311.~313.沙門の修行も間違えば 地獄に引きずり落とされる

ダンマパダ 第22 地獄(最悪な結果)の章 311、312、313

ナモー タッサ バガワトー アラハトー サンマーサンブダッサ
Namo   tassa   bhagavato   arahato    sammāsambuddhassa
阿羅漢であり正自覚者であり福運に満ちた世尊に敬礼致します

○片山一良先生 訳

握り方が悪ければ
クサ草でさえ手を切るように
沙門の修行も間違えば
地獄に引きずり落とされる

およそ行為に締(し)まりなく
また務めにも汚れあり
疑いあれば、その梵行(ぼんぎょう)は
大きな果あるものにならず

なすべきならばそれをなせ
堅固にそれに邁進すべし
締まりを持たぬ出家の修行は
いよいよ塵をまき散らす



○日常語訳

草の葉を誤って握れば
手を切るように
修行者は行ないを誤れば
地獄に落ちる

だらしのない行為
不純な請願
疑いのある梵行
これらに大きな成果はない

為すべきことがあれば
しっかりと努力して為せ
だらしのない修行者は
より多くのゴミを撒き散らす


○子供のためのダンマパダ

イネやススキの葉で
手を切るように
いい加減に勉強すると
思わぬ失敗がありますよ





○一口メモ

 イネやススキのような葉を、不注意に握って引っ張ると手を切ります。仏教では不注意ということを非常に問題にするのです。世間では、不注意をあまり重大なことと考えてない傾向があると思います。不注意による事故を、今後は注意するようにと許してしまうのです。私の理解では、不注意によるミスには、悪意がなかったのだから止むを得ないと、自分も世間も思っているのではないかと思います。

 しかし、不注意による事故は非常に恐ろしいのです。世間に起こっている大事故はほとんどが不注意による事故なのです。医療現場での不注意による事故は患者に死をもたらしますし、交通機関による不注意は何十人、何百人という人々の災害になるのです。「不注意」を甘くみてはいけないのです。不注意による事故を防止するためには、どんな小さな不注意をもいい加減にしないで、その不注意をなくす努力が必要なのです。

 仏教用語では、不注意は「放逸」という言葉を使います。パーリ語ではパマーダです。逆に注意深いことは「不放逸」といいます。パーリ語ではアッパマーダです。ダンマパダの第2章は「不放逸」がテーマになっています。21番では、「放逸であることは死んでいるのと同じだ」とまで言っています。不注意であると、心にどんな恐ろしい悪も入ってくるからです。不注意は修行とまったく反対の態度だからです。

 「修行者は行ないを誤れば地獄に落ちる」の「行ないを誤れば」は「不注意に修行すると」という意味だと思います。例えば、五戒を守ることもしっかり守らなければ修行になりません。瞑想も指導者に指導された通りに実践しなければいけません。適当にやって「上手く行かなかった。この方法はだめだ。」などと言うことは、自分ではそう思わなくとも、仏教を誹謗することになります。仏教を誹謗することは大きな罪なのです。

 この詩に関するスマナサーラ長老の御説法はまだありませんが、前回までのこの詩に関するブログ記事は因縁物語もありますので参考になると思います。是非お読み下さい。


○前回までのこの詩に関するブログ記事

*草の葉で手を切るように修行者も悪い行為で地獄に落ちる
http://76263383.at.webry.info/200908/article_6.html

* 小さな罪も軽く見ないで100パーセント犯さない
http://76263383.at.webry.info/200809/article_29.html
 

○パーリ語原文

311
クソー  ヤター ドゥッガヒトー
Kuso   yathā  duggahito,
草は  ように 悪く捕えた
ハッタメーワーヌカンタティ
hatthamevānukantati;
手を まさに 切断する
サーマンニャン ドゥッパラーマッタン 
Sāmaññaṃ     dupparāmaṭṭhaṃ,
沙門道も      悪く行われたら        
ニラヤーユパカッダティ
nirayāyupakaḍḍhati.
地獄に 引きつける
312.
ヤン   キンチ   スィティラン  カンマン
Yaṃ    kiñci    sithilaṃ     kammaṃ,
それは 何であれ だらしのない 行為を 
サンキリッタンチャ ヤン ワタン
saṃkiliṭṭhañca    yaṃ  vataṃ;
汚れた   と    その 請願を
サンカッサラン ブラフマチャリヤン
Saṅkassaraṃ   brahmacariyaṃ,
疑いのある    梵行を
ナ   タン  ホーティ マハッパラン
na   taṃ    hoti    mahapphalaṃ.
ない それは  なる   大きな成果 
313.
カイラー    チェー カイラーテーナン
Kayirā      ce    kayirāthenaṃ,
為すべきこと  もし  為すべきである
ダラメーナン   パラッカメー
daḷhamenaṃ    parakkame;
しっかり それを 努力せよ
スィティロー  ヒ   パリッバージョー
Sithilo      hi    paribbājo,
だらしのない 実に  遊行僧は
ビッヨー アーキラテー ラジャン
bhiyyo   ākirate     rajaṃ.
より多く  まき散らす  ごみを


