花求め 執着ある人を 死神は 津波のように 連れさって行く(47)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


プッパーニ  ヘーワ     パチナンタン
Pupphāni   heva       pacinantaṃ,
花を     実に ように   摘んでいる

ビャーサッタマナサン  ナラン
byāsattamanasaṃ    naraṃ;
執着の意のある     人を

スッタン  ガーマン  マホーゴーワ
Suttaṃ   gāmaṃ   mahoghova,
眠った   村を    大洪水の ように

マッチュ  アーダーヤ  ガッチャティ
maccu   ādāya     gacchati.
死神は   取って     行く


○直訳
実に花を摘んでいる(人の)ように
執着の意のある人を
眠った村を大洪水のように
死神は取って行く。


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200901/article_31.html

http://76263383.at.webry.info/200912/article_4.html


○一口メモ

「花を摘んでいる人」とは、美しい言葉で書かれていますが、感覚の楽しみを求めて、感覚から生まれた欲を満足させようと生活している人を意味しています。このことは私たちの生活のあり方です。多くの人々は、それのどこが悪いと思うでしょう。

しかし、ブッダはそのような生活に批判的です。なぜならば、欲は満足ということを知らないのです。一時的に満足することはあっても、すぐその状態に不満を持ち、欲は増大しるか、今までと異なる欲を作るのです。ですから、これらの人々の心は常に不満なのです。不満な気持ちで生きていることになるのです。不満の人の心には怒りがあらわれます。感覚の楽しみを常に求めている人は、不満と怒りで不幸な生き方をしているのです。

感覚とは、見ること、聞くこと、匂うこと、味あうこと、接触です。感覚の楽しみを常に求めている人は、感覚に執着しているのです。感覚の奴隷になっているのです。

感覚の楽しみを求める人にも確実に、死が訪れます。この詩では、死を死神と表現しています。それは突然やってきます。それはあたかも、大洪水が突然やってくるようものなのです。私たち日本人には津波のようにと言った方が分かりやすいかもしれません。

これが現実なのです。ブッダは、この現実の中で私たちはどのように生きるべきか考えるように教えているのです。

「花求め 執着ある人を 死神は 津波のように 連れさって行く」


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


この記事へのコメント

あっきん
2012年04月23日 08:26
おはようございます。
「自分が死なないと思うから、戦争するんだ」と聞いたことがあります。死ぬと思えば命がけで戦っている場合でないですね。津波は誰でも訪れるのが真実なら今何をすべきなのでしょうか・・・と自問するあっきんであった。ウェーサーカ祭りもうすぐだ。楽しみだ(・▽≦)
あすか
2012年04月23日 09:37
欲にはきりがない。
ここに気がつくだけでも
見方が大きく変わりますね。

刺激による満足という幻想のために
より強い刺激をもとめてどんなに
時間、