279.すべての事物は無我である

ダンマパダ 第20 道の章 279

ナモー タッサ バガワトー アラハトー サンマーサンブダッサ
Namo   tassa   bhagavato   arahato    sammāsambuddhassa
阿羅漢であり正自覚者であり福運に満ちた世尊に敬礼致します


あらゆる法は無我なり、と
智慧をもって観るときに
かれは苦を厭い離れる
これ清浄にいたる道なり


(片山一良先生 訳)


○日常語訳

すべての事物は無我だと
智慧によって見る時
苦を厭い離れる
これは清浄への道である


○子供のためのダンマパダ

あなたには身体と心がありますが
身体も変わるし、心も変わる
変わらないものはありません
ですから昨日のあなたと
今日のあなたは違います





○一口メモ

 お釈迦の教えた真理の核心は、「無常、苦、無我」であります。無常については一昨日述べました。「苦」については昨日述べました。「無我」について今日述べることになります。この「無我」が一番難しいのです。スマナサーラ長老のこの詩に関する御説法は、2008年9月号のパティパダーに掲載されています。日本テーラワーダ仏教協会のホームページには残念ながらまだアップロードされていません。たぶん、2010年6月1日頃掲載されると思います。該当する過去のパティパダーをお持ちの方は是非それをお読み下さい。お持ちでない方は、6月1日頃、日本テーラワーダ仏教協会のホームページに掲載されるとおもいますので、その時お読み下さい。

 それまでは、過去のブログ記事を参考にして下さい。今日は概略を説明します。無我とはなんでしょうか?文字からは「われ(私)がない」ということです。仏教の定義では「変化しない常住の実体がない」ということです。しかし、これではまだ分かりにくいですね。

 私たちは、「私がいる」という実感を強く持っていますから、「私がない」と言われても到底受け容れ難いのです。しかし、私という概念から、私は常に変化しているのにもかかわらず、固定した私、変わらない私というイメージを想定するようになります。そして事実から反するゆえに妄想ですが、この妄想によって強固な変わらない妄想の私が出来上がります。この妄想の産物である私に愛着を持ち、執着するようになります。これが自我です。この自我が私たちが正しくものを見ることを妨げ、欲や怒りや愚かさなどの煩悩をどんどん作り上げていくのです。

 ですから、無我が分かり、自我が妄想であることが理解できれば、自我という妄想をなくすことができます。自我がなくなれば、煩悩が消え、悩み苦しみがなくなるのです。


○スマナサーラ長老のこの詩に関する御説法

魂は巨大妄想の産物である ~仏教の無我は因縁論です~

1.みな自我(魂)があると信仰している。
2.証明しないまま魂について語るのです。
3.無常イコール苦イコール無我です。
4.無我とは因縁論なのです。
5.無我を知る人は解脱に達する。

 パティパダー(2008年9月号)の「今月の巻頭法話」に掲載されています。残念ながら、まだ日本テーラワーダ仏教協会HPにはアップされてません。ですから、該当するパティパダーをお持ちでない方のために、スマナサーラ長老がまとめたポイントを列挙しておきました。


○前回までのこの詩に関するブログ記事

*一切の法は無我だと知るならば苦から離れて清らかになる
http://76263383.at.webry.info/200907/article_15.html

*すべての事物 我が無いと一切厭い解脱する
http://76263383.at.webry.info/200808/article_31.html


○パーリ語原文

.サッベー ダンマー アナッター ティ
Sabbe   dhammā   anattā'  ti,
一切の  法は    無我   と
ヤダー  パンニャーヤ パッサティ
yadā   paññāya     passati;
その時 智慧により   見る
アタ   ニッビンダティ ドゥッケー
Atha   nibbindati     dukkhe,
その時 厭い離れる    苦を
エサ マッゴー  ヴィスッディヤー
esa   maggo   visuddhiyā.
これは 道     清浄にする


○詩のパーリ語について。100番からは正田大観先生を中心に行われました関西のダンマパダ輪読会の時の御自分のノートを参考にして、木岡治美様がわざわざ書き下ろしたものを私に送って下さいました。それを参考にさせて頂いております。

〇慈悲の瞑想

~私は幸せでありますように~
~私の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の願いごとが叶えられますように~
~私に悟りの光が現れますように~
~私は幸せでありますように(三回)~

