278.すべての現象は苦(無意味)である

ダンマパダ 第20 道の章 278

ナモー タッサ バガワトー アラハトー サンマーサンブダッサ
Namo   tassa   bhagavato   arahato    sammāsambuddhassa
阿羅漢であり正自覚者であり福運に満ちた世尊に敬礼致します

あらゆる行は苦なり、と
智慧を持って観るときに
かれは苦を厭い離れる
これ清浄にいたる道なり


(片山一良先生 訳)


○日常語訳

すべての現象は苦(無意味)だと
智慧によって見る時
苦(無意味)を厭い離れる
これは清浄への道である


○子供のためのダンマパダ

子供でも生きることは
楽しいことばかりだと
思わないように
苦しいことも多いよ





○一口メモ

 お釈迦さまは、「すべての現象はドゥッカだ」と仰いました。このドゥッカはパーリ語で、「苦しみ」という意味です。ですから、普通に訳すと、「すべての現象は苦である」となります。仏教の中心課題は、いかに生きるかということですから、さらにこの言葉を分かりやすく翻訳すると、「生きることは苦しみである」ということになります。しかし、このように書くと多くの人々は、生きることには楽しみもある、苦しいばかりではないとお釈迦さまの言葉に反発するのです。

 このお釈迦さまの言葉は、聖なる真理、役に立つ普遍的法則を語っておられるのです。苦るしい時もある、或は苦しい人もいるというように、個別の事柄を述べているわけではないのです。どんな時でも、どんな場所でも、どんな人にもなり立つ法則なのです。

 苦と訳したパーリ語のdukkhaはdu+khaで構成されていて、duは苦、難という意味、khaは空虚、空しいの意味で、それをあわせて無価値、無意味の意味に解すことができます。「真理の苦」は空虚、無意味の意味に近いと言われています。スマナサーラ長老のパンフレット「なぜ苦は偉大な真理なのか」(施本)にもそのように説明されています。そうすると、「生きることは、無価値、無意味である」ということになりますが、これが真理の言葉なのです。そうすると、さらにこの言葉に反発する人が増えるかのしれませんが、しかしこの真理は変えられません。

 昨日も述べましたが、どんな生命も、生まれたからには、必ず死にます。生きてる時に、大いにがんばって大金持ちになったり、有名人になったりしても、貧しく、無名の人と同じように、同じように死後になにも持って行けず死んでしまいます。(こでは、業のことは保留にしておきます。)ですから、生きていることに、いろいろ価値を置くことは無意味なのです。価値を置く人がいたとしてもそれは単なる自己満足だけです。

 このことが理解できれば、生きること及びそれにまつわる執着がなくなります。執着のない人の心には、苦、苦悩はありません。そのような人の心はきれいになっています。


○スマナサーラ長老のこの詩に関する説法

*生命の創造者は苦である ~苦を知る人こそ苦を乗り越えられる~
 Suffering is the producer and administrator of life.
http://www.j-theravada.net/howa/howa162.html


○前回までのこの詩に関する説法

*一切の現象が苦と知るならば苦から離れて心清らか
http://76263383.at.webry.info/200907/article_14.html

*すべて現象 苦であると一切厭い解脱する
http://76263383.at.webry.info/200808/article_30.html


○パーリ語原文

278.
サッベー サンカーラー ドゥッカーティ
Sabbe   saṅkhārā  dukkhāti,
一切の  事象は  苦で(ある)と
ヤダー パンニャーヤ パッサティ
yadā  paññāya  passati;
の時  智慧で  見る
アタ ニッビンダティ ドゥッケー
Atha   nibbindati  dukkhe,
その時 厭う     苦を
エーサ マッゴー ウィスッディヤー
esa  maggo  visuddhiyā.
この 道が   浄化のための

○詩のパーリ語について。100番からは正田大観先生を中心に行われました関西のダンマパダ輪読会の時の御自分のノートを参考にして、木岡治美様がわざわざ書き下ろしたものを私に送って下さいました。それを参考にさせて頂いております。

〇慈悲の瞑想

~私は幸せでありますように~
~私の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の願いごとが叶えられますように~
~私に悟りの光が現れますように~
~私は幸せでありますように(三回)~

~私の親しい人々が幸せでありますように~
~私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の親しい人々の願いごとが叶えられますように~
~私の親しい人々にも悟りの光が現れますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように(三回)~