〇詩のパーリ語について。100番からは正田大観先生を中心に行われました関西のダンマパダ輪読会の時の御自分のノートを参考にして、木岡治美様がわざわざ書き下ろしたものを私に送って下さいました。それを参考にさせて頂いております。


〇慈悲の瞑想

~私は幸せでありますように~
~私の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の願いごとが叶えられますように~
~私に悟りの光が現れますように~
~私は幸せでありますように(三回)~

~私の親しい人々が幸せでありますように~
~私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の親しい人々の願いごとが叶えられますように~
~私の親しい人々にも悟りの光が現れますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように(三回)~

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~

~私の嫌いな人々も幸せでありますように~
~私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように~
~私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように~

~私を嫌っている人々も幸せでありますように~
~私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように~
~私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように~

~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~


(この慈悲の瞑想を唱える人には必ず幸せが訪れます。)

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~~~~~お 知 ら せ~~~~~

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この記事へのコメント

2010年06月15日 21:56
怪我をしたりミスをおかすのも
うっかりしているときですね。
小さなことだからよかったものの
もしも…と思うと恐ろしいです。
常に「今」に集中するようにします。
高橋優太
2010年06月15日 22:00
ワンギーサ先生、こんばんは。
確かにほとんどの事故は不注意でおこりますね。勉強でみると、たとえば単純な一回の計算ミスですべて間違いになったりします(よく不注意の計算ミスで点数を引かれました笑)。不注意であることは人生すべてで重要だと思いました。
しょうしょう
2010年06月16日 01:50
行住坐臥、何をしているのか気づかずにいる時、確かに私はここに居ず、不善心となって浮付いています。
まるで、幽霊のように。
真に生きていない気がします。
2010年06月16日 04:19
ワンギーサさん、おはようございます。

 人間はしたいように行為をする。ということを前提にすれば、いい加減に修行するということは結局は「五欲に溺れ、感情や妄想を肯定し、刺激に依存した生活を望んでいる」のだと思います。

 例えばうっかり酒を飲んでしまった場合でも本心では「やはり酒はいいものだ」と自分自身をゴマカシている場合は地獄行き、という意味なのでしょうか。

 何事も小さな一つ一つの積み重ね。
 どんな些細なこともなおざりにせず、常に「今、ここ」に焦点を合わせるような不断の努力が必要不可欠だと痛感しております。

有難うございました。
2010年06月16日 09:35
「うっかりやった」「知らず知らずやってた」
「ぼ~っとしてた」この言葉がどんな意味を持つのか
仏教では明確に教えてくれています。
犯罪の場合でも「精神的に混乱状態にあったのでやった」「錯乱状態でした・・・」などなど
全ては、自己を律していない
「放逸」状態であったということでしょう!
慈悲と知慧
2010年06月16日 09:46
現代人にとって注意すべき不注意の一つとして、掲示板やブログへの投稿やメールなどをあげることが出来ると思います。
誤字脱字が多かったり、意味不明だと他人から指摘を受けることが多い場合それは不注意でしょう。
そういう場合は、自覚的ではなく感情に飲み込まれながら書いているんだと思います。
そういう場合の感情は【私の意見は素晴らしいからとにかく今すぐ聞いてほしい、そして認めてほしい】という自我だと思います。
自分の文章を読み直して、誤字脱字を修正する、意味を分かりやすくする、感情的な言葉を排除することは読み手に対する慈しみではないかと思います。
2010年06月16日 10:35
追加です。全ての行為の間違いを指差して
批判するのではありません。
お釈迦様の教えの凄いところは「慈悲」の気持ちで、
過ちを犯した人を許してあげなさい。
人は誰でも間違うのですから
許してあげる心を持ちなさい。
「放逸は駄目ですよ」「不放逸でいなさい」
と教えられているんですよね。
取り返しのつかない人の命に係わる過ち
は誰しも避けたいものですね。
チューラパンタカ
2010年06月16日 21:42
何気ない、他への言葉に、とげがある

ひげそりを、するかのごとく、接しよう
こころざし
2015年09月29日 07:49
私事ですがカマで草刈りをしていて誤って手を切った事があります。結構出血し注意力散漫でやっていた自分を反省しました。
やる以上真剣にやった方が宜しいかと思います。変に気張って集中しても持続しませんが、妄想せず今・ここをサティの実践をする事は、妄想せず真剣にやっている事に繋がると感じています。
車の運転などでも今の状態をサティしながら、事故を防ぐため妄想せず、真剣に運転して参りたいです。

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