~私の親しい人々が幸せでありますように~
~私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の親しい人々の願いごとが叶えられますように~
~私の親しい人々にも悟りの光が現れますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように(三回)~

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~

~私の嫌いな人々も幸せでありますように~
~私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように~
~私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように~

~私を嫌っている人々も幸せでありますように~
~私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように~
~私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように~

~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~


(この慈悲の瞑想を唱える人には必ず幸せが訪れます。)


================================

~~~~~お 知 ら せ~~~~~

◎「ダンマパダ268.269.沈黙するだけでは聖者ではない」に関連して、スマナサーラ長老の4月月例講演会(心のお喋りはエンドレス ブッダは沈黙の聖者です)についてお知らせいたしましたが、Holi様のブログhttp://hohi.sakura.ne.jp/blog/2010-05-09-1.html.erb
に詳しく紹介されています。是非こちらをお読み下さい。

◎スマナサーラ長老の4月月例講演会DVDが発売されました。
(心のお喋りはエンドレス ブッダは沈黙の聖者です)
DVD商品番号:V-204 頒価:2,100円(税込 送料無料「国内のみ」)
希望者は日本テーラワーダ仏教協会にて購入できます。


◎今回の詩に共感された方は、ページ右上の『仏教』バナーのクリックをお願いします。そうすると、仏教ランキングのランクが上がります。ランクが上がると多くの人の目に留まりやすくなり、ダンマパダの認知度が高まるからです。一日一回お願いします。

================================


この記事へのコメント

チューラパンタカ
2010年05月24日 23:03
私が変化したのか、ワンギーサ様が変化したのか分かりませんが

なんと分かりやすい、ワンギーサ比丘様のご説法でしょうか

ご説法というにまさしくふさわしい御言葉のように感じております

テーラワーダ仏教協会ワンギーサ比丘、尊敬いたします


生きとし生けるものが幸せでありますように
CyberBaba
2010年05月24日 23:24
一口メモの解説はそれはそれで正しいと思いますが、やはり原文には沿っていないと思います。

なぜなら主語である Sabbe Dhamma を完全に無視しているからです。Dhamma を事物や現象と解釈するのはありえないと思います。前回の話を一歩譲って Sankhara を現象と解釈できるなら、ここは Sabbe Sankhara Anatta とするのが意味的にも詩的にも分かりやすく美しい表現です。

ここはあくまでも Dhamma が主語です。全ての法は永遠なる実体を持たないと解釈すべきだと思います。

「~は間違い?」シリーズの最後の「諸法無我は間違い?」をトラックバックさせていただきます。このシリーズはこれで最後なのでご安心ください。

またこのシリーズに書いてあることをダンマパダ原文を読んで発見したとき、苦から離れて新境地へ至った体験が実際にあることを附記させていただきます。
チューラパンタカ
2010年05月25日 01:40
日常語訳、もぜひ頑張ってください

幸せでありますように
2010年05月25日 04:16
ワンギーサさん、おはようございます。

 諸法無我を理屈ではなく、体験として理解したいと思います。

 理屈では納得できました。

 有難うございました。
ぱん
2010年05月25日 08:27
おはようございます。最近、このブログの影響で、無常、苦、無我について考えています。わかったようでわからない。今日も考えます。
あっきん
2010年05月25日 08:46
 おはようございます。
 赤ちゃんがみるみる成長するのは分かります。
また、人の死が昨日のプログで書いてある自然現象であるなら、ありきたりの事で大変な事ではないと思いました。ワンギーサ様に確認なのですが、輪廻がある限り苦は続くと考えていいのでしょうか。
宜しくお願いします。
