214.215.性欲から憂いが生まれ、性欲から恐れが生まれる

ダンマパダ 第16 愛の章 214、215


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~~~~~お 知 ら せ~~~~~

◎すべての生命の幸せを願い、教えを説かれたお釈迦様の祝祭記念日
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ナモー タッサ バガワトー アラハトー サンマーサンブダッサ
Namo  tassa   bhagavato  arahato   sammāsambuddhassa
阿羅漢であり正自覚者であり福運に満ちた世尊に敬礼致します



快楽により憂いが生じ
快楽により恐れが生じる
快楽を離れた者に
憂いはありえず、況(いわん)や恐れは

欲望により憂いが生じ
欲望により恐れが生じる
欲望を離れている者に
憂いはありえず、況や恐れは


(片山一良先生 訳)


○日常語訳

快楽から憂いが生まれ
快楽から恐れが生まれる
快楽から離れた人には憂いがない
どうして恐れがあろうか

性欲から憂いが生まれ
性欲から恐れが生まれる
性欲から離れた人には憂いがない
どうして恐れがあろうか


○子供のためのダンマパダ

男は女に女は男に興味がある
しかし子供のうちは
知りたい欲は抑えるべきだ
欲を抑える力は心を強くする





○一口メモ

 今回の詩のテーマは「快楽」と「性欲」の問題です。俗世間では「快楽」や「性欲」は自然な本能として、正当化している感情ですが、仏教ではそうではありません。そのことについて、スマナサーラ長老の説法の中で詳しく述べられていますので、その中心の部分を引用します。

(引用はじめ)

 俗世間では、性欲 rati はとても自然的な本能として、正当化している感情なのです。しかし性欲が社会に与えているトラブルは、想像を絶するものです。精神病の大半は、歪んだ性欲 が生んだものです。社会で起こる犯罪の、大半の原因は性欲なのです。幼児虐待、誘拐、殺人、放火などが、毎日のように起こります。性欲のせいで、非難され て政治の世界から閉め出される政治家もいますし、会社を倒産させる人々もいます。家庭を崩壊に追い込む人々の数は膨大です。諜報活動にも性欲が大事な役割 を果たしています。治療不可能のHIV感染は、世界的な問題となっています。貧しい国々の子供たちに売春を強いるので、子供たちが人権どころか、生きる権 利まで奪われているのは、性欲のせいなのです。

 人間社会にいくら不幸を与えても、俗世間は性欲を正当化する。性欲は、自然な本能だと思う。必要不可欠なものだと思う。しかし、この考えは単なる 主観的な感情であり、客観的な事実ではありません。「子孫を残す」ということに人間も他の生命も必死なのです。それは客観的な事実です。しかし、子孫を作 ることでその生命が得るものは、何かあるのでしょうか?

 食欲も欲ですが、それは満たせないと命を失います。ですから、必然的に満たさなくてはならない欲なのです。しかし、性欲を満たせないからといって、命を 落とすことは決してあり得ないのです。それなのに、なぜ性欲は断言的に正当化しているのでしょうか。それは性欲が、生命の追う様々な「好き」の中で、かな り強烈なものだからです。ですから皆、性欲が満たされることを期待するのです。「子孫を残す」というのも、実は表向きの言い訳に過ぎません。人間の間で は、結婚にも異性との関係にも興味はないが、子供を欲しがる人もいます。その人々は子孫を残したいという気持ちではなく、子育てが「好き」で、それを喜び たいのです。現代社会では子供を作ることを完全に否定して、性欲だけ満たして生きていきたいと思う人々の数が多いのです。性欲は決して生きることに欠かせ ない本能ではありません。音楽を聴く、贅沢をするなどのように、もう一つの強烈な欲なのです。

 性欲を満たすことで命が延びるというよりは、縮みます。体力・精神力・財力を大量に費やすことになります。人は、性行為から得る快楽に強烈に執着 します。猛烈に依存するのです。ですから、その快楽を得るために費やすエネルギーの量は全然気にしないのです。日常生活の中で様々な問題が起こるとき、楽 しみや充実感を得られないとき、人はその苦しみのはけ口として性的快楽に依存することもあります。そのような人々は、愛することこそが人生の楽しみだ、神 様が与えてくれたお恵みだと思うのです。愛する家族がいるからこそ日常の苦しみを乗り越えることができるのだと言うのです。

