誰がこの 地上と地獄と 天界を 花知るごとく 理解するのか(44)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


コー    イマン   パタウィン  ウィジェッサティ
Ko    imaṃ    pathaviṃ   vijessati,
誰が?  この    大地を   支配するだろう 

ヤマローカン チャ  イマン  サデーワカン
yamalokañ   ca   imaṃ   sadevakaṃ;
地獄の世界  と   この   神々と共なる

コー    ダンマパダン    スデースィタン
Ko     dhammapadaṃ   sudesitaṃ,
誰が?   真理の言葉を  善く説かれた

クサロー    プッパミワ    パチェッサティ
kusalo     pupphamiva    pacessati .
巧みな人が  花を ように  摘むだろう


○直訳
誰がこの大地と
地獄の世界とこの神々と共なる(世界を)支配するだろうか?
誰がよく説かれた真理の言葉を、
巧みな人が花を摘むように、(理解するだろうか)?


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200901/article_29.html
http://76263383.at.webry.info/200912/article_2.html


○一口メモ

昨日、ある方からメールを頂きました。
そのメールを読んで、今日の詩の新しい理解が生まれました。
そのメールは「心はどこにあるのか?」がテーマだったのです。
そのメールをきっかけに、この詩は「心はどこにあるのか?」と言う仏陀の問いかけだと思ったのです。

「誰がこの大地と地獄の世界とこの神々と共なる(世界を)支配するだろうか?」
支配するとは、知ることなのです。よく知る者が支配することができるのです。
知る機能とは心です。すでに何回も人生を幸福にするのも不幸にするのも心であると述べてきましたから、心は人生の支配者なのです。

もう一つ、仏教で世界を支配するとは何を意味するのか考えてみました。
暴力で支配することとは、当然異なると思います。
怒りや暴力の支配ではなく、慈しみや憐みの心で世界を支配することでしょう。

そこで、支配することとは、知ることと慈悲で支配するという観点から、最初の問題「心(支配者)はどこにあるのか?」について考えて見ましょう。

いろいろな答えがありますが、代表的なものを上げておきましょう。
1.心(支配者)は身体の中にある。
2.心(支配者)は身体の外にある。
3.心(支配者)は身体の中にも外にもある。

1.の答えの人は、例えば脳科学者です。彼らは身体の外には関心がありませんから、大地と地獄の世界とこの神々と共なる(世界を)知ることはしませんし、ですから支配することもできません。
2.の答えの人は、神を信じる人々です。彼らは信じることはできても、知ることはしませんから、大地と地獄の世界とこの神々と共なる(世界を)知ることも、支配することもできません。
3.の答えの人は、仏教徒たちです。彼らは大地と地獄の世界とこの神々と共なる(世界を)に慈悲を広げなければならないと思っていますので、知ることも、支配することができるのです。

振り返って、なぜ「誰がこの大地を支配するのか?」で始まる詩が、「心はどこにあるのか?」の問いかけになるのかを考えてみましょう。

先ず、仏教で支配するとは、対象を知り、理解することです。慈悲の心を広げることです。誰でも最初心は自分の身体の中に閉じこもっています。心は身体の中にあると考えている人には、いつまでも心は身体の中にいて、身体の外は理解できなく、慈悲の心を大地いっぱいに広げられません。ブッダは慈悲喜捨の心は無量心と言い、どこまでも大きくできる心だと教えているのです。慈悲喜捨の心がどこまでも拡大できるからこそ、大地から始まって、次元の異なる世界、地獄や天界まで、よく理解し、慈悲喜捨の心を広げることができるのです。ですから、心はどこにあるのか理解しておく必要があるのです。

心は身体の中にあると考える人は、心を大きく広げられないのです。
心は身体の外にあると考える人は、身体のそとの心(支配者)あるいは神ともいわれますが、慈悲喜捨のことは身体の外の支配者、神まかせで、自分の責任ではなくなります。
彼らは外の世界を理解も、支配できないのです。

話しを分かりやすくするために、少し乱暴に議論を進めましたが、それぞれの部類に属する人には様々の方がいますから例外はあるかもしれません。しかし、大筋としてはこの通りだと思います。この文章で傷つかれ方にはお詫び申し上げます。