2010年05月25日 10:07
皆さん、おはようございます。コメントありがとうございます。

あっきんさんへ。
輪廻が続く限り、苦は続きます。解脱して輪廻から脱出すれば、すべての苦はなくなるとお釈迦さまは言われています。
おんがえし
2010年05月25日 10:35
 新しいテーマをブログに書きました。

 もし、私の認識誤りがありましたり、私のブログにおける質問にお答えいただけるようでしたら、ぜひコメント欄に書き込んでいただきたいと思っています。
 
 宜しくお願いいたします。

 なお、衍字などがありますので、後で補正を予定しています。http://onngaesi.exblog.jp/
2010年05月25日 10:42
Dhammaを「法・教え・法則・(宗教)」以外の意味で「事物・性質・状態」←(すべて雲井昭善 著 パーリ語仏教辞典に載っている訳語)の意味で使っているパーリ原文はいろいろあるんではないでしょうか?

例えばパーリ原文を見てみますと、中部経典の3番目の法相続経の中にはすぐ出てきますね。
「私(ブッダ)には、余分の、捨てられるべき托鉢食があります。」片山一良駒沢大教授訳
「わたし(釈尊)の鉢食には残り物が、捨てられるべきものがある。」及川真介パーリ仏教辞典(春秋社)の著者訳
上記の引用例はブッダ(釈尊)自身が語って、自ら使っているパーリ語です。←これ重要(タイ版)。

「pin.d.apaato(托鉢食)が atirekadhammo(余分のもの・性質・事物) chad.d.aniiyadhammo(捨てられるべきもの・性質・事物)あります。」
分解すると、atireka(余分の・←という意味の形容詞)+dhamma(もの・性質・事物)
chad.d.aniiya(捨てられるべき←chad.d.etiの未来受動分詞+dhammo(もの・性質・事物)」

つまりここの部分の訳を「わたしの(釈尊の)鉢食には残っている教え(法則)が、捨てられるべき教え(法則)がある。」と訳す「学者」先生、学僧は世界的に見てもいないのではないでしょうか?

ヨーロッパのパーリ語学者、日本のパーリ語学界の先生方にしましても、いらっしゃらないのでは?
学者先生というのは「パーリ原文」から直接単語を拾って辞書作るんでしょうから、原文にないものは、辞書に載せないのでは?だから雲井先生は「事物・性質・状態」という訳語を載せていると思いますよ。

なので、dhammaを「事物」と解釈するのは「ありえる」とは【僕個人は】十分に思います。。。(^^;
2010年05月25日 10:48
あとはなぜここの部分だけ「san.khaara」を「dhamma」にしたのか?という疑問が残りますが、僕も専門ではないのでよくわかりませんのでそれはまた別の機会にということで(^^;m( )m。
僕はこの277から279の一連の偈文につきましては「その解釈」に基本的に疑問がありません。主観交えずに(一切の自分の好みの思想・概念を捨てる、一時的に置いておく)瞑想を少しやってみると、「わかるはず」だと思っているんです。
後世成立の(仏教)経典、一般的な精神世界が「好きな」方々にはなかなか受け入れ難い偈なのかも知れないとふと思いました。。。長々と失礼致しました。m( )m
2010年05月25日 11:01
悩み苦しみの原因が
自我という錯覚ということが
だんだんわかってきました。

理想の自分や今(過去)の自分
で有り続けるための
無益な努力を手放すことで
だいぶ楽になりました。

「私はない」というのに
まだ抵抗する「自分」がいます。
毎日少しずつでもその
「自分」を薄めていけたらと
精進しております。
CyberBaba
2010年05月25日 11:34
蒼氓さん

なるほど、そういう用例もあるのですね。しかしまだ疑問が残ります。サンカーラもダンマも用語として熟していて、しかも大切な用語です。なぜもっと一般的な表現、例えば、生命とは無我である、とかにしなかったのかということです。ここにブッダの意図を感じるのです。

一般的な意味での諸行無常も諸法無我も私は正しいと思っています。(一切皆苦は違うと思いますが。現象それ自体は苦でも楽でもないと思っています。苦を作り出しているのは心です。)しかしダンマパダのこの部分で言いたいのはそういうことではなかったのではないかということです。

全てのサンカーラが無常であり苦であるというのはその通りで、意味がはっきりします。全てのダンマが無我であるというのもその通りで意味がはっきりします。(ダンマはそれ自体で存在できません。現象がなければダンマもありません。また永遠だという保証もありません。物理学者でさえ、ビッグバン以前は物理法則が成り立たなかったのではないかと疑っているくらいです。)

一般的意味での諸行無常も諸法無我も正しいとは思いますが、サンカーラが無常、ダンマが無我の方が役にはたちます。意味がはっきりして、苦だ苦だというネガティブな気持ちから解放されます。
