308.熱い火炎のような鉄の玉を飲む方がましだ

ダンマパダ 第22 地獄の章 308

ナモー タッサ バガワトー アラハトー サンマーサンブダッサ
Namo   tassa   bhagavato   arahato    sammāsambuddhassa
阿羅漢であり正自覚者であり福運に満ちた世尊に敬礼致します


○片山一良先生 訳

火炎のように熱された
鉄の玉を飲む方がよい
戒を保たず、自制なく
国の施食を食べるよりは



○日常語訳

戒を守らず自制心のない比丘は
土地の信者の布施を受けるより
熱い火炎のような
鉄の玉を飲む方がましだ


○子供のためのダンマパダ

道徳を守らない坊さんは
信者のお布施をもらうより
火のかたまりを飲む方が
多く苦しまなくて済みますよ





○一口メモ

 今回の308番の詩は、昨日の307番の続きの詩で、悪行の比丘(僧侶)について述べられたものです。306番から始まった地獄の章は、以前にも感じたのですが、なかなか厳しい詩の集まりだと思います。しかし、地獄とは「非常に悪い結果、不幸な結果」と理解すると、この章は因果法則、原因と結果の法則を教える章であると思えます。人間は具体的に見たり、聞いたりできない事柄についてはなかなか理解できません。ですから、まだ現れてない悪行の結果は予想できないのです。そこで、お釈迦さまは悪い結果の象徴として地獄で表現したのではないかと思います。もちろん、それ以上の真実を教えているのかも知れませんが、悪い結果の象徴として地獄を理解するだけでも、原因としての悪い行為が、地獄という悪い結果によって、いかに間違った行為であり、私たちを不幸にするかイメージを伴って理解できるからです。ですから、地獄をそんなバカなこと信じられないと思うより、それほど苦しい厳しいことなのだと理解した方がよいのです。逆に、そのような悪い行為をしなければ、悪い結果としての地獄に行かなくとも済むというわけです。

 さて、前がきが長くなりましたが、この詩を始めてこの詩を読んだ時、意味がよく分からりませんでした。私は岩波文庫の「真理のことば 感興のことば」という本で読んだのですが、その本には次のように訳されていました。

 「三〇八 戒律をまもらず、みずから慎むことがないのに国の信徒の施しを受けるよりは、火炎のように熱した鉄丸を食(くら)うほうがましだ。」

 「国の信徒の施しを受ける」と書いてありますから、比丘(僧侶)のことを言っているのでしょう。またその比丘が戒律をまもらず、みずから慎むことがないことは罪があることであることを知らなければなりません。しかも、その比丘が信徒の布施を受けるということは、信徒の期待をも裏切る、大きな罪なのかも知らなければなりません。

 「火炎のように熱した鉄丸を食(くら)う」ということは、今の自分の身体が焼かれることです。しかしそれだけで済むのです。しかし、不真面目な比丘が「国の信徒の施しを受ける」ということは、比丘は地獄に行くという大罪を犯すことになります。火炎で現在の自分の身体を焼かれるより、地獄に行くという大きな苦しみに遭うということです。このことがわからなければ、この詩の意味が理解できないのです。

 比丘は戒律をまもり、真面目に修行して、信者さんのお布施を受けることは大きな善行なのです。信者さんは真面目に修行している修行者にお布施をすることは大きな功徳があります。お布施はいろいろな意味があります。相手に対する慈悲の実践であり、自分の物に対する執着を手放す行為なので、涅槃に向かう修行になります。また、布施の実践をした時、欲から離れた心も感じることができるのです。その時、ある種の喜びも感じられるものです。
 