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~

~私の嫌いな人々も幸せでありますように~
~私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように~
~私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように~

~私を嫌っている人々も幸せでありますように~
~私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように~
~私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように~

~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~


(この慈悲の瞑想を唱える人には必ず幸せが訪れます。)


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~~~~~お 知 ら せ~~~~~

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この記事へのコメント

CyberBaba
2010年05月23日 22:27
たびたびの反論で申し訳ありませんが、ここは要の部分なのでご容赦ください。

サンカーラを現象と訳すのはよくある解釈ですが、サンカーラはあくまでもサンカーラ(受想行識の行)であり、現象と訳すのは誤りだと考えられます。サンカーラが苦であるのは、実感できるかどうかはともかく、論理的には明らかです。

苦ではなく、無意味というのは一つの解釈ではありますが、四聖諦では無意味というより苦だとはっきり言っています。つまりオリジナルは一切の現象が苦なのではなく、四苦八苦は免れないということを言っており、またサンカーラが苦であると言っているというのが、素直な解釈だと考えられます。

一切の現象が苦であるというのは後世の誤解と考えられます。一切皆苦を信じていて、葉っぱが落ちるのが苦だとか、息をするのが苦だとか、苦でもなんでもないことを悩んで不幸な人生を送っている人が多いのを、見るに耐えません。私自身もかつて一切何もかもが苦または無意味だと信じていて、そのときは本当に苦ばかりで辛い思いをしました。

四苦八苦は免れない、全てのサンカーラは苦だ、これニュートラルな物の観方で、正見だと思います。詳しくはトラックバックをご参照お願いいたします。
2010年05月23日 23:50
CyberBabaさんへ。
この場合のサンカーラは十二支の第二支とするのが、定説ですし、意味からしても、五蘊中の行蘊に限定して理解するのは無理があります。また、ドゥッカの理解を「苦しい」と日常語としてのみ取るのも「真理としての苦」を理解してないと思います。また、「私自身もかつて一切何もかもが苦または無意味だと信じていて、」という言葉がありますが、信じているのみで、理解してないから辛い思いをしたのではないですか。少し、きつい言葉の反論でお許し下さい。
CyberBaba
2010年05月24日 00:15
ワンギーサさん

十二支の行、つまり形成力でも良いと思いますが、どちらにしても心が持っていこうとする力を表していて、それを現象と訳すのには無理があると思います。

また葉っぱが落ちるとか、息をするのとかが苦だと信じていた人がいますが、それらは自然現象です。水が上から下に落ちるようなもので、苦でもなんでもありません。また生起消滅も苦だという解釈もありますが、ではシャボン玉ができたり壊れたりするのは苦でしょうか?このあたりは、一切皆苦を正当化させるためのこじつけに過ぎないと考えられます。

もちろん苦を否定しているのではなく、苦を避けることができないという厳然たる真理は疑いようがありません。

ブッダの四聖諦の説法は誰もが一発で理解したそうですから、我々が理解できないのは、後世の解釈が間違っていると考えるのが妥当です。
2010年05月24日 04:23
CyberBabaさん、落ち着いて読んでください。 十二支の行は形成されたもの、雲井パーリ語辞典によれば、有為の法、事柄と書かれています。ですから、現象と訳すのは無理ではなく、自然なのです。葉っぱが落ちるとか、息をするのもサンカーラです。自然現象もサンカーラです。生起消滅もシャボン玉ができたり壊れたりすのもサンカーラです。それらが「真理の苦(無意味)」なのです。

「ブッダの四聖諦の説法は誰もが一発で理解したそうですから、我々が理解できないのは、後世の解釈が間違っていると考えるのが妥当です。」その通りです。つまり、ドゥッカを日常的な「苦しい」という意味にしか、理解できないから、真理の苦(無意味)として理解しないからです。
2010年05月24日 04:40
ワンギーサさん、おはようございます。

