315.内外を守られた辺境の街のように自分を守れ

ダンマパダ 第22 地獄(最悪の結果)の章 315

ナモー タッサ バガワトー アラハトー サンマーサンブダッサ
Namo   tassa   bhagavato   arahato    sammāsambuddhassa
阿羅漢であり正自覚者であり福運に満ちた世尊に敬礼致します

○片山一良先生 訳

辺境の都市が内外に
よく守護されているように
自己をよく守護するがよい
光陰空しく渡るなかれ
光陰空しく渡る者らは
地獄に堕ちて悩むゆえ



○日常語訳

内外を守られた
辺境の街のように
自分の心を守れ
瞬時も見逃すな
見逃した者たちは
地獄に引き渡され悲しむ


○子供のためのダンマパダ

自分を守れとは
心を守ること
心を守るとは
欲や怒りの感情が起きないように
自分に注意を向けること





○一口メモ

 前々回のこの詩に関する「この詩から学ぶこと」に私には今でも記憶に残っていることが書かれています。その内容は次の通りです。

 私は仏教を勉強し始めの頃、自分を守ることを怠ったことで地獄に行くというのは罪が重すぎるのではないかと思いました。当時の私は自分を守るなどほとんど やっていませんでしたから、もしその通りであれば私は地獄に行くことになると心配しました。そこで、 私は「自分を守らないだけで、地獄に行くというのは 罪が重すぎではないですか?」とスマナサーラ長老に質問しました。

 スマナサーラ長老は「自分を守るとは、心を守ること、自分の感覚器官とその対象に注意を向けることです。目と色と形、耳と音、鼻と香り、舌と味、身体と接触するもの、意思と概念、これらのものが心に刺激を与え、狂わせる恐れがあるのです。ひどい場合には殺人まで起こすのです。
 城街の守りを怠り、盗賊が侵入すると何人も殺される恐れがあります。一人を殺すより、守りを怠ることは罪が重いのです。自分を守らないと、人間は何をし でかすか分からないのです。ですから罪は重いのです。」とお答えになりました。

 心の外の敵とは、私たちの眼、耳、鼻、舌、身、意の感覚に対する刺激です。すなわち、色、声、香、味触、法です。心の内の敵は、それらの敵に対する反応で す。その反応は3つあります。すなわち、快いものには、もっと欲しいという欲が現れます。不快なもの嫌なものに対しては、それに対する怒りが現れます。ま た、無関心なものには心に愚かさが現れるのです。この欲と怒りと愚かさは私たちを不幸にする心の内敵なのです。

 私たちの感覚には、絶えず、休むことなく、刺激が攻撃しているのです。ですから、心を守る仕事は休む暇がないのです。それらの刺激に注意しないで、心の 中に進入することを許してしまうと、心の中に、欲か怒りか愚かさが現れて、私たちを地獄に引き込むような悪事を働かせることになるのです。ですから、心を守 る必要があるのです。心を守るとは感覚の刺激によって欲、怒り、愚かさが現れないようにすることです。私たちがヴィパッサナー瞑想で実践しているように、音 を聞いたら、よい音だとか、嫌な音だと思わずに。単に、「音、音、音」と聞けるようにすることです。それが心を守るということなのです。


○前回までのこの詩に関するブログ記事


*外敵を守る城壁そのように自分を守り地獄を見るな
http://76263383.at.webry.info/200908/article_10.html


* 瞬時のひまなく心を守れ怠けた者は地獄行く
http://76263383.at.webry.info/200810/article_1.html
 

○パーリ語原文

ナガラン ヤター パッチャンタン
Nagaraṃ  yathā  paccantaṃ,
城壁    ように 辺境の
グッタン  サンタラバーヒラン
guttaṃ    santarabāhiraṃ;
守られた  内外を
エーワン ゴペータ アッターナン
Evaṃ    gopetha  attānaṃ,
そのように 守れ   自己を
カノー ヴェー マー ウパッチャガー
khaṇo  ve    mā   upaccagā;
瞬時も 実に  するな 虚しくすごす 
カナーティーター ヒ    ソーチャンティ
Khaṇātītā       hi    socanti,
瞬時を失った者は 実に  悲しむ
ニラヤンヒ サマッピター
nirayamhi  samappitā.
地獄に   引き渡され


