165.他が他を浄めることはない

ダンマパダ 第12 自己の章 165

ナモー タッサ バガワトー アラハトー サンマーサンブダッサ
Namo  tassa   bhagavato  arahato   sammāsambuddhassa
阿羅漢であり正自覚者であり福運に満ちた世尊に敬礼致します


自ら悪を行えば
自ら汚れることになる
自ら悪を行わなければ
自ら清まることのなる
浄と不浄は別々にして
他が他を浄めることはない


(片山一良先生 訳)


○超訳の試み

自分で為された悪行で
自分が不浄になる
自分が悪行を為さないならば
自分が清浄になる
清浄、不浄は自分の責任
他人が他人を浄化できない


○子供のためのダンマパダ

欲張ると心が汚れます
いじわるすると心が汚れます
怠けると心が汚れます
心の汚れはお母さんでも洗えない
自分自身で洗わなければ
心の汚い人になりますよ





○一口メモ

 今日は、つい最近発行されたスマナサーラ長老と脳科学者の有田秀穂教授の対談書「仏教と脳科学」(サンガ)を読みました。

 大変面白く、ためになる本です。是非皆さんもお読みになると良いと思います。内容は有田教授は脳科学の研究者ですから、心の状態を、ドーパミン神経、ノルアドレナリン神経、をそれぞれ仏教の貪、瞋を支配する神経として対応させています。しかし、セロトニン神経は、瞑想などで活性化する神経であることから痴とは対応させず、不痴と対応させたい様子なのです。しかし、スマナサーラ長老に、痴と不痴の関係、不痴は智慧のことであり普通の人間にはない能力である話などその辺に関する議論などは大変興味のある所でした。

 また、脳科学とは直接関係ない話題もあります。その一つに、授業をさぼる学生とスマナサーラ長老のつぎのような会話があります。以下引用(160ページ)。

 「あなたが学校に行かず、授業をさぼると困るのはだれですか?」
 「一番困るのは親だと思います。」
 「いいえ、違います。親は、授業をさぼているあなたを心配するかもしれませんが困りません。親は喜んで授業料を払っているのです。それは親としての楽しみなのです。」
 「それでは、私ですかね」
 「あなたは自分の意志で授業さぼり、勉強せずにいて、困ったり悩んだりすることになっても、それは自分で喜んでやた行為の結果だから、親にも私たちにも関係ありません。あなたが困ったとしても、それは決して問題ではありません。それは自分で想定した結果でしょう。さあ、答えをだしてください。勉強しなから困るのは誰ですか?」
 その人はなかなか答えられずに黙っていました。そこで私は、「正解を言います。・・・・・

 以上引用終わり。正解は皆さんも考えて下さい。

 「仏教と脳科学」の話が長くなってしまいましたが、今回の詩と関係ないことではないでしょう。この詩の解説については、スマナサーラ長老の説法や、前回の「この詩から学ぶこと」を参照してください。


○スマナサーラ長老のこの詩に関する説法

「無駄な責任転嫁」 ~すべては自分の責任であった~
http://www.j-theravada.net/howa/howa80.html


○前回の「この詩から学ぶこと」

悪行は自己の責任 悪行をしないのならば自己は清らか
http://76263383.at.webry.info/200904/article_28.html


○パーリ語原文

165.
アッタナーワ カタン パーパン
Attanāva    kataṃ  pāpaṃ,
自ら まさに 為した  悪が
アッタナー サンキリッサティ
attanā     saṃkilissati;
自ら      汚す
アッタナー アカタン パーパン
Attanā     akataṃ  pāpaṃ,
自ら     為さない 悪は
アッタナーワ ウィスッジャティ
attanāva     visujjhati;
自ら まさに  清まる
スッディー アスッディ パッチャッタン
Suddhī    asuddhi   paccattaṃ,
浄化    非浄化は  各自の(こと)  
ナンニョー アンニャン ウィソーダイェー
nāñño     aññaṃ    visodhaye.
ない 他が  他を    清め得