 CyberBerber様が問題提供されたように思います。

 自然現象に特別な意味や価値はありません。

 木葉は別に人間のために落ちるわけではありません。

 その「意味がない」というところが、「苦」ということではないでしょうか。

 すべての現象はシャボン玉のごとく弾けるもので、執着する価値はない、又は執着出来ないということなのではないでしょうか。

 自然現象に限っても、例えば夏がいいか?冬がいいか?などは評価不可能です。

 そのへんが「無意味」ということなのではないでしょうか。

 有難うございました。
CyberBaba
2010年05月24日 05:10
ワンギーサさん

全ての現象は無意味であるという解釈は、それはそれで筋が通っていると思います。

しかしサンカーラを現象と解釈している他の経典はあるのでしょうか?パーリ語辞典はこの部分だけを解釈するための後付のように思われます。

またブッダを言うドゥッカは、元々四苦八苦のようないわゆる具体的な苦を指していました。それがここの部分ではいきなりもっと広い意味での無意味ということに解釈されています。ここにも大きな飛躍があり、やはり後付だと思われます。

ブッダの言葉の使い方はもっとシンプルだと思います。だからこそ誰でも理解できた。それが現在理解できないのは、後世の誤解が多いというのが私の見解です。

しかしこれ以上はおそらく平行線なので、そろそろこの話題については打ち切りにさせていただきたいと思います。
2010年05月24日 05:47
○スマナサーラ長老のこの詩に関する説法
*生命の創造者は苦である ~苦を知る人こそ苦を乗り越えられる~http://www.j-theravada.net/howa/howa162.html なるほどと思いました。いつもながら凄いと感じました。m( )m
チューラパンタカ
2010年05月24日 07:22
ワンギーサ比丘のご説法は

私には素直に受け入れられます

その通りだと、感じることは多いです

息をすることすら、苦なのです

間違いのないことだと、私は思います

農作業中、蚊に刺されても気づきません

しかし、静かに、こころ落ち着いてる時、なのは、すごい痛みに感じられる時もあります

息をすることに、気づいていけば、かなりの苦しみであることが分かります

苦しいから、息を、吸ったり、吐いたり、しているように思います

息をすることが楽であれば、息をする事を忘れて、すぐに死んでしまうとも思います

老衰で、体の機能の方が先に止ろうとするのであれば、苦しくないとは思いますが

それ以外は、全て苦しみだと思います

学校に行こうとすることも、仕事に行こうとすることも苦しみで

いかないことにするのも苦しみで、どちらにしろ苦しみなのだと思います

それは、感情、自体全て苦しみの基になると思います

当たり前に、何のことなく、淡々としていれば、大した苦しみは、ないと思いますが
2010年05月24日 12:05
すべてはdukkhaと、
すっぱり断言していただき
もやもやしていたものが
すっきりしました。

どんなことも
そういうものだと
受け入れられるように
なりました。

***

「苦」の定義自体が
人それぞれ異なることで
あたかもどちらかが
誤りのように見えるのは
残念なことです。
あっきん
2010年05月24日 14:34
 こんにちわです。
 苦と言うのが、いま一つ実感がありませんでした。
知識がある訳でもなく。苦の消滅とはなんぞや。でも私レベルで考えました。「無意味」多少理解できました。開き直り勉強せず怠けた方が得な訳でない。無意味なのでそれなら役に立つ、心をキレイにした方がよいと思いました。広い視野で見ていると私的感じたのです。

*6月号パティバダーの布施本にパンチャーヴダクマーラの物語がありました。漫画で凄く分かりやすくて面白く価値があります。どう生きるべきか。子供達にも理解しやすそうだと思いました。
生きとし生けるものは幸せでありますように。
鉄人
2010年05月24日 22:17
ワンギーサ様 今晩は。

本当に深い深い偈ですね。
生きることが無意味ならば執着する意味がない。
執着が無くなれば苦も無くなる。
納得。

そしてその執着を無くす方法まで釈尊は残されている。
感謝の思いを言葉では表せません。

後はその方法をせっせと実践するだけですね。

法と出会い、スマナサーラ長老と出会い、ワンギーサ様と出会い、広島ダンマサークルの善友と出会い、またこのブログにコメントを出されている善友と出会うことが出来た小生。

なんとラッキーでしあわせ者なのでしょう。



こころざし
2015年09月18日 07:26
以前は「何か楽しい・満足する事を得なくては」との視点で生きていました。具体的にそれがどんな内容か?考える事はありませんでした。
そんな実態がよく分からないものを得ようとするより、今の苦しみを避けようとして生きていると自分を見た方が当たっていると感じました。またそのように見ると、執着する気持ちが少し薄れるように思います。
執着をしているものに気づき、そして捨てれるように努めたいです。

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