CyberBaba
2010年05月25日 11:44
追記です。

ブッダの時代ではサンカーラは無常ではないと考えられていました。サンカーラが無常ではないからカルマが永遠に続くと考えられていたのです。ですから、サンカーラが無常であると断言することには意味があります。つまりカルマを断ち切ることが可能、解脱が可能ということです。

またサンカーラやカルマには、良いサンカーラやカルマがあると考えられていました。しかし「全ての」サンカーラやカルマは苦だと断言することには意味があります。つまり解脱をしなければならないということです。

そしてダンマは永遠不滅でそれ自体で存在すると考えられていました。ダンマでさえ無我であると断言することには意味があります。
CyberBaba
2010年05月25日 12:32
すみません、たびたび追記です。

現象それ自体は苦でも楽でもないと書きましたが、あえて言えば確かに無意味ですね。そういう意味で一切皆苦というのであれば確かにそれはそれで正しいと思います。

しかし、苦と無意味とは意味が違います。無意味とは苦(ドゥッカ)でも楽(スッカ)でもありません。ブッダは元々四苦八苦をどうすれば滅することができるかということを追求していたはずです。四苦八苦の苦と無意味では全然意味が違います。ここに後世での意味のすり替えがあると感じます。

全てのサンスカーラはいわゆる苦である、これなら意味は明快です。

まとめると、諸行無常、一切皆苦、諸法無我の通常の解釈はそれはそれで正しいが、ダンマパダでのここでの意図とは違うのではないかということです。
2010年05月25日 12:53
CyberBabaさんへ。
「苦」はネガティブな気持ちと関係ありません。ネガティブと思っているのはあなたなのです。「苦」が分かれば、むしろ明るくなるのです。
CyberBaba
2010年05月25日 14:08
ワンギーサさん

それでは滅諦の意味が無くなりますが・・・
2010年05月25日 15:07
CyberBabaさんは、以前たしか「仏教はダンマパダに始まり、般若心経に終る。」と言っていましたが、ダンマパダで始まって、ダンマパダで終わりませんね。あえて言いますが、ダンマパダの理解が浅いということです。
しかし、このテーマについてはここでやめましょう。もちろん私も完全ではありませんので、さらに勉強いたします。ありがとうございました。
もく魚
2010年05月25日 19:23
ワンギーサ様、皆さま、こんばんは。

↑おんがえしさまのブログを拝読いたしました。もく魚的に思いますのは物事には順番があるのではと言うことです。あっきんさんから「的」をお借りしました(^^;;
もく魚はここでワンギーサ様の記事やメールでの質問にもお答えいただき先生には大変感謝しています。その先生から問いがあればきちんとブログ内で返事をすると思います。おんがえしさまはまだ先生からの、2010-04-30の質問にお答えになっていないように思います。
おんがえしさまの意見もこれからブログで長く読みたいのですが、そこをどうお考えなのでしょうか?

そのお答えがない以上もく魚の場合先生を飛ばしてコメントすることは今のところできません。あっ(゜゜)新せんぱいは別です~;;;

もく魚的に会社に嫌いな人がいたとしてその嫌いな人から先に挨拶があったらチャンと挨拶は返します。「的」を借りました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
もくママ「もくぎょ~~。あなた一週間しかブログ続かなかったそうね~」
もく  「グサッ!!いたたたた・・・」
チューラパンタカ
2010年05月25日 20:12
この場をお借りして失礼いたします

おんがえしさんの事が、私もとっても気になり

毎日拝読しておりますが

どうしても、コメントできずにいましたが

もくぎょ様のコメントを見まして、なるほどな、

っと思いました。

おんがえしさんは、おんがえしさんなりに一生懸命なんだとは重々、ブログ内では感じられていたところで、私の大好きなタイプのお方のように、ブログ内では感じております

私も、いろんなコメントを、この場でさせて頂いておりますが、正直、つくづく、ダメなものだなと、自分自身のことを痛感しております

ワンギーサ様、実践は失敗ばかりしている私ですが

今後ともよろしくお願いします


失礼しました




あっきん
2010年05月25日 23:06
今戻りました。
ワンギーサ様返答ありがとうございました。
こころざし
2015年09月18日 07:31
酷い事をしてきた相手をそのように認識すると、そのように固定概念が出来ます。ですが自分も相手もどんどん変化していくと思いますと、その時はそうだったかもしれませんが、今後は変わっているかもしれないんですよね。
無我を思って拘らない・執着しないように努めたいです。

この記事へのトラックバック