 
○スマナサーラ長老の308番以降の詩についての御説法はまだ発表されてません。

○前回までのこの詩に関するブログ記事

*破戒僧食事の布施を受けるより熱玉呑めよ地獄よりよい
http://76263383.at.webry.info/200908/article_4.html

* 戒を守らぬ悪行比丘は布施を受けずに火玉呑め
http://76263383.at.webry.info/200809/article_26.html
 

○パーリ語訳

セッヨー アヨーグロー ブットー
Seyyo   ayoguḷo     bhutto,
よりよい 鉄球を     食する方が
タットー アッギスィクーパモー
tatto    aggisikhūpamo;
熱い   火の炎のような
ヤンチェー  ブンジェッヤ  ドゥッシーロー
Yañce      bhuñjeyya    dussīlo,
その人がもし 食するならば  破戒の
ラッタピンダマサンニャトー
raṭṭhapiṇḍamasaññato.
土地で食を受ける無制御の人


〇詩のパーリ語について。100番からは正田大観先生を中心に行われました関西のダンマパダ輪読会の時の御自分のノートを参考にして、木岡治美様がわざわざ書き下ろしたものを私に送って下さいました。それを参考にさせて頂いております。

〇慈悲の瞑想

~私は幸せでありますように~
~私の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の願いごとが叶えられますように~
~私に悟りの光が現れますように~
~私は幸せでありますように(三回)~

~私の親しい人々が幸せでありますように~
~私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の親しい人々の願いごとが叶えられますように~
~私の親しい人々にも悟りの光が現れますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように(三回)~

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~

~私の嫌いな人々も幸せでありますように~
~私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように~
~私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように~

~私を嫌っている人々も幸せでありますように~
~私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように~
~私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように~

~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~


(この慈悲の瞑想を唱える人には必ず幸せが訪れます。)

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この記事へのコメント

2010年06月13日 21:29
慈悲にみちあふれたお釈迦様、
だからこそなのでしょうが
厳しいこともおっしゃるのですね。
チューラパンタカ
2010年06月14日 00:28
嘘ついて、仕事するより、せぬがよい
2010年06月14日 04:15
ワンギーサさん、おはようございます。

スマナサーラ長老がいずれ「正解」を御説法されると思いますので、凡夫の浅知恵で意見を述べてみょうかと思います。

 「火炎のように熱された 鉄の玉を飲む方がよい」はっきり言ってイヤですね、こんなイヤなことなら、他の方法で死んだほうがマシだ、と思いました。

 何故そう思うのでしょう?

 本来、口からは自分の命を支える「食事や薬など」が入っていきます。口に入れる行為は生命線です。

 その口に、火の手を入れるのは「生きていきた~い」という気持ちを残酷?にも打ち砕くのだと思います。

 さて、今年の3月23日の立川朝日カルチャーでのスマナサーラ長老の御説法で、出家者の戒律について「戒律の意味を理解しているならば、誰でも命を守るより大切に戒律を守る」「命を惜しむことも執着で渇愛なので解脱の障りになるのです。戒律の段階でその気持ちを育てるのです」というお話しがありました。

 すると、戒律を守らないということは、何はともあれ命こそ大切=何が何でも生きていきた~い。という気持ちが強いのだと思います。

私にとってショックなのと同様に、この比丘らも、火の玉を飲むことは相当ショックだったと推測できます。

 だから、お釈迦様は「あなた方は生きたいという思いで信者をたぶらかしたが、そこまでして生きることに意味があるのかね?」と教えられたように思うのです。

 ちなみに因縁物語によれば、この時この地域で「飢餓」が発生し「人々は功徳を願い、自分の食べ物も惜しみ、また親やにも子にも食べ物を与えず、比丘たちに施した」(ダンマパダ:片山一良、大蔵出版)

 執着を肯定する限り、人は悪因悪になるのだと思います。

有難うございました。
慈悲と智慧
2010年06月14日 09:43
出家と在家では、瞑想や戒律を守る目的が異なっているのだと私は思います。出家であれば当然のことながら解脱であり、在家であれば、私見ですが、生きとし生けるものが幸せになることに貢献することでしょう。
在家にとっての基本は慈悲の瞑想だと私は思います。慈悲の瞑想で慈しみのこころを育てると戒律を守ることや気づきの瞑想を行うための壁というか障害が無くなっていきます。(これは私の実感です)
とにかく長老の本を読むだけではだめでしょう。
しっかり慈悲の瞑想をするべきだと思います。
本を読むだけで実践しない方は本当に多いのです。
まお
2010年06月14日 13:34
生きとし生けるものの願い事がかなえられますように。

質問です。みなさんは親族や両親にテーラワーダ仏教をどのように説明して理解してもらっていますか?