○詩のパーリ語原文の訳について。100番からは正田大観先生を中心に行われました関西のダンマパダ輪読会の時の御自分のノートを参考にして、木岡治美様がわざわざ書き下ろしたものを私に送って下さいました。それを参考にさせて頂いております。

〇慈悲の瞑想

~私は幸せでありますように~
~私の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の願いごとが叶えられますように~
~私に悟りの光が現れますように~
~私は幸せでありますように(三回)~

~私の親しい人々が幸せでありますように~
~私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の親しい人々の願いごとが叶えられますように~
~私の親しい人々にも悟りの光が現れますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように(三回)~

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~

~私の嫌いな人々も幸せでありますように~
~私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように~
~私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように~

~私を嫌っている人々も幸せでありますように~
~私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように~
~私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように~

~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~


(この慈悲の瞑想を唱える人には必ず幸せが訪れます。)

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この記事へのコメント

2010年03月07日 22:08
学校の先生かなぁ

生きとし生けるものが幸せでありますように
おんがえし
2010年03月07日 22:10
 私はスマナサーラ長老の上記著作を全く読んでおりません。
 しかし、脳科学者がブッダの教えのレベルに到達することは決してありえないと思います。
 脳科学者は、まず、脳が存在するという実体論から始まっていると思います。
 しかし、なぜ脳が存在すると思うのでしょうか?どうしてそうした思考が生ずるのでしょうか?
 それは、六根が六処に触れることにより感受が起こるからだと思います。
 ブッダは、六根が六処に触れたところでストップすることで、一切の触の滅、感受の滅、思考の滅を説かれたと思います。
 したがって、そもそも、脳が存在するという実体論が間違っていると思います。ドーパミン神経、ノルアドレナリン神経、セロトニン神経が存在するという実体論も同じ理由で間違っていると思います。
高橋優太
2010年03月07日 22:51
ワンギーサ先生、皆様、こんばんは。
この問題の答えはわからないです。僕は自分自身が一番困ると思い、次に自分に関係性のある人々(家族、友人)が困ると思いました。でも親でも自分でもない、とすると誰か困る人などいるでしょうか?正解が気になります。

なかなか戒律を守り切れなかったり、冥想を先のばしてやらなかったりしてしまいがちの僕ですが(ごめんなさい)、その場合困ることになるのは自分ではないのでしょうか?この問答に自分をあてはめても正解がわかりません。もう少し考えてわかったらまたコメントします。

とりあえず今からまた戒律をしっかり守るよう、ブッダの教えを実践するよう頑張ります。ありがとうございました。生きとし生けるものが幸せでありますように。
1951男
2010年03月08日 00:27
おんがえし さんへ
H22/3/2のコメントでテーラワーダ仏教普及委員会に掲載の法話29番以降のSubba-asava Sutta「中部経典第2 一切煩悩経」をご紹介いただきありがとうございました。このお経について、Thnissaro Bhikkhuの英語訳を含めて複数の翻訳・解説で読むことができて理解が深まりました。
考えるべきでないことを考えるから煩悩が増えこそすれ減ることはないのだとおっしゃっています。
当てのない思考、人間には結論の出せない思考、役に立たない思考をするから煩悩の泥沼にはまりこむのだと言うことです。ものの存在、自分の存在について「ある」とか「ない」とかの思考の仕方は、煩悩を増やすだけだから止めなさいとおっしゃっています。
正しい思考とは、「四聖諦」を観察し心を向ける(atend)ことであり、実際的で役に立つのだとおっしゃっています。物も身体も心も実際の現れであって現象としてあるのだからそれについて論議しない方がよろしいと思います。「ある」という日本語を「永遠不滅の固定した実体がある」という定義にしない方がよろしいと思います。
1951男
2010年03月08日 00:45
学生が学校をさぼるとその時に一番困る人は、担任の先生です。問題が起きたので解決に動かなければなりません。仕事が増えました。大学なら先生には関係ないことですが・・・
同級生も少し困ります。教室に発生した問題だからです。先生が困っているからです。親も兄弟も困ります。困るという言葉は「悩み、苦しみ」が起こるという意味です。しかし、こんな解答ではつまらなですね。
1951男
2010年03月08日 01:24
三度の投稿ごめんなさい。
S.A.長老がお話しになるのだから、答えは。
「あなたが学校へ来なくたって誰もこまりゃあしないんだよ。勝手にしなさい。」
1951男
2010年03月08日 01:27
まじめに考えると、学生が学ばないと困るのは社会です。
2010年03月08日 06:24
ワンギーサさん、おはようございます。近く読んでみようかと思います。
私ならこう言います。「勉強しなければ、役立つ知識はえられません。しっかり勉強すれば役立つ知識がえられます。それだけのことです。勉強せずに、役立つ知識がなく、その事で将来困ったとしても、それは成り立たない話です。」

