200.何も持たないわれらはこころから気楽に生きよう

ダンマパダ 第15 安楽の章 200

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◎お知らせ
すべての生命の幸せを願い、教えを説かれたお釈迦様の祝祭記念日
ウェーサーカ祭に興味のある方は下のアドレス(日本テーラワーダ仏教教会HP)
を是非クックして下さい。http://www.j-theravada.net/
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ナモー タッサ バガワトー アラハトー サンマーサンブダッサ
Namo  tassa   bhagavato  arahato   sammāsambuddhassa
阿羅漢であり正自覚者であり福運に満ちた世尊に敬礼致します


われらの中にいかなる障碍(しょうげ)も
有することなく安楽に生きよう
アーバッサラの神々のように
喜びを食(は)む者となろう


(片山一良先生 訳)


○日常語訳

何も持たないわれらは
こころから気楽に生きよう
天界に住む光音天の如く
喜びをエネルギーとして生きよう


○子供のためのダンマパダ

赤ちゃんは何も持たずに
生まれてきます
喜びさえあれば大丈夫
気楽に生きていけますよ





○一口メモ

 今回の詩のポイントは、私たちが気楽に生きることができる根拠について述べているのです。その言葉は、パーリ語ではnatthi  kiñcanaṃ(ナッティ キンチャナン)ですが、文字通りの意味は何ものもないということですが、障碍(しょうがい)という意味も辞書にはあります。妨げになるものがないという意味です。

 自分というものは、何もない者、障碍がない者であると本当に思えれば、何も悩みがなく、気楽に生きられると思いますが、なかなか思えないから、悩みがあるのです。

 仏教の修行というものは、禅の言葉で言えば、「本来無一物」を悟るためであるのでしょう。

 悟るまではなかなかそのようには思えませんが、少し考えて見ましょう。生まれてくるときは何も持たずに生まれてきます。それでも、ほとんどの生命は生きていきます。一部にはそのまま死んでしまう生命がありますが、今生きている私たちは何も持たずに生きてこられたのです。これは不思議といえば不思議ですが、本来無一物の一つの証拠ではないでしょうか。

 また、私たちはのすべては、私の物ではないのです。すべて借り物です。スマナサーラ長老は私、私と言っているものすべてレンタルで、またすべて返すものだと仰っておられます。この肉体は親からの卵子と精子をもらって、その後はいろいろな食べものでできているのです。またいろいろな知識もはじめは親から、その後は先生やいろいろな人々から学んだものです。自分のオリジナルなものは一つもないのです。成長して自分に意見だと言っても過去の人々の意見を組み合わせて作ったものなのです。(仏教では、業のみ自分のものと考えていますが、ここでは一応、業は保留しておきます。)

 そして、最後には、死ぬときには、何も持たずに死んでいきます。もし私たちの何かが自分のものであったら、死ぬとき何か持って行くのではないかと思いますが、自分のものが何もないから、死ぬとき、何も持たずに死んで行くのではないでしょうか。それは確実な証拠とはいえませんが、一つの傍証(間接的な証拠)にはなるのでしょう。

 このように考えると、すべての生命は本来無一物です。すべて借り物ですと言えると思います。私にはもともと何もないのですから、何にも心配する必要がないのです。

 この詩にはアーバッサラ(光音天)という神々のことが述べられています。これらの神々は喜びをエネルギーにして生きているということです。私たちも、これらの神々のように、何もなくても、いや何もないから(心配することがないから)、喜びをエネルギーにし気楽に生きて行けるのではないでしょうか。


○スマナサーラ長老のこの詩に関する説法

逃げる幸福~ものに頼る幸福は、人を裏切る~
 Betrayal of Happiness
http://www.j-theravada.net/howa/howa108.html


○前回までのこの詩に関するブログ記事
何ものも持たないゆえに心から気楽に生きる光音天のごとく
http://76263383.at.webry.info/200905/article_24.html

われらは何も持たないけれど
http://76263383.at.webry.info/200807/article_11.html


○パーリ語原文

200.
ススカン ワタ  ジーワーマ
Susukhaṃ vata  jīvāma,
真に安楽 実に 生きよう
イェーサン ノー ナッティ キンチャナン
yesaṃ  no    natthi  kiñcanaṃ;
所の  我々は ない  何も
ピーティバッカー バウィッサーマ
Pītibhakkhā    bhavissāma,
喜を食とする者 あるであろう
デーワー アーバッサラー ヤター
devā   ābhassarā yathā.
神々  光音天  ように


〇詩のパーリ語原文の訳について。100番からは正田大観先生を中心に行われました関西のダンマパダ輪読会の時の御自分のノートを参考にして、木岡治美様がわざわざ書き下ろしたものを私に送って下さいました。それを参考にさせて頂いております。


〇慈悲の瞑想

~私は幸せでありますように~
~私の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の願いごとが叶えられますように~
~私に悟りの光が現れますように~
~私は幸せでありますように(三回)~

~私の親しい人々が幸せでありますように~
~私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の親しい人々の願いごとが叶えられますように~
~私の親しい人々にも悟りの光が現れますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように(三回)~

