218. 言葉で語れない涅槃を志した人は

ダンマパダ 第16 愛の章 218

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~~~~~お 知 ら せ~~~~~

◎すべての生命の幸せを願い、教えを説かれたお釈迦様の祝祭記念日
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を是非クックして下さい。http://www.j-theravada.net/

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ナモー タッサ バガワトー アラハトー サンマーサンブダッサ
Namo  tassa   bhagavato  arahato   sammāsambuddhassa
阿羅漢であり正自覚者であり福運に満ちた世尊に敬礼致します



言葉を超えた境地を求め
しかも意により満たされて
諸欲に心が捉われなければ
かれは上流の者といわれる


(片山一良先生 訳)


○日常語訳

言葉で語れない涅槃を志し
心にそれがゆきわたり
五欲に執着のない人は
上流の聖者と呼ばれる


○子供のためのダンマパダ

人間の最高の目的地は
仮にネハンと言いますが
言葉で言えない場所なんだ
しかし、人々はそこを目指さない





○一口メモ

質問:
なぜ人間は最高の目的地を目指さないのでしょうか?

回答:
1.人間はそれぞれ、自分の好きな目的地を作ります。ですから、最高の目的地と言われてもそこを目指すよりは、自分の好きな目的地を目指したいからです。

2.最高の目的地であるネハンは、言葉で表現できない場所ですから、どんな所か分からないのです。分からない場所には行こうと思わないのです。

 以上の質問と回答から考えると、仏教を勉強するということは、言葉で表現できない涅槃のイメージをなんとか理解して、しかしそのイメージは言葉で語れないものですから必ず間違っていますから、そのイメージを壊しつつ、涅槃を目指す意欲を作ることだと思います。

 涅槃を目指す意欲が高まると、涅槃に到達できるのだとこの詩は述べているのだと思います。


○スマナサーラ長老のこの詩に関する説法

*解脱は理解できない~仏教徒は、仏陀の道を歩んでいるのか?~
 Conflict of objectives
http://www.j-theravada.net/howa/howa125.html


○前回までのこの詩に関するブログ記事

*言葉では語れぬ世界こころざし愛欲捨てた聖者は不還果
http://76263383.at.webry.info/200906/article_9.html

*言葉で語れない世界を志し
http://76263383.at.webry.info/200807/article_25.html


○パーリ語原文

218.
チャンダジャートー アナカーテー
Chandajāto    anakkhāte,
意欲が生まれ 語れないものに
マナサー チャ プトー スィヤー
manasā    ca   phuṭo    siyā;
意によって また 充満して  いる 
カーメース チャ アッパティバッダチットー
Kāmesu  ca  appaṭibaddhacitto,
欲望に また 心が束縛されない者は
ウッダンソートーティ ウッチャティ
uddhaṃsototi   vuccati.
上流にある者と 呼ばれる


〇詩のパーリ語原文の訳について。100番からは正田大観先生を中心に行われました関西のダンマパダ輪読会の時の御自分のノートを参考にして、木岡治美様がわざわざ書き下ろしたものを私に送って下さいました。それを参考にさせて頂いております。


〇慈悲の瞑想

~私は幸せでありますように~
~私の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の願いごとが叶えられますように~
~私に悟りの光が現れますように~
~私は幸せでありますように(三回)~

~私の親しい人々が幸せでありますように~
~私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の親しい人々の願いごとが叶えられますように~
~私の親しい人々にも悟りの光が現れますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように(三回)~

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~

~私の嫌いな人々も幸せでありますように~
~私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように~
~私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように~

~私を嫌っている人々も幸せでありますように~
~私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように~
~私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように~

~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~


(この慈悲の瞑想を唱える人には必ず幸せが訪れます。)


この記事へのコメント

2010年04月16日 04:19
ワンギーサさん、おはようございます。

わからない境地を目指す。わからないはずだが、イメージを作ってしまう。どうすればいいのでしょうか?

間違っていたらワンギーサさんに是非指摘して頂きたいのですが、一応二通りのやり方があると思います。

私の場合そうですが、自己評価は案外高いものです。それに引き換え、他人様の目は厳しく、案外と客観的な評価をしてる場合が多いものです。だから、信頼のおける人の忠告に耳を傾けることがひとつ。ちなみに、あまり知らない間柄でも自分の欠点をズバリ指摘することがあるので、そのような批判を吟味するのも無駄ではないと思います。

次に、信頼できる人のアドバイスを受けられる状況でない。だれも何も批判や忠告をしてくれない場合どうするか、ということがあるかと思います。

その場合、「戒」がとても役立つと思います。
心は本来悪が好きで、かなりのくせ者です。

身体と言葉の行為はわかりやすいです。
涅槃に向かっているが、つい虫を殺してしまう。陰口、無駄話が楽しい。というのでは話になりません。

よく注意して自分が「戒」を守っているのか、というのがふたつめです。

以上の二点で気をつけていれば、少なくとも、涅槃と逆方向に向かっていたり、自分勝手なイメージに固執することが、かなり防げると思うのですがいかかでしょうか?

有難うございました。
おんがえし
2010年04月16日 11:17
 私は、ヴィパッサナーで、身体の感覚がなくなっていき、私という身体感覚が実感としてもなくなっていき、無限の無の空間を体験するという体験をしたことがあります。
 しかし、以前にも、お釈迦様は、一切の感受の滅を涅槃と定義されているというようなスマナサーラ長老の説法を引用させていただきましたが、上の体験においては、少なくとも、「気づきという感覚」が残っておりますから、悟りとはいえないと思います。
 しかし、上記、私のような体験を悟りと称していることも多いように思います。
 
 涅槃、解脱、悟りなどの言葉は、論者によって、その意味内容がまちまちであるので、データを客観的に分析して、本当にブッダの教えにいう涅槃、解脱、悟りであるのかということを見抜く必要があると思います。
 その労を惜しんではならないと思います。
ワンギーサ
2010年04月16日 18:31
新さんへ。
質問の答えです。
「日常読誦経典」83ページ。
「44.他人は自分の主観にとりつかれ、しがみつき、捨てられないでいるが、我々は自分の主観にとらわれず、しがみつくことなく、簡単にすてられるようにと戒めましょう。」という言葉を肝に命じておけばいいのではないかと思います。
2010年04月16日 19:25
ワンギーサさん、こんばんは。

御指導有難うございました。

早速、紙に書いて壁に貼っておきます。

「世直しよりは自分直しが肝心です。」「怒らないことは、他人の間違い、欠点を理解し許す気持ちを持つことです」「いかなる場合でも怒る人は愚か者で敗者です」。
このブログで教わった言葉ですが、自室の壁に貼ってあります。毎日見てると違います。

今後も心の悪い癖を直したいと思います。

有難うございました。
こころざし
2015年09月06日 09:01
日常で涅槃の言葉を聞く機会は殆どないですが、悟りという言葉はそれなりに接する事があります。ですが僕が学ばせて頂いている内容とは違う形で話されている様な印象を感じる事があります。
私自身も言葉に捕らわれ・分かっているような錯覚に陥っていると感じています。
言葉でいえないような涅槃の世界を目指したいです。
たか坊
2017年07月03日 20:10
今回も明るく楽しく学べたコトを嬉しく思います♪

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