お釈迦さまの教えは最高の心の支え
お釈迦さまの教えによって幸福になれる





○一口メモ

 今回の詩の解説は、今回の「子供のためのダンマパダ」を読んで下さい。


○スマナサーラ長老のこの詩に関する説法

お守りは不安の泉~理性を育むと迷信は消える~
 Rationality supersedes superstition.
http://www.j-theravada.net/howa/howa103.html


○前回までのこの詩に関するブログ記事

人々は山や森などをあがめるは不安になるとそこに出かける
http://76263383.at.webry.info/200905/article_19.html

心の拠り所
http://76263383.at.webry.info/200807/article_6.html


○パーリ語原文

188.
バフン  ウェー  サラナン  ヤンティ パッバターニ ワナーニ チャ
Bahuṃ  ve  saraṇaṃ  yanti, pabbatāni vanāni ca;
多くの 実に 帰依所に 行く  山に    林に  又  
アーラーマルッカチェーティヤーニ マヌッサー バヤタッジター
Ārāmarukkhacetyāni, manussā bhayatajjitā.
園に 樹に 社に     人々は 恐怖によって
189.
ネータン     コー  サラナン  ケーマン ネータン     サラナムッタマン
Netaṃ    kho saraṇaṃ  khemaṃ, netaṃ     saraṇamuttamaṃ;
この(ない) 実に 帰依所 安穏な この(ない) 帰依所は最上で
ネータン    サラナマーガンマ サッバドゥッカー  パムッチャティ
Netaṃ    saraṇamāgamma, sabbadukkhā  pamuccati.
この(ない) 帰依所にしても 一切の苦から 解放され

190.
ヨー チャ ブッダンチャ ダンマンチャ サンガンチャ サラナン   ガトー
Yo ca buddhañca dhammañca, saṅghañca saraṇaṃ   gato;
人は  仏を  と  法を  と  僧を と 帰依所に した
チャッターリ アリヤサッカーニ サンマッパンニャーヤ パッサティ
Cattāri ariyasaccāni, sammappaññāya passati.
四つの 聖なる真理  正しい知恵で  見る

191.
ドゥッカン ドゥッカサムッパーダン ドゥッカッサ チャ アティッカマン
Dukkhaṃ dukkhasamuppādaṃ, dukkhassa ca atikkamaṃ;
苦     苦の生起       苦の    と 超越  
アーリヤン チャッタンギカン マッガン ドゥックーパサマガーミナン
Ariyaṃ caṭṭhaṅgikaṃ maggaṃ, dukkhūpasamagāminaṃ.
聖なる 八の部分の 道     苦を寂止に導く

192.
エータン  コー   サラナン ケーマン   エータン  サラナムッタマン
Etaṃ   kho   saraṇaṃ khemaṃ,   etaṃ  saraṇamuttamaṃ;
この 実に  帰依所は 安穏な   この 帰依所は 最上の
エータン サラナマーガンマ サッバドゥッカー  パムッチャティ
Etaṃ saraṇamāgamma, sabbadukkhā  pamuccati.
この  帰依所によって 一切の苦から 解放される


〇詩のパーリ語原文の訳について。100番からは正田大観先生を中心に行われました関西のダンマパダ輪読会の時の御自分のノートを参考にして、木岡治美様がわざわざ書き下ろしたものを私に送って下さいました。それを参考にさせて頂いております。


〇慈悲の瞑想

~私は幸せでありますように~
~私の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の願いごとが叶えられますように~
~私に悟りの光が現れますように~
~私は幸せでありますように(三回)~

~私の親しい人々が幸せでありますように~
~私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の親しい人々の願いごとが叶えられますように~
~私の親しい人々にも悟りの光が現れますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように(三回)~

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~

~私の嫌いな人々も幸せでありますように~
~私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように~
~私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように~

~私を嫌っている人々も幸せでありますように~
~私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように~
~私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように~

~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~


(この慈悲の瞑想を唱える人には必ず幸せが訪れます。)

