294.295.母を滅ぼし、父を滅ぼし、バラモンは行く、揺ぎなく

ダンマパダ 第21 294、295

ナモー タッサ バガワトー アラハトー サンマーサンブダッサ
Namo   tassa   bhagavato   arahato    sammāsambuddhassa
阿羅漢であり正自覚者であり福運に満ちた世尊に敬礼致します


母を滅ぼし、父を滅ぼし
また王族の二王を滅ぼし
従者もろとも国を滅ぼし
バラモンは行く、揺ぎなく

母を滅ぼし、父を滅ぼし
また司祭族の二王を滅ぼし
第五に虎を滅ぼし
バラモンは行く、揺ぎなく


(片山一良先生 訳)


○日常語訳

母と父を殺し
王族の二王を殺し
王国と従臣を殺し
バラモンは苦なく行く

母と父を殺し
二王と経聞者たちを殺し
五頭目の虎を殺して
バラモンは苦なく行く


○もう一つの日常語訳

渇愛と自我をなくし
常見と断見をなくし
感覚への依存をなくし
阿羅漢は穏やかである

渇愛と自我をなくし
常見と断見をなくし
悟りの障碍である懐疑をなくし
阿羅漢は穏やかである


○子供のためのダンマパダ

ほしい、ほしいが
大きくなると
いらないものも
ほしくなる

わたし、わたしが
大きくなると
ほかの人から
嫌われる





○一口メモ

 今回は、前回の「この詩から学ぶこと」を再掲載します。この文章は、スマナサーラ長老に読んで頂いたものです。その後、長老はパティパダー(2009年10月号)の巻頭法話にこの詩の解説を書かれました。それはまたすごいものです。残念ながら、ネットにはまだアップされてませんが、パティパダーのバックナンバーを探せば読むことはできます。是非お読み下さい。それまでは以下の文章も参考になると思います。

(以下引用)

 「殺仏殺祖」(仏に会ったら仏を殺せ。祖に会ったら祖を殺せ。)という言葉が禅語にあります。ずいぶん、過激な言葉と思いましたが、その起源はダンマパダの294番、295番にあったのかもしれません。

 今回の二つの詩の、母、父、二人の王、王国と従臣、五頭目の虎、これらの言葉はすべて、ある概念を象徴する言葉なのです。ですから、それを知らなければ意味が分かりません。先ずそれを調べましょう。

 母とは、渇愛の象徴です。渇愛に縁って輪廻、生命の再生が起こるからです。
 父とは、慢心の象徴です。(自我と言ってもよいと思います。)
 二人の王の一人の王は、無常なるものを永遠不滅と見る常見の象徴であり、もう一人も王は、死んだらすべて終わりと見る断見の象徴です。
 王国とは、眼、耳、鼻、舌、身、意、色、声、香、味、触、法の12処の象徴です。
 従臣とは、喜びと貪りの象徴です。
 経聞者とは、聖典に通じて知識を誇ることの象徴です。
 五番目の虎とは、解脱を妨げる五蓋の五番目、「懐疑」の象徴です。(前回は五番目の虎とはしないで、五頭の虎として、五蓋の象徴として訳しましたが、文法的に単数ですので、五番目として改訳して、誤りを訂正いたします。)

 はじめの「殺仏殺祖」は直接この詩とは関係はありませんが、書いた以上どのような意味か気になる人もおられると思いますので、一応の解釈を書いておきま す。「仏や祖師というものに執着している限り、真理に気づくことが無い。」ということで、仏や祖師方の言葉にさえ執着してはいけないと意味だと理解してお きます。

 「母と父を殺し」。 なぜ、この詩は過激な言葉から始まるのでしょうか。第一にぼんやりしている私たちに喝を入れるためではないでしょうか。この言葉を聞くと、何を言っている のか考えます。またこの母は渇愛のことですが、自分の渇愛は本当の母以上に殺せないものです。私たちは渇愛で生きているのです。渇愛をエネルギーにして生 きているのですから、渇愛を殺すことなどできないのです。できないことですが、渇愛こそが苦しみの原因なのです。父とは慢心の象徴です。慢心は自我から生 まれます。自我は父以上に殺すことが困難なのです。

 渇愛には3種類あります。欲愛と有愛と無有愛です。有愛は「なんとしてでも生きたいとい気持ちです。」 これは「二人の王」の一人、常見に基づく想いで す。無有愛は「死んでしまいたい」という気持ちで、もう一人の王の象徴である断見に基づくものです。死んだらすべて終わりだという見解です。二人の王を殺 すことは、この間違った見解を捨てることなのです。渇愛を殺すために必要なことなのです。