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~

~私の嫌いな人々も幸せでありますように~
~私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように~
~私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように~

~私を嫌っている人々も幸せでありますように~
~私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように~
~私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように~

~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~


(この慈悲の瞑想を唱える人には必ず幸せが訪れます。)

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この記事へのコメント

2010年04月03日 04:22
ワンギーサさん、おはようございます。

ボールペン一本でも、自分のものという思いが色々あったりします。

幸い、お寺もお寺内のものも誰の所有物ではありません。ここでのお寺とはゴータミー精舍、所有とはごく俗的な意味です。

お寺に行った時、ボールペンとかホチキスとか置いてくると、自分のものという思いが消えていきます。

いわゆるお布施ですが、自分一人で使用するものから、誰もが使用出来るものへと変わっていく途上で、「そもそもレンタルだった」という感じを実感出来ます。

面白いのは、ボールペン一本でも「私のもの」という思考が苦しみの大きな原因となっていることです。

最近、あまりお寺に行ってませんが、行ったときには有効に利用したいと思います。もちろん「悪思考を直すため」です。

有難うございました。
あっきん
2010年04月03日 10:05
おはようございます。
怨み・悩み・欲の感情は持たなければ苦しまない。
一秒ごとに変化する私が事実なら、自分はいません。
なので、苦しむ必要もない。
前回あっても・なくても苦というのが分からないとコメントしました。物質的に満たされる幸せレベルでなく精神世界に焦点を当てているんだと気持ちが変化しました。思いだすのがダンマパダ1 「清い心なら幸せになる」と原点に戻るのであった。
生きとし生けるものは幸せでありますように。
あっきん
2010年04月03日 10:29
スマナサーラ長老が以前言ってました。子供の頃に「何食べたい?」聞く。同じ人で年老いて「何食べたい?」と聞く。メロンとか返事する。
変わってませんねーみたいな事をいってた時、私はその意味が分かりませんでした。今ではなにげに精神レベルが同じで向上していないことを指摘していると感じられました。
おんがえし
2010年04月03日 17:36
 昨日、六処の一つである「色」の意味に関連して哲学のセンスデータに触れました。
 哲学のセンスデータというのは、私の理解ではこのようなものです。
 たとえば、今目の前に黄色の長方形の本があるとします。
 しかし、果たして黄色といえるのでしょうか?太陽光の下では黄色かもしれませんが、赤い光や青い光の下では黄色ではないかもしれません。夜真っ暗闇では見えないかもしれませんし、月明かりでは白っぽく見えるかもしれません。
 長方形というのも真上から見たら長方形かもしれませんが、ちょっと角度をずらせば長方形ではなくなると思います。
 そうすると、本固有の「色、形」というものはなくなるのではないかということになります。
 考えてみれば、本の裏は、今、目に入っていません。それは存在するのでしょうか・・・。
 そうこうして、哲学のセンスデータという考え方は、目に「色、形」といったセンスデータが触れるのであり、本という実体が目に触れるわけではないという考え方をしたのだと思います。それを徹底すれば、実体は存在しないという理論にも到達し得ると思います。
 しかし、このような「色、形」はブッダの教えにいう「色、形」ではないと思います。
 まず、センスデータは、各生命に個別なものだと思います。
 また、素粒子レベルで猛烈なスピードで生滅するデータではないと思います。
 これらの点でセンスデータ論は、ブッダの教えとは全く異なると思います。
 疑問ある方は、昨日引用させていただきましたスマナサーラ長老の説法の最後の方をご覧いただければ幸いに思います。
 ブッダの教えはuttari manussa dhammaであって、人間の知識範囲を超えた教えであることに留意すべきだと思います。
おんがえし
2010年04月03日 20:49
 一昨日、蝶は紫外線を見ることができるので、人間の見る「花」と、蝶が見る「花」は違うと思うというようなことを書きました。私の記憶では、蝶は蜜が見えたりするみたいです。
 しかし、生命科学が、「蝶が紫外線を見ることができる」と結論づけるのはあくまで推測にすぎません。我々が蝶の目をもって花を見ることはできないからです。
 最近、紫外線撮影カメラがあるようですが、その場合も、人間の目に見えるようにするためには、可視光線の範囲に変換することになると思います。
 ブッダの教えにおいて、素粒子レベルで猛烈なスピードで生滅変化する生命共通のデータ(物質)を観るという場合、ヴィパッサナー瞑想で直接に観るのであって、上記のような「推測」、機械による「変換」とは全く次元が異なることにも注意して頂きたいと思います。
 ブッダの実践心理学1(サンガ)で、スマナサーラ長老が述べられていたと思いますが、「直観(直感ではない)」がポイントだと思います。
こころざし
2015年09月02日 07:40
プライドや物欲を満たしても、結局はそれを持っていく事は出来ない形で死んでいく事、興味深く思います。
生活が出来るのならそれで良い・・のレベルで満足すれば、世の中は随分と生き易くなると思います。
死んでも持っていける心を成長させる事や・善業を積む事を大事にし、その実践に努めて参りたいです。
たか坊
2017年04月05日 12:21
今回も明るく楽しく学べたコトを嬉しく思います♪

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