 その上性欲は必ず独占欲を生み出す。独占欲はあらゆる問題、苦しみを引き起こします。性欲の対象を独占するためには、かなり苦労しなくてはならな いのです。なにかと闘う羽目になる。闘うことによって、負けることも損害を受けることも味わわなくてはならないのです。独占欲というものは、制御しておか ないと大変危険です。そのために、結婚と家族という文化が現れたのです。結婚、家族制度は、国によって宗教によって変わります。社会で「不倫は良くない」 と言うのは、道徳を説いているのではありません。不倫は独占欲にチャレンジを仕掛けるからです。仏教も、「不倫は良くない」と言いますが、でもこれは道徳 なのです。ブッダは、性欲は割に合わないほど不幸を招くもので、心の成長を妨げるもの、人を苦しみに徹底的に依存させるものであると説くのです。ですか ら、個人は自分の幸福を目指して心の成長を目指し、様々なトラブルや苦難を避けるために、不倫をやめるのです。自分の快楽のために他人の命を弄ぶことは人 権侵害であって、慈しみの正反対だと理解し不倫を止めるのです。ですから、仏教で不倫は良くないと言っているのは、道徳なのです。人の独占欲を正当化する ためではないのです。

(引用終り)

 前回までの、2回のブログでも述べましたので参照して下さい。

○スマナサーラ長老のこの詩に関する説法

*美しく燃える欲の炎~性欲は危険と苦しみにかぶる目隠し~
 Lust is a fire storm
http://www.j-theravada.net/howa/howa122.html


○前回までのこの詩に関するブログ記事

*性欲も憂いと恐れの原因だ原因除けば憂いがなくなる
http://76263383.at.webry.info/200906/article_6.html

*快楽と性欲から憂いと恐れが
http://76263383.at.webry.info/200807/article_22.html


○パーリ語原文

214.
ラティヤー ジャーヤティー ソーコー
Ratiyā    jāyatī   soko,
快楽から 生まれる 憂いが  
ラティヤー ジャーヤティー バヤン
ratiyā    jāyatī   bhayaṃ;
快楽から 生まれる 憂い
ラティヤー ウィッパムッタッサ
Ratiyā   vippamuttassa,
快楽から 解放された者は
ナッティ ソーコー クトー バヤン
natthi  soko  kuto   bhayaṃ.
ない  憂い どうして 恐怖が

215.
カーマトー ジャーヤティー ソーコー
Kāmato   jāyatī   soko,
情欲から 生まれる 憂いが
カーマトー ジャーヤティー バヤン
kāmato   jāyatī    bhayaṃ;
情欲から 生まれる  恐怖が
カーマトー ウィッパムッタッサ
Kāmato   vippamuttassa,
情欲から  解放された者
ナッティ ソーコー クトー バヤン
natthi soko  kuto   bhayaṃ.
ない 憂い どうして 恐怖が

〇詩のパーリ語原文の訳について。100番からは正田大観先生を中心に行われました関西のダンマパダ輪読会の時の御自分のノートを参考にして、木岡治美様がわざわざ書き下ろしたものを私に送って下さいました。それを参考にさせて頂いております。


〇慈悲の瞑想

~私は幸せでありますように~
~私の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の願いごとが叶えられますように~
~私に悟りの光が現れますように~
~私は幸せでありますように(三回)~

~私の親しい人々が幸せでありますように~
~私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の親しい人々の願いごとが叶えられますように~
~私の親しい人々にも悟りの光が現れますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように(三回)~

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~

~私の嫌いな人々も幸せでありますように~
~私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように~
~私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように~

~私を嫌っている人々も幸せでありますように~
~私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように~
~私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように~

~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~


(この慈悲の瞑想を唱える人には必ず幸せが訪れます。)


この記事へのコメント

2010年04月13日 04:02
ワンギーサさん、おはようございます。

スマナサーラ長老著「ブッダの智慧で答えます」を最初に読んだとき、「これは屁理屈なんじゃないか!性欲の悪いところばかり強調してないか!」と反発を感じたのを覚えてます。

「怒りは断言的にダメ」という教えと並んで、なかなか納得しがたい教えでした。

それにはまず、「性欲はいい」という主義や価値観から脱出することでした。一種のマインドコントロールからの脱却です。

「怒り」もそうですが、「やはりいいものではないか」と内心思っていては、いくら克服しようとしても徒労に終わるだけだと思います。

その後、性的刺激を制御したりしましたが、徐々に気楽に生きられるのを実感してます。まだまだ、完全に克服できてませんが、「性欲がなくなったら大変だ」という考えは完全な錯覚です。

さて一方、男女間の理解を深めるために性行為は必要だとする説があります。性行為は単に、子孫をふやしたり、快楽に耽ったりするものではなく、お互いのみっともないところをさらけ出し、認め合うことによって、心の触れ合いを深めていくものだ。という意見です。

一理あるかもしれませんが、自分の愚かさ、未熟さをさらけ出すのに「仏教を学ぶ」ことに右にでるものはないと思います。自分でも気付かない愚かさに対して攻撃するのは、仏教の真骨頂ではないでしょうか。

