人々は 気づき忘れて 大騒ぎ 賢者は気づいて 静かに過ごす(26)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


パマーダマヌユンジャンティ
Pamādamanuyuñjanti,
放逸にふける

バーラー  ドゥンメーディノー  ジャナー
bālā     dummedhino     janā;
愚かな   智慧のない     人々は

アッパマーダンチャ  メーダーウィー
Appamādañca     medhāvī,
不放逸を しかし    智慧者は

ダナン       セッタンワ    ラッカティ
dhanaṃ       seṭṭhaṃva     rakkhati.
財産の(ように) 最高の   守る


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200901/article_13.html
http://76263383.at.webry.info/200911/article_16.html


○一口メモ
愚かな智慧のない人々は、放逸にふけるとありますが、これは具体的にはどういうことでしょうか?
心に、欲や怒りや無知が現れてもそれに気づくことなく、欲しいものが目に入れば、欲しい欲しいと思い、気に入らないことがあれば、イライラ、怒鳴りまくる、智慧がないので失敗だらけ、つまり感情に支配されて大騒ぎです。

一方、智慧のある賢い人々は、不放逸を最高の財産(宝)のようにまもります。
これはどういう具体的にはどういうことでしょうか?
不放逸であるとは、心に欲や怒りや無知が現れないようにすることです。心に欲が現れなければ、不必要なものまで欲しいとは思いません。気に入らないことがあっても、冷静に受け止めて、怒りになることはありません。ですから、褒められてもけなされても、舞い上がったり落ち込んだりすることはありません。無知に支配されませんから、智慧が現れます。そうすると仕事はすべて成功するのです。このようになるのであれば、不放逸を最高の宝のように守る理由が分かります。

人々は 気づき忘れて 大騒ぎ 賢者は気づいて 静かに過ごす


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。

この記事へのコメント

2012年04月02日 12:39
こんにちは。昨日近くの禅寺でもらってきた『「普勧坐禅儀」に親しむ』(曹洞宗)を読んでいます。道元さんが20代の頃に書いたという本ですが、その解説書、たった20数ページしかありませんが、とても熱い気持ちになりました。南伝、北伝と、違いますが、どちらも仏の道だと、最近感じます。ところで、「気づき」というポイントが、禅では説明されていません。当然、「気づき」も簡単ではありませんが、そこを強調するところが、南伝らしさであると、思いました。
2012年04月02日 15:30
質問があります。数日前、四聖諦の話がありました。
そこで涅槃について少し触れられていました。
欲や怒りの感情を制してゆき、
「気づき」によって、理性的になってゆくならば、
それだけ四聖諦の理解が深まり、
最終的には涅槃を得られると理解いたしました。

昨日、今日と「気づき」というポイントを書かれています。

放逸=気づきがない
不放逸=気づきがある

とするならば、放逸の先には涅槃がなく、四聖諦を理解もできない、
不放逸の先には涅槃がある。四聖諦を理解できる、

と考えていいのでしょうか?

つまり、「気づき」の先には涅槃がある。
「気づきがない」の先には涅槃がない、

なぜ、こんな質問をするのかといいますと、ゴールがはっきりすれば、そしてそのゴールには安楽が待っていると思うならば、努力をしようという気になるからです。
ワンギーサ
2012年04月02日 17:45
ぱんさんの質問にお答えします。
質問:放逸の先には涅槃がなく、四聖諦を理解もできない、不放逸の先には涅槃がある。四聖諦を理解できる、と考えていいのでしょうか?
解答:そのように考えていいと思います。
「気づき」とは日常生活で使う「気づき」の意味ではなく、「正しい気づき」という意味と理解してください。
つまり「正念」です。

カエルくん
2012年04月02日 18:00
ワンギーサ先生、こんばんは。
いつもご指導ありがとうございます。
仕事の都合で今日からちょっと忙しくなります。ここでまた日々の雑事に流されたりせず、せっかく続いているコメントを継続できたらと思います。

今日の詩ですが、宴会や娯楽等に参加するのはおつきあい程度ですが、内面的にはいつも雑念で頭がいっぱいの気がします。気づきの時間を確保しなくては、と思います。
ワンギーサ
2012年04月02日 18:43
カエルくんさん、こんばんは。
日常生活での気づきの訓練では、まず、怒らないことに気を付けて下さい。怒りが心に現れないようにチェックするのです。
イライラしたら、怒り、怒りと気づいて下さい。
慈悲の実践は、気づきの訓練にも非常に有効です。
「幸せでありますように」と思っている時、それと反対の心が現れるとすぐわかるのです。
カエルくん
2012年04月02日 20:15
こんばんは。
ご指導ありがとうございます。
私は特に、怒っている人のそばに行くとイライラします。つられてしまうのだと思います。
意識して気を付けようと思います。
あすか
2012年04月03日 06:53
欲や怒りや無知が現れないようになるまではまだまだです。まずは現れても執着しないよう、ましてや、妄想に妄想を重ねて大きくしてしまわないよう、練習します。

***

ワンギーサ先生、お心使いありがとうございます。
あまりにもいろいろあり過ぎて。
今は心のお稽古を中心にした生活です。

同じ志を持つ方々と関係を保ち、
アンテナをはっていると、
このブログ再開のような必要な情報も
自ずから入ってくるのですね。

世の中には不要な情報も洪水ですので
注意しないと。^^;
2012年04月03日 08:41
ワンギーサさん。ありがとうございます。八正道の教えを、頭ではほぼ理解できたと思います。あとは、八正道を身につければいいと。生きとし生けるものが幸せでありますように。
こころざし
2015年10月17日 07:55
私事ですが、先日同僚が突然退職するとの状況になり、その後をどうするのか紛糾するような状況になりました。皆自分の生活もかかっていますし上司他含め大騒ぎするような状況になりました。
本文の「不放逸であるとは、心に欲や怒りや無知が現れないようにすることです」を拝見し、その時の僕自身の反応を振り返り→反省が沢山必要に思いました。
同僚が退職しても仕事を冷静にしていく事自体は変わりありません。心の動揺を減らして、そして智慧を持って対応出来るように努めたいです。