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この記事へのコメント

頭でっかち
2010年03月28日 23:13
ワンギーサ先生、こんばんは。
欲の観察は難しいです。ずっと何か落ち着かないのです。
欲の赴くままに、本を読んだり、何か食べたり、店をふらついたりしても気が晴れることはありません。
瞑想してみたり、仏法の本を読んで、心が洗われたなあと思っても、しばらくするとうずきだします。
落ち着かないのはこのうずく感覚のせいなのでしょうか?でも、ずーっとあるこの感覚どうやったら乗り越えられるのか?
こうした疑問が出てくるのも怠け心のせいなのでしょうか。
明るく伸び伸びと生きていくのは大変だなあと思います。
何はともあれがんばります。
いつも大切な教えを紹介していただいてありがとうございます。
2010年03月29日 04:52
ワンギーサさん,おはようございます。

エラーの連続でコメント入力に一時間以上かかりました。

昨年の朝カルでの信仰と確信の違いを要約したものですが、コメント入力不能な時、苦しいのを信仰する必要はありませんね(笑)。

有難うございました。
2010年03月29日 06:26
ワンギーサさん,おはようございます。

今回の子供のためのダンマパダの理解のために、昨年秋の朝カルでのスマナサーラ長老の講義の抜粋をしたいと思います。

ただ、主観による抜粋なので、参考程度にして下さい。

以下:宗教には神、天国、地獄、罪という柱があるが、証拠をだして成立させることは不可能。

死ぬまで「信仰が真理かいなか」は確かめられないので、常に「疑」がある。(宗教儀式でごまかす)

疑(確信がないこと)はこころを勇者にする。
それに対する抗体は信仰。
信仰が強い人の疑も強い。
「疑」がなくなると信仰も用済みです。

仏教は「信仰」という「無知の闇」を破ることをとく教えまのです。

四聖たい(漢字みつからず)はブッダに語られる真理。

苦:ぶたれたら、痛い。
病気は苦しい。→信仰する必要なし。

確信の根拠:生きる上では、親、学校の先生、コックさんなどを信じる。
仏教も話しを聞く前にそれなりの価値があるのかと疑問がおきる。

徐々に進む。
信頼が起きたら伺う、伺ってから付き合ってみる。
付き合うと耳を傾ける。耳を傾けると法をきく。
意味を観察すると、法、真理に納得する。
納得すると意欲がおきる。
意欲が起きたら挑戦もする。

俗世間でやってる「信、信頼」が最初に必要で、それから徐々に学んで実践して、自分自身で経験する。

以上です。
ワンギーサ
2010年03月29日 07:56
頭でかっちさん、新さん、おはようございます。
新さん、解説ありがとうございます。
2010年03月29日 08:09
一部、重大なミスがありました(汗)。

疑(確信がないこと)はこころを勇者にする。⇒疑(確信がないこと)はこころを優柔不断にする。

以上、訂正致します。宜しくお願い申し上げます。
おんがえし
2010年03月29日 10:03
 「疑」の話が出ましたので、時間についての「疑」について書いてみたいと思います。
 時間というものは「概念・思考」であって、存在するものではないと思います。
 「六根に六処が触れ、感受が起こる、そして、その一瞬後に思考が起こると思う。しかし、思考まで行かないで、六根が六処に触れ感受が起こるところで気づきを入れて、ストップすることで、その一瞬後に一切の感受が滅すると思う。」と以前に書きました。
 上記一切の感受が滅したときには、一切の変化がないと思います。一切の変化がない以上、時間もないと思います。
 したがって、時間というものがないということに「確信」を持つのだと思います。
こころざし
2015年08月31日 08:24
お釈迦様の教えの「生きることは楽ではないこと」は自分では毎日感じる事はあっても、明確に分かる域には一生到達しないと思います。
本文の「お釈迦さまは正しい生き方を教えてます」の教えを学び・実践し、そして幸福になりたいです。
たか坊
2017年03月25日 21:54
今回も明るく楽しく学べたコトを嬉しく思います♪

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