この身体 泡のようだと 悟る人 悪魔の花を 断ち切るだろう(46)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


ペーヌパマン   カーヤミマン  ウィディトゥワー
Pheṇūpamaṃ   kāyamimaṃ   viditvā,
泡のような    身体 この    知って 

マリーチダンマン     アビサンブダーノー
marīcidhammaṃ      abhisambudhāno;
蜃気楼の性質があると  よく覚った者は

チェトゥワーナ  マーラッサ   パプッパカーニ
Chetvāna     mārassa     papupphakāni,
断って       悪魔の     花の矢を

アダッサナン  マッチュラージャッサ  ガッチェー
adassanaṃ    maccurājassa       gacche.
見えない所へ   死の王の        行くだろう


○直訳
泡のようなこの身体を知って
蜃気楼の性質があるとよく悟った者は、
悪魔の花の矢を断って
死の王の見えない所へ行くだろう。


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200901/article_30.html
http://76263383.at.webry.info/200912/article_3.html

○一口メモ

今回も難しい詩です。これが分かったら、解脱して、涅槃に行くと言うものです。
分からなくても、あなたが悪いわけではないし、私の説明が悪いと言うわけではないと思います。

「この身体は泡のようなものだ」と言われても、そうとは思えない。蜃気楼とは、遠くからは幻のように見えるが、近づくと何もなく、何も見えないものですが、この身体もそのようなものだと言うのです。しかし、そのようには思えない。この身体は叩けば痛いのです。幻のようには思えない。これが私たちの実情です。

しかし、お釈迦様は、この詩のように言われます。
この「真理の言葉」どのようにしたら理解できるでしょうか?
実は、お釈迦様はこの「真理の言葉」を理解する方法を教えています。
その方法は八正道です。八正道を実践して行く過程で、この真理が理解されるのです。

ブッダの定義による八正道の説明は、下記のアドレスの記事に書きましたので、それを参考に、慈悲の瞑想(慈悲喜捨の心を育てる瞑想)をすれば、八正道を実践できるという観点から新たに説明します。
http://76263383.at.webry.info/200907/article_12.html

正見:すべての生命は幸福を求めているという見解、すなわち生命は苦の中にいるという見解。苦の原因は渇愛(貪欲、無知)であるという見解。苦は滅尽できると言う見解。苦の滅尽にいたる方法(八正道)についての見解。これらを正見といいます。また、慈、悲、喜、捨の心を持つべきだという見解も正見です。当然この反対の怒りと暴力と嫉妬と貪欲からの見解は排除されます。

正思惟:慈しみのある思考、憐れみのある思考(困っている人を助けたいと言う思考)、他人の喜びに共感できる思考、差別意識のない自我のない自他を平等にみる思考、これらは正思惟です。

正語:①嘘を言わないこと。②陰口を言わないこと。③悪口を言わないこと。④無駄話をしないこと。これが正語ですが、慈悲喜捨の心があれば当然できることです。

正業:慈悲喜捨の心に基づく行為を正業と言います。
正命:慈悲喜捨の心に基づく仕事、生活です。

正精進:慈悲喜捨の実践を繰り返し行うことです。この行いを実践するときは正念があります。正精進の時の心は善心なのです。善心の時は、心から煩悩が排除されているからです。

正念:「身において身を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて住みます。もろもろの受において受を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて住みます。心において心を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて住みます。もろもろの法において法を観つづけ、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ、世界における貪欲と憂いを除いて住みます。」 これはブッダの正念の定義です。必要な時、一語一語確認して理解する必要があります。慈悲の瞑想をすると、正念に近い心境になれます。

正定:正定の定義は第一禅から第四禅までありますが、ここには第一禅のみを引用します。 「もろもろの欲を確かにはなれ、もろもろの不善の法をはなれ、大まかな考察のある、細かな考察のある、遠離から生じた喜びと楽のある、第一の禅に達して住みます。」
慈悲の瞑想を行うと禅定に非常に近い近行定になると言われています。人によっては第一禅定に入定するのではないでしょうか。

正定の目的は煩悩を沈めて、集中力をつけ、智慧を開発することです。この智慧の力で煩悩を捨てて、解脱するのです。
そうすれば、この詩の「この身体は泡のようなもの、蜃気楼のようなものだ」と分かる筈です。この詩を理解するための長い道のりでした。

最後に、「悪魔の花の矢」とは、「煩悩」と考えてよいと思います。
「死の王の見えない所」とは「涅槃」のことです。

「この身体 泡のようだと 悟る人 悪魔の花を 断ち切るだろう」


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。

この記事へのコメント

カエルくん
2012年04月22日 05:46
おはようございます。
この身体を泡のようなものだと理解するのは確かに難しいですが、例えとしては分かりやすいです。お釈迦様は言葉を変えて視点を変えて、なんとか真理を体得できるように説明してくださったのだなあ、と思います。

