気づくこと これさえあれば 解脱する 気づきなければ 死んでるようだ(21)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


アッパマード  アマタパダン
Appamādo    amatapadaṃ,
不放逸は    不死の道

パマード  マッチュノー パダン
pamādo   maccuno   padaṃ;
放逸は    死の     道

アパマッター   ナ   ミーヤンティ
Appamattā    na    mīyanti,
不放逸の人は  ない  死な

イェー  パマッター  ヤター  マター
ye     pamattā     yathā   matā.
その人は   放逸の人   ようだ  死者の


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200901/article_10.html
http://76263383.at.webry.info/200911/article_13.html


○一口メモ
21番から32番までは、第2章不放逸(気づき、アッパマーダ)になります。
仏教の一味は、涅槃。
仏教を二言で言うと、慈悲と智慧。
仏教の三つのキーワードは、善友、如理作意、不放逸です。
この三つのキーワードの一つである不放逸(アッパマーダ)が第2章のテーマです。

不放逸は仏教専門用語ですが、「なまけないこと」つまり「はげむこと」のような意味に取られてきました。その意味に取ると、「八正道」の「正精進」に近い意味に理解されます。しかし、そうではなくむしろ「正念」と重なる意味なのです。最近、アッパマーダは「気づきを怠らない」と理解されるようになりました。しかし、さらに正確には「正しい気づきを怠らない」という意味にとるべきなのです。すなわち、心に煩悩が現れないように気づいていることです。

では、21番の詩について説明します。
「不死の道」の不死は文字通り「死なない」という意味ではなく、涅槃(仏教が教える最高の境地)を意味しているのです。涅槃は言葉では説明できないのでこのような言葉を使うのです。つまり不放逸を実践すれば涅槃に到達するという意味です。
イメージとしては、「正しい気づきを怠らなければ、死なない境地に至る」ということです。
ですから「正しい気づきがないならば、それは死の道だ」というのです。
「不放逸の人は死なない。」
不放逸な人は涅槃に到達する。涅槃は言葉では表現できないから、そのよう人は死なないと象徴的に表現したのでしょう。
「放逸の人その人は死者のようだ。」とは逆に放逸の人は死んでるようだということです。


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。

この記事へのコメント

カエルくん
2012年03月28日 16:01
ワンギーサ先生、こんにちは。
ブログに感想を書き込みさせていただくようになって2週間ほどになります。
最近、少しずつですが、家事をするときにラベリングをすることができるようになってきました。
やはりお釈迦様の言葉に毎日触れることができる、というのは大きなことなのだなと思います。
改めて、ブログ再開に感謝いたします。
生きとし生けるものが幸せでありますように。
あすか
2012年05月20日 10:01
常にというのが難しいです。
午前中はまだいいのですが
午後に忘れがちになり、
夜になって反省の毎日です。

一時や三時の時報などで
まず思い出すようにしてみます。
午後もサティが継続するように
なるといいのですが。
こころざし
2015年10月15日 07:42
自分の心の状態に気がつくという事は僕の日常でみると、やってない方の方が多い印象を感じます。
各人がそれぞれに好き勝手に自分のやりたい言動をし→トラブルが生じる時もあります。
私的な解釈ですが、本文の「放逸の人その人は死者のようだ」から早期に上記の事が浮かびました。
不放逸をその時その時で実践して参りたいです。