脳科学は発展途上にあるようですが、無常を前提に考えれば、パラダイムの大転換のような事が起きて、限りなく仏教に近くなる可能性は否定できないと思います。もちろん、唯物論の方向に行くことも同様に否定できません。
むしろ、科学信仰のほうが気になるところです。

有難うございました。
サミ
2010年03月08日 06:51
ワンギーサさんおはようございます。
先日は書店でご挨拶出来
また温かいお言葉を頂きありがとうございました。
おかげさまで 一山越えられました。重ねてお礼申し上げます。
さて、今回の答えですが
『誰かが困る』と考える事自体が妄想なのでは?と思いました。
従って答えは『誰も困らない』だと思います。
ただ 誰かしらやはり困る人がいるとするならば
答えは『学校の先生』だと思います。
ありがとうございました。
ku(初めてのコメントです)
2010年03月08日 07:45
勉強しなから困るのも、自分です。思うような成果が無いと自分の心が凄く困ります。思うような成果があがると、もっともっとと欲がでて、欲に勉強が負けそうになり困ります。
私達の社会は勉強しても,勉強しなくても困るような仕組みになっていると言う説明かなと思いました。
おんがえし
2010年03月08日 10:04
 1951男さま。
 もし私が「脳」があるとか、「脳」がないとか述べたのならばそれは間違いです。
 以下、私の理解を書きます。できましたら、一度知識は横においておいて、1951男さまもご自身の体験に引き付けてお読みいただければと思います。
 今、目の前にパソコンがあります。このパソコンは、認識としてのパソコンです。主観に写ったパソコンです。
 この認識としてのパソコンが、認識の外に、客観として、固定した実体としてあるかないかを考えると邪見に陥ると思います。証拠がありませんから、思考の回転に終わりがなくなると思います。
 しかし、我々は、パソコンを認識することにより、パソコンが認識の外に存在すると『確信』するのではないでしょうか?如何でしょうか?
 この『確信』も思考ですが、我々は思考と思えないほど疑いなく『確信』していると思います。
 この『確信』が生じた原因は何でしょうか?(これを考察するのはヨーニソ・マナシカーラだと思います。)
 それは、六根が六処に触れて感受が生じたからだと思います。
まさこ
2010年03月08日 10:36
確か、長老と鈴木秀子さんの対談本のなかに、登校拒否の人に「あなたみたいな人がいると、世界が困るのです。」
みたいな内容が書かれていたと思うのですが…。
1951男
2010年03月08日 12:19
おんがえしさんへ
知識は横に置きましたが、今の私の正直な素直な感覚?理解?は下記のようになってしまいます。この知識は本当のことだからしかたありません。
外界の情報(対象)が五官に触れた感覚を「感じた」と知った時に主観が生じ、自意識が生じ、それが生きると言うことの始まりであり、外界と内界があるのを知り、あらゆる問題が生じてきます。
6番目の感覚である「意」が、五官がなくても動き出します。
自分の主観からは逃れられませんが、少しでも客観的事実に近づくよう努力をします。ですから形而上学的な発想は避けて、役に立つ実際的なことを考えるようにしています。私がここに居て今パソコンに入力しています。
それだけです。パソコンも今の私も一時的現れですが幻ではありません。出会いがあります。こうして私という主観はダイナミックに毎日躍動しています。すべてが躍動しています。無我だから無常だから。
大好き
2010年03月08日 12:31
学校の先生は、しゃべるのが仕事ではなく