仕事、家族、衣食住を整えること。みんな、この身体を維持するために大事にしているものです。
いつも漠然とした不安を抱えています。それも身体への執着、死ぬことへの恐怖からきている気がします。
瞑想すると、その間だけ不安感がやわらぎます。実況中継で、頭が忙しくなるからです。それが嬉しくて瞑想を頑張れている気がします。
boozu
2012年04月22日 06:27
先生私は泡を、水辺に現れては消える、泡を感じました。そして蜃気楼を、実在しないものがさもあるかのように見える。と浮かびました。悪魔の花の矢は欲や怒りや怠けにいたる十二因縁の触のように感じました。そして最後に、死によって私は支配されてるんだな、と思いました。ブッダの言葉を読ませて頂いた僕の感想文です。
あっきん
2012年04月22日 11:05
 最近の医学は進歩しましたね。点滴や延命治療。そのお蔭で長生きできてます。でもね ただ単に長生きしているだけでは意味がない感じです。それと自分らしくどう死をむかえる事ができるのでしょうか。いろいろ周りの人から教えてもらってます。あっきんの一人ごとでした。←
~生きとし生けるものは幸せでありますように~
boozu
2012年04月22日 13:23
最後の決断の時も心が主。死に逝く人ならば、相手が心汚さないように心清らかな見本に接するものが、慈悲喜捨そのもので在れば多大なる善行為として誰もが見習うべき人になると思います。当然あなたのその心を患者様も見習わずには、おられなくなるでしょう。心だけは、最後もで通じますよね。
あすか
2012年04月23日 09:19
心をきれいにだけでは抽象的ですが
八正道という具体的な実践方法まで
教えていただいてありがたいです。

どれも一見、あたりまえのようですが
常に実行しようとしてみると
いかに努力が必要か
じんわりわかってきます。
だからこそやりがいもあるのですね。


考えてもどうにもならない
過去や未来のことが
何度も頭に浮かぶことがあります。

今、幸せになっていいんだ
と慈悲の瞑想をしてから
なすべきこと、有意義なことに
戻るよう練習しています。

体調や気分がすぐれない日など、
慈悲の心が難しいことがあります。
いつもと変わらぬ他の人の行動が
妙に気に障ることがあります。

その人が原因でなく、こちらの
「怒」が投影されてるのかもしれません。
その方も幸せでありますように、
と慈悲の瞑想をするようにしました。


どんな環境の、どんな能力の人でも
努力を続けていればその人なりに
少しずつ禅定に近づけると思うと
毎日の努力も楽しいですね。
日々、精進してまいりましょう。

生きとし生けるものが
幸せでありますように。
青砂木
2014年03月05日 14:01
こんにちは。
「泡のようなこの身体」と「蜃気楼の性質があると」は、”どこで身体を知りましたか?”と教えられているように思いました。例えば、体温より少し熱いお湯があるとします。手を入れて静かに感じて観ました。熱を感じていたのはどこでしたか?と、じっくり洞察します。始めは「手」で感じたと思うかもしれません。何度も洞察するうちに「皮膚」だと思うかもしれません。「皮膚」だと思ったら、皮膚の内側でしたか?外側でしたか?内側だとしたら内側のどこでしたか?外側だとしたら外側のどこでしたか?分かったと思っても、では、改めて確かめてみましょうと、何度も「どこで?」と観察と洞察を繰り返すなら、繰り返すごとに「悪魔の花の矢を断って」、この偈をまさしく実感できる、と思いました。

生きとし生けるものが幸せでありますように。
SRKWブッダ
2014年07月27日 21:16
(喜怒哀楽が生じては消える)泡沫のようなこの身体であることを識って、(無いものが有るかのように見える)蜃気楼のような性質のものだと見極めた人は、悪魔の現れがまだ蕾(花の矢)のうちに折り取り、──悪を小さいうちに制しとどめて──死の王に見えることのない世界(=法界)へと赴く。

***
こころざし
2015年10月23日 09:12
泡という言葉とイコールでないかもしれませんが、肉体はアクシデントがあればすぐに死んでしまうと思います。そうすると肉体をいくら守ろうとしても、泡のように消えて(死んで)しまいます。
生きているうちに、(私事ですが)僕はすぐにインターネットサーフィン等で時間を無駄にしてしまいがちですので、正精進の気持ちをもって慈悲喜捨や不放逸の実践をして参りたいです。そうすれば悪魔のような色々な欲に走る事愚行を少しでも減らせる方向に行けるように思います。そして悟りに少しでも近づけるように努力したいです。