父は社会問題についてはこういうことは自分の考えていることと同じだとか言って、本を読んで言ってもなかなか読んでくれません。仕事から帰ってきてもテレビばかり見ます。しかも自分は家族なのだから他人に自分には解決できない答えられない質問もなんでも話すべきだと思っているようです。
母は瞑想をしないで本を読んだり悩みを相談するくらいならいいよと言います。

私の父母はこういう感じです。みなさんはどうですか?
慈悲と智慧
2010年06月14日 15:08
まおさんへ

私は特に両親には話してないですね。
日本人は宗教法人は怪しいというのが大多数ですから。
小池龍之介師は少しハードルが下がるのでバレンタインのお返しに師の文庫本を渡したことはあります(笑)。

今となっては両親に関わらず、友人や恋人、不特定多数の人に原始仏教を必要以上には理解してもらおうとはしない方が良いような気がしています。
それより自分が慈しみのこころをしっかり育てて、自分が望まなくても自然に他人から評価される人になり、他人からその成長の理由を聞かれた時に原始仏教と答えようかと私は思っています。
原始仏教を学んで自分から望まなくても他人から評価される人が増えれば原始仏教も浸透していくのでないかと今は思っています。

あくまでも私見です。
2010年06月14日 18:07
テーラワーダ仏教を人に説明するのは、とても
困難なことだと理解します。(体験上・・・)
たとえ親でも親友でも、難しいです。
こんな風に仏教を学んで精進努力しようとするのも
何かの因縁なのでしょうね。
人に教える前に、自分自身を磨く
これに尽きると思います。
人にとやかく言われるのは誰でも好きではありません。
みんな自分の意見が一番正しいと
思っているのですからね。

人が困っているときに、助けてあげられたら
自分の成果が試せるのではないでしょうか?
「今」を観察して頑張りましょうか!
2010年06月14日 18:32
まおさん、こんにちは。

私は、軽蔑すべき職業として、子供のころから「坊主丸儲け」と教えられてきました。

私の両親は軽蔑の意味を込めて、僧侶は全て「くそ坊主」と呼んでます(笑)。

確かに、「おーい酒だ!酒にしよう!」なんていう坊主が多いので、軽蔑されても仕方ないと思います。政治家も似たりよったりですかね。

 特に、スマナサーラ長老のことは大嫌いのようで「あの顔を見るだけで気分が悪くなる」と母は話してました。

 指揮者なども顔が気に入らないと演奏の善し悪しを度外視して「最低」としてしまいます(苦笑)。

 だから、両親には原則話しませんね。また周囲も「宗教なんて人間のくず。宗教法人は社会の迷惑」と主張する人ばかりなので、原則話しません。両親は仏教の本は何も読んでません。

 まあ変な新興宗教が蔓延る現在、仕方ないことなのかもしれません(苦笑)。

 以上、ご参考までに。
まお
2010年06月15日 12:43
慈悲と智慧さん、あんさん、新さん、ありがとうございます。

両親が仏教を知りたくなった時や悩みがあったときに話できれば十分ですね。無理して押し付けないようにします。
こころざし
2015年09月29日 07:37
お坊様の格好をされているだけでお釈迦様を思って尊敬の気持ちを持ちます。ですがそのお坊様が戒律を守っていない様な方とすると、そのショックは大きいと思います。
本者を見分けられる智慧が必要というニュアンスもあるかもしれませんが、人をだますような悪行為をする事の恐ろしさを本文より実感して戒めたいです。

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