教えることが、仕事です

その事ができていないことになり

やはり困るのは、先生ではないでしょうか

結構に、小中学生なんかは

先生のことを思って、勉強してるとことも有ると思います

また介護の世界においても、お世話されているのは、介護の仕事をしておられる方だったりします

生きとし生けるものが幸せでありますように

おんがえし
2010年03月08日 14:15
 伊東先生という学者の方(レオナルドダヴィンチの如く色々できる多才な方)が罪刑法定主義というものを刑法の大権威である團藤重光先生というから学びました。
 そして、それを團藤先生の名前を伏せて書いたことがあったそうです。
 そうしたら、色々な意見や批判があったそうです。しかし、翌週、実はこれは團藤先生から伺った話で、ということを話したら静かになってしまったそうです。
 ネットで調べればこの話は出てくると思います。
 このような態度は、伊東先生も述べておられますが、科学的ではないと思います。
 私は、上記話を書くにあたり、ブッダ、スマナサーラ長老の説法を頭に置きながら書いておりますが、私の話が真理か否かも、権威がどう述べておられるかではなく、自己観察により確かめていただきたいと思っています。
 自然科学は物質面について観察をします。たとえば、「痛み」が生じた場合、ケミカルな変化や、生体電流の流れなどを観察すると思います。
 しかし、自然科学は痛みの「実感」そのものは観察しません。
 「実感」を自己観察しているのは、ブッダの教えだけだと思います。
 こういう現象面だけに限っても、自然科学の方法論では、ブッダの教えに到達することはできないと思います。
 ブッダの教えは、この世の中で、もっとも科学的な教えであり、こころの科学は仏教の専権事項であることを銘記すべきだと思います(なお、仏教では、物質もエネルギーレベルで扱っていると思います)。 
まさこ
2010年03月08日 17:07
大好きさんへ

私が送ったコメント、もしや、登校拒否で悩まれている方には嫌な気持ちをさせてしまったのではと思い、「いまここに生きる智慧」をざっと見てみたのですが、「世界が困る」見つかりませんでした。私の勘違いだったかもしれません。すみませんでした。

「いまここに生きる智慧」をざっと見ていたら、「介護しているようで、介護されている人からも、いろいろもらっているのですね。」という言葉出てきました。

私は介護の仕事してるのですが、「してあげているのではないか」と思っちゃうとストレスが溜まると書いてあり、
まさに今の私の状態でした。忘れてました。お年寄りが、
私を必要としてくれているから、頑張れて、こちらがパワーをもらっているのだということを。

大好きさんのコメントで、気がつきました。ありがとうございました。

「いまここに生きる智慧」やさしいシスターと、毒舌を使いながら相手のプライドを奮起させる長老、方法は違えど、お2人共、本当にお優しいですね。






トム
2010年03月08日 20:31
授業をさぼると困るのは、さぼった人ではないのかな?
私は困ったことがありました。今もその影響があるかもしれませんが(笑)。
もくぎょ
2010年03月08日 20:44
ワンギーサ様。皆様今晩は。

もく魚の場合やはり勉強せずに困るのは自分自身だと思いました。テストの点数が悪く先生から叱られれば勉強をサボった自分を責めてしまいます。仕事でも教えられた事を忘れてしまえば会社にも迷惑がかかり、周りの人から批難されやはり自分が苦しい思いをして困ります。仕事では教えられた意外のことでも自分で勉強することが必要だと思いますから、勉強の習慣をつけていないと結局困るのは自分自身だと思いました。

しかし自分自身でないとしたら何でしょうか?もく魚も正解が気になります。
まさこ
2010年03月08日 20:51
私のコメント、一口メモと内容が大分ずれてますね。
しっかり、読まずにコメントしてしまい、すみませんでした。
こころざし
2015年08月24日 07:42
自分の心が汚れるかどうかは自分次第と思います。
日常で、自分以外の何かのせいにして怒るシーンを見る事があります→怒ったのは自身のこころ・・という事になるのではと感じます。
心をよごさないように、そして洗えるように努めたいです。
たか坊
2017年02月02日 22:56
今回も明るく楽しく学べたコトを嬉しく思います♪

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