〇詩のパーリ語について。100番からは正田大観先生を中心に行われました関西のダンマパダ輪読会の時の御自分のノートを参考にして、木岡治美様がわざわざ書き下ろしたものを私に送って下さいました。それを参考にさせて頂いております。


〇慈悲の瞑想

~私は幸せでありますように~
~私の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の願いごとが叶えられますように~
~私に悟りの光が現れますように~
~私は幸せでありますように(三回)~

~私の親しい人々が幸せでありますように~
~私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の親しい人々の願いごとが叶えられますように~
~私の親しい人々にも悟りの光が現れますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように(三回)~

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~

~私の嫌いな人々も幸せでありますように~
~私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように~
~私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように~

~私を嫌っている人々も幸せでありますように~
~私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように~
~私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように~

~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~


(この慈悲の瞑想を唱える人には必ず幸せが訪れます。)

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この記事へのコメント

慈悲と智慧
2010年06月18日 01:04
気づきを入れる際に、私が気をつけていることがあります。それは怒った自分に怒らないことです。
一見なぞなぞのようですが、説明しますと人間はこころの奥底で【長老の本を読んだ自分は怒・欲・無知のない完璧な人間であらねばならない】と本気で思ってます。つまり怒ってはいけないのに怒ってしまったという事実を受け入れられないでそんな自分にまた怒ってしまうのです。そしてその先は三毒のスパイラルに巻き込まれてしまい抜け出せなくなります。
でも事実怒ってしまったわけで素直にその事実を認めれば怒りは静まりやすいのです。
表現は難しいのですが、気づきのコツの一つは潔く認めることではないでしょうか?
2010年06月18日 04:55
ワンギーサさん、おはようございます。

 かつて「人の命は地球より重い」とかのフレーズをよく見かけたりしたせいか、昨日の十悪行で何故下のほうが罪が重いのか腑に落ちない時期がありました。

 どう考えても、無駄話しなんかより、人殺しの罪のほうが重いと考えてました。

 しかし、地球も全人類も全て破壊してしまうほどの兵器をつくっているのは、心です。恐いことです。

 4月のスマナサーラ長老の経典解説で「心を育てるには繰り返し八正道の訓練」というお話しがありました。

 「怒りで心が汚れている時死んだら地獄に堕ちる」というお話しもあったかと思います。

 「部屋の掃除をサボると埃がたまるように、心が汚れていく」というお話しもあったような記憶があります。

ところで、昨日の高橋優太さんですが「心が汚れていては、自分、他人、皆のためにやるのはムリ」という御趣旨のブッダの御言葉が先の経典きちんとありました。

 これは、私の不注意でした。

 精進して心の汚れを落としたいと思います。

有難うございました。
トム
2010年06月18日 05:38
心を守るとは「感覚器官とその対象に注意を向け続ける」ことですか。いつも忘れています。実況中継をし続けることなのですね。
慈悲と智慧
2010年06月18日 11:28
追記
怒った自分に怒らないで、冷静に次は頑張ろう。あるいは【生きとし生けるものが幸せでありますように】と冷静になって念じることを繰り返していれば、怒、欲、無知に振り回されない、柔軟で強いこころをつくれるのではないかと思います。

皆様が幸せでありますように。
慈悲と智慧
2010年06月18日 13:47
一つアイデアが浮かんだので記録しておきます。
前回の判断基準に併せて

【私も生きとし生けるものも幸せでありますように】という念の文を考えました。
生きとし生けるものには私も含まれていますが、イメージしずらい方にはこれもありかなと。

あまり書き換えるのも良くないですが、許容範囲ではないでしょうか?