この詩については、ブッダは美しい花の例えを述べられておられているのに、まだ充分に説明していません。特に「真理の言葉(ダンマパダ)」は何を意味するのか?
1.この詩の始めの二行の内容か?
2.ブッダのすべての言葉か?
3.このダンマパダ(詩集)に述べられている真理か?
明日はこの詩の続きの詩がありますから、そこで考えましょう。

「誰がこの 地上と地獄と 天界を 花知るごとく 理解するのか」

この詩から、「第4花の章」が始まります。


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。

この記事へのコメント

そうじ
2012年04月20日 04:56
先生、皆様おはようございます。

今日の記事を読ませていただいて、心について正しく理解したいという気持ちが強くなりました。

心を正しく理解して、そのつど実践することが、自分に出来る最大限の、幸福に向かう努力だと考えたからです。

今日も元気に励みます!
noritarou
2012年04月20日 09:55
ダンマパダと向き合える、
尊い時間を作って頂きましてありがとうございます。

大地や、生命法則を司る「心」を知り、
真理のことばを摘み集めるとは、
誰かの幸せを祈りつつ、そのために
(美しい)花を摘み集めることのように思いました。
そして「花」とは、
善行為の結果を象徴しているように思いました。
私は、理解しようとするとき、
どうしても妄想概念が入ってしまいます^^
そうじ
2012年04月20日 16:16
姑息であろうと心を込めたアドバイスであろうと肝心の部分を聞かない人もいる。

人の為に動くより、瞑想が最善の善行為だとよく理解しました。

私は、もうどうしていいかわかりません。
カエルくん
2012年04月20日 18:16
先生、皆様、こんにちは。
今日の詩ですが、少し難しかったです。心が身体の外側にもあるなんて、考えたこともなかったからです。でも、考えたら、機嫌の悪い人は見てすぐに分かりますし、私自身、考えてることが読みやすいと、人からよく言われます。
なるほど、心というのは、身体からはみだしているのだな、と思いました。
人からよく見えてしまっているなら尚のこと、慈悲の気持ちを育ててりっぱな人になりたいです。

「花」の意味ですが、真理の言葉ということなら、ブッダの言葉全部ということかと思いますがどうでしょうか。
明日までの宿題と思って、考えてみます。

それから、そうじ様。
毎日、瞑想を頑張ろうという書き込みをされていて、すごいなあと思ってます。
おっしゃる通り、瞑想が一番の善行為と思います。
何かあったのだと思いますが、どうか元気を出してください。
コメント仲間(?)の一人として、心配しております。
boozu
2012年04月20日 19:23
ニックネーム そうじさん

何言ってるんですか、簡単でしょ。

今出来る最善の行いで、人のためになることをする。

冥想でさらにパワーアップして

今出来る最善の行いで、人のためになることをする。

まして成長して行っていたら、昨日の自分は情けない自分に感じるさ。

だから前だけ観て、心を清める。

ワンギーサ
2012年04月21日 04:04
そうじさん、おはようございます。
元気を出して下さい。
「私は幸せでありますように」という思いをはっきりさせればいいのです。
「私は幸せでありますように」という思いから出発すればいいにです。
私はどうしたらよいかと迷ったら、慈悲の瞑想に戻って下さい。
慈悲の瞑想は生きる指針を与えてくれます。
いつもあなたを応援しています。
SRKWブッダ
2014年07月27日 20:09
誰が、この地獄世界と神々世界の入り乱れた(複雑怪奇な)大地を上手に支配しようなどという(無謀な)ことをしようなどと思うのだろう?

誰が、見事に説かれた真理の言葉を、(美しい色もよい香りもあってその在処が容易にわかる)花を撚るだけで摘み取るような容易にできることを為そうと思うだろうか?

愚者は、出来もしないことをしようとして地獄に堕ちる。賢者は、容易にできることを為し遂げて、楽しみと栄えとともにこの円かなやすらぎ(=ニルヴァーナ)に到達する。

***
こころざし
2015年10月23日 08:55
本文の「対象を知り、理解することです。慈悲の心を広げることです」を拝見し、身体の中にも外にもそのような見方や実践が出来る事の意味を感じました。
また偈の「花」ですが、真理や涅槃という内容になるでしょうか。
本文の仏教徒のように私も生きて参りたいです。