 渇愛の第一は欲愛です。欲愛はどこから生まれるのでしょうか?それは王国なのです。眼、耳、鼻、舌、身、意に、色、声、香、味、触、法が触れる所から生 まれるのです。そこには従臣(喜びと貪り)が居るのです。欲愛を殺すには、王国と従臣を殺す必要があるのです。つまり感官を防護することです。

 感覚の防護は、渇愛を殺し、解脱への道なのです。しかし、この道を妨げる五頭の虎がいます。
この虎は五蓋といわれ、欲、怒り、だらけと眠気、混乱と後悔、懐疑の5つです。 この五頭の虎を退治する必要があるのです。先ず、五頭目の懐疑を退治することが大切です。なぜならば、懐疑はブッダが教えるこの道筋を疑う懐疑だからで す。ブッダの教えに対する懐疑を殺してこそ、確信を持って、この道を進めるからです。

 バラモンと言われる阿羅漢聖者は、これらのことを実践して、涅槃への道を進んだのです。

(以上引用)

○スマナサーラ長老のこの詩に関する御説法

 この御説法は上述しましたように、パティパダー(2009年10月号)に掲載されていますが、ホームページにはまだアップロードされていませんので、長老のまとめられたポイントを以下に掲載いたします。

解脱は大革命です ~解脱に逆らうこころの葛藤~

1.「解脱したい」意欲は本気ではありません。
2.こころの葛藤は「母、父を殺す」ことよりも激しい。
3.解脱には国をまるごと破壊するほどの勇気を要する。
4.智慧があれば葛藤なく解脱に成功する


○前回までのこの詩に関するブログ記事

*父と母二人の王と王国を殺してバラモン涅槃に赴く
http://76263383.at.webry.info/200907/article_27.html

*父母に譬える煩悩殺し虎に譬える煩悩なくす
http://76263383.at.webry.info/200809/article_13.html
 


○パーリ語原文

マータラン ピタラン ハントゥワー
Mātaraṃ   pitaraṃ  hantvā,
母を     父を   殺し
ラージャーノー ドゥヴェー チャ カッティイェー
rājāno       dve      ca   khattiye;
王たちを    二人の  そして 王族の
ラッタン サーヌチャラン ハントゥワー
Raṭṭhaṃ  sānucaraṃ    hantvā,
王国を  従臣を      殺し
アニーゴー ヤーティ  ブラーフマノー
anīgho     yāti     brāhmaṇo.
苦なく    行く     バラモンは   

マータラン ピタラン ハントゥワー
Mātaraṃ   pitaraṃ  hantvā,
母を     父を   殺し
ラージャーノー ドゥヴェー チャ ソーッティイェー
rājāno       dve      ca   sotthiye;
王たちを    二人の   そして 経聞者を
ヴェーヤッガパンチャン ハントゥワー
Veyagghapañcamaṃ    hantvā,
虎を    五番目の   殺し
アニーゴー ヤーティ ブラーフマノー
anīgho     yāti     brāhmaṇo.
苦なく     行く    バラモンは


〇詩のパーリ語について。100番からは正田大観先生を中心に行われました関西のダンマパダ輪読会の時の御自分のノートを参考にして、木岡治美様がわざわざ書き下ろしたものを私に送って下さいました。それを参考にさせて頂いております。

〇慈悲の瞑想

~私は幸せでありますように~
~私の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の願いごとが叶えられますように~
~私に悟りの光が現れますように~
~私は幸せでありますように(三回)~

~私の親しい人々が幸せでありますように~
~私の親しい人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の親しい人々の願いごとが叶えられますように~
~私の親しい人々にも悟りの光が現れますように~
~私の親しい人々が幸せでありますように(三回)~

~生きとし生けるものが幸せでありますように~
~生きとし生けるものの悩み苦しみがなくなりますように~
~生きとし生けるものの願いごとが叶えられますように~
~生きとし生けるものにも悟りの光が現れますように~
~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~

~私の嫌いな人々も幸せでありますように~
~私の嫌いな人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私の嫌いな人々の願いごとが叶えられますように~
~私の嫌いな人々にも悟りの光が現れますように~

~私を嫌っている人々も幸せでありますように~
~私を嫌っている人々の悩み苦しみがなくなりますように~
~私を嫌っている人々の願いごとが叶えられますように~
~私を嫌っている人々にも悟りの光が現れますように~

~生きとし生けるものが幸せでありますように(三回)~


(この慈悲の瞑想を唱える人には必ず幸せが訪れます。)