あくまで一つの案に過ぎません。
馴染む方は試してみるとよいかもしれませんね。

では、皆様が安らぎに満たされますように。
2010年06月18日 14:09
快いものへの欲
不快なものへの怒りはわかるのですが
無関心なものへの愚かさというのが
ちょっとわかりにくいです。
どうでもいいと思うことでしょうか。
慈悲と智慧
2010年06月18日 17:39
あすかさん
私の私見ですが、無関心なものにとらわれると、頭脳が明晰でなくなるのが不味いのではないでしょうか?ボーッとしてしまっていますので鈍くなるのではないかと思います。
もく魚
2010年06月18日 19:05
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
もくぎょの日記

最近はワンギーサ先生の「前回のブログ記事」にも目をとおし、みなさんのコメントも読み直すのでかなり時間がかかる。またコメントする方のリンク先にも長老さまの「一日一話」がのっているので少し気合を入れて読まなければならない。それと材木さんがブログを再開しているのでお茶をとどけてきた。すこし忙しい;;;。

先日協会の掲示板を見ていたら小池龍之介さんのことがのっていたので、図書館から本を借りてきた「CD付」である。←1時間以上あるし~(^^;;

他のことに時間をとられ自分の実践がおろそかにならないようにしなければと思うもくぎょなのでした。

安穏たらんことを安穏たらんことを・・アッ違った。
生きとし生けるものが幸せでありますように
2010年06月18日 20:02
あすかさん、こんばんは。

 例えば、未成年者が興味本位で酒を飲んだりするのとは関心の意味が違うように思います。

 比喩ですが、医者が人体のメカニズム、理(ことわり)、因果関係などを知っていることを「関心があり賢明」と呼んでるように思います。

 どうでもいいじゃなくて(酒に対する興味などがあるので)、物事の本質や法則に無関心という意味に近いのではないでしょうか。

さらに、幸福に至る理に無関心と言えば、適切なのかもしれません。

あくまで私見ですが、ご参考までに。
しょうしょう
2010年06月18日 20:46
反応する心として、「貪り」、「瞋恚」、「痴」があると言います。「好き」、「嫌い」、で言うなら、残りは「どうでもいい」になると思います。確かに痴は捨の性質ですが、「仏法に対する疑い」か「浮つきの心」が一緒にあるとき「善くない心」になるのではないかと思っています。
つまり、「無関心」にも色々あるような気がします。
2010年06月18日 21:41
酒の例を出しましたが「それは頭も体も悪くするから、私にとってどうでもよいもの」という場合の「どうでもよい」なら、無知ではないと思うのです。

 本質を知り尽くして、それが不幸に繋がるから「どうでもいい」という場合と、本質を知らない、幸福に繋がるかどうかも知らないで、つまりいい加減な気持ちで「どうでもいい」としてしまう場合の違いでしょうか。

 スマナサーラ長老がたまに「それはどうでもいいでしょうに」と言われたりしますが、本質を知り尽くした上での御発言のように思います。
高橋優太
2010年06月18日 21:50
ワンギーサ先生、皆様、こんばんは。
最近、体調を崩し冥想をしばらく休んでいました。ですが体調が悪いときに、嫌だな嫌だな、早く治らないかな、と怒りをため込むと余計体調が悪くなりました。とりあえず慈悲の冥想を始めよう、困った時はダンマパダを読んでやる気を出そうと思ったら、身体はしっかりしてきました。体調が悪いとき、気分が落ち込んでいると
き、やる気を出して心を守るようにしたいです。ありがとうございました。また頑張ります。生きとし生けるものが幸せでありますように。
2010年06月22日 10:11
>慈悲と智慧さん
>新さん
>しょうしょうさん
ありがとうございます。

無知、迷、

真理を知らないがゆえにでてくる
よろしくない心の働きでしょうか。

より深く、ただしく理解できるよう
これからも勉強続けていきます。^^
こころざし
2015年09月30日 08:53
本文の「私たちの感覚には、絶えず、休むことなく、刺激が攻撃しているのです」を拝見し、本当にそうだなと実感しています。そして自分が楽しいと思うものはその刺激を得る事になっている現実も感じています。
自分の感覚器官とその対象をサティして、そして心を守れるように精進したいです。

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