だから、その説も性欲を正当化するための悪あがきのように思えてなりません。

後は、性欲根絶に向かって努力するだけです。

有難うございました。
おんがえし
2010年04月13日 10:55
 ブッダの説法を収めた中部経典「蛇喩経」について、スマナサーラ長老によるご解説があります(協会発行のDVD)。
 そのご解説の一部を私なりに理解してまとめたものを以下に書きます。
 生命は、性欲の奴隷となって、子孫を残す目的で生きている。そして、その子孫も性欲の奴隷となって、子孫を残そうとする。
 こうしたからくりにはめ込まれている。
 それは智慧をもって観察すれば無意味なことである。
 このような輪廻から脱出するのがブッダの教えである。
 だから、性欲を肯定することは、ブッダの教えそのものを否定することになる。単純なことじゃない。ブッダを否定してどうするのか。(一部理解、終わり)
 
 このようなことからすれば、まず、ブッダの教えを学ぶものは、性欲は肯定されえないということを覚えておくべきだと思います。
 在家では家族制度がありますので、一定限度性行為が許されますが、スマナサーラ長老は、在家の人に対しても、性欲の話をされる場合には、実に注意深く説法されていると思います。決して肯定的な話はされないと思います。
 
 なお、スマナサーラ長老が「般若心経は間違い?」(宝島社新書)において、「ブッダの教えは原理主義でなければならない。例えば、慈しみの教えを原理主義で守ってみれば、たちまちに地球は守られる。問題は仏教徒があいまい中途半端で原理主義ではないことである。間違った教えは原理主義では危険ある。正しい教えは原理主義でなければならない。」というようなことを述べておられたように記憶しております。
 鉄人様のブログでのいきさつにも配慮させていただいて、原理主義についても、書き込ませて頂きました。
鉄人
2010年04月13日 11:17
おんがえし様 今日は。

おんがえし様にはこころより感謝致します。小生はブログを止めました。
勉強不足です。知識も智慧も足りない。中途半端なことで、仏教を語るのは止めです。
小生も「般若心経は間違い?」は拝読しています。忘れているんですね。
これからもご指導宜しくお願い致します。

おんがえし
2010年04月13日 11:23
 鉄人様。昨日の書き込み読ませて頂きました。
 隻手の音声につきましては、困った時はダンマパダ182のコメント欄で、私が書き込みした文章を読まれてのことだと思います。
 そこに引用しましたスマナサーラ長老の著作で不十分ということであれば、ブッダの実践心理学4(サンガ)にもっと詳しく悟りについての分析的な説明があったと思いますので読まれては如何かと思います。 
 私として強調したいのは、「生命共通のデータであり、猛烈なスピードで生滅変化する六処の波と六根の波がぶつかって(触)、感受が生じたところで気づきを入れてストップする。その次の瞬間、一切の感受が滅する(涅槃)と思う。」ということです。
 その際、たとえば、耳に入った音が、こころの中で「カラスの声だ」と分かってしまっているならば、六処と六根がぶつかったところで、ストップしたことにはならないと思います。
 純粋に「音」(の波)でストップする必要があると思います。
 
 一切の感受を滅するためには、上記のような方法しかないと思うのです。
 ですので、ヴィパッサナーには流派というものはないと思います。
はあ?
2010年04月13日 13:56
>性欲がなくなったら大変だ」という考えは完全な錯覚です。

こういう事を力んで言う方がいるんですねえ。
こちらのブログでマインドコントロールの解き方は、教えていないんですか?・・・いないでしょうね(嘲笑)
2010年04月13日 17:54
以前の私も私の周囲の人たち(ちなみに全て男性です)は「もし性欲がなくなったらどうしよう」という心配がありましたが、ただの杞憂でした。

正確な記録はとってませんが、ここ二年は男女間の性行為(おあそびも含む)は一切しておりません。

だんだん、気が楽になってきました!心を観察すると、欲望から離れたほうが楽なことがよくわかります。

ただの錯覚ではありませんので御心配は無用です(笑)。

ただ、仏教に興味のない方に押し付けるつもりは毛頭ございません。
鉄人
2010年04月13日 22:04
おんがえし様 今晩は。

早速のご返答、深謝致します。
実はおんがえし様のno.182「隻手の音声」のコメントは拝読しておりませんでした。
先々日の「風に非ず、幡に非ず」の解答と「隻手の音声」の解答が、ひょっとしたら同じなのではないかと思ったものですから、質問させていただきました。
またこの度、ご丁寧な説明をいただきまして、痛み入ります。やはり小生には難解です。感覚的には感じるのですが、ちゃんと分っていることにはなりません。
基礎からの勉強が必要だと痛感しました。手元に「実践心理学」の第四巻がありますので、集中して学びたいと思っております。
いろいろと教えていただきまして、有り難うございました。
こころざし
2015年09月05日 07:48
性欲は満たす程、さらに増強するようなイメージがあります。そして冷静になると、何故性にそれ程執着するのか・・と?を感じる機会でもあります。種の保存と言っても、既に子供は居たりします。
性欲に振り回される事がないように、自制をして参りたいです。
たか坊
2017年05月09日 23:07
今回も明るく楽しく学べたコトを嬉しく思います♪

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