================================

~~~~~お 知 ら せ~~~~~

◎今回の詩に共感された方は、ページ右上の『仏教』バナーのクリックをお願いします。そうすると、仏教ランキングのランクが上がります。ランクが上がると多くの人の目に留まりやすくなり、ダンマパダの認知度が高まるからです。一日一回お願いします。

================================


この記事へのコメント

2010年06月05日 21:37
なるほど。
深い深い意味があるのですね。

それにしても五頭の虎、
手ごわいです。^^;
2010年06月06日 04:08
ワンギーサさん、おはようございます。

 凄すぎる内容です!あくまで私の場合ですが、「仏教なんてこんなもの」という慢心や自惚れが出てきた時、このような内容の詩を読みたいと思いました。

 現に、お釈迦様は自惚れた修行者には、「どうだ思い知ったか!」という感じの難解な御説法をされたようですし。。

 だから、真面目に謙虚に勉強して「仏教って奥が深いな~、難しいな~」という時に読むと、かえってやる気を失うかもしれないので、そういう時は敢えて読まないようにしたいと思います。あくまで私の場合です。

 この詩の中身の一つをクリアするだけでも大変で凄いことだと思いました。

 「マンネリ、自惚れ」時用に特別にメモしておこうかと思います。

 有難うございました。
しょうしょう
2010年06月06日 06:51
五頭目の虎とは、疑vicikicchaなのですね、何が必要な疑いで何が障害となる疑いか、よく考えてみます。
あっきん
2010年06月06日 07:06
 おはようございます。
同じ本を何回も読むと、なんとなく最初より内容が分かってきたりしますね。
それプラス経典など、理解するには智慧が必要なのですね。この詩を見て表現方法が豊かだなと思いました。
さてと虎退治に瞑想でもしようかな。
生きとし生けるものは幸せでありますように。
慈悲と智慧
2010年06月06日 13:35
小池龍之介師の本を読んで気づいたことなんですが、渇愛。やめたくてもやめられないことありますよね。辞めようと思ったそばからやってしまう。
その原因の一つにやるべきではないのにやってしまっているその罪悪感の刺激を気持ち良いと捏造しているからではないかと思います。
私達が俯瞰的に客観的に考えいるつもりでもその上からすぐさま自我や妄想が覆い被さっているという事実があるようです。
チューラパンタカ
2010年06月06日 19:22
私はたばこを吸いました

昨日約束を公表しました

たばこを吸ったら、投稿しないと約束しました

今は吸いました、

私というものは所詮このようなものです

しかし、止めようという思いだけは、もう五、六年

ずっと続いているのです
2010年06月06日 21:11
チューラパンタカさんへ。
タバコに関しては御自分でやめようと思うのならばやめればいいのですけれど、私はタバコを吸ったから、投稿をやめなくてもよいと思っています。
しかし、問題はお酒です。お酒を飲んだら投稿はやめてください。お酒を飲まないというのは、お釈迦さまとの約束です。決して飲まないようにがんばって下さい。
もく魚
2010年06月07日 18:54
↑チューラパンダカさん大変?ですが投稿やめないで下さいね~。

以前もく魚はほとんど毎日お酒を飲んでいました。ですから「お酒は飲まない」と言う戒は絶対に守れないと思っていましたし、初めから守る気がありませんでした(^^;正直~。

ところがスマ長老さまの本に出会い、いたく感動して何冊か読み進めていたある日の深夜。お酒を飲むことはもく魚にとって何の意味もないと気づきました。その瞬間お酒を飲みたい気持がなくなったのです。不思議~。

これはまだ冥想実践を始める前のことでなぜ突然やめることが出来たのか本人もよく分かりません。それからお酒は2年以上飲んでいません。参考になりませんね;;;もく魚は煙草は吸いません。
もく魚
2010年06月07日 18:59
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ここはゴータミー学園、そのお昼休み。
大工仕事で来ている「材木」さんにお茶をとどけるもくぎょ。後ろから近づく・・・

材木「吸います、吸います、吐きます、吐きます・・・」
もく「ざいもくさん。お茶です」

材 「ドキッ!!」手にはタバコ。
もく「あれぇ禁煙中じゃないんですか?」

材 「こっこれは煙を吸ったときと吐いたときの感覚を実況中継するヴィパッサナー冥想なんだよ;;;」
もく「そうですか?お茶おいときます」

その場を立ち去ると、廊下の陰からそっとのぞく・・。

材「吸います、吐きます・・・」
材木さんの「煙随念」はつづく・・。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
※全てフィクションです。(^^;;
チューラパンタカ
2010年06月07日 21:28
もく魚さんはいつもおやさしいですね

そしていつも人を認めてくれますね

ありがとう

生きとし生けるものが幸せでありますように
こころざし
2015年09月26日 07:41
渇愛と自我を減らし(なくし)、固定概念を捨てる事が出来て、六感から作られる認識は錯覚であると分かり執着しないと今の生き様とは全く違う生き方になるのではと思います。目指したいです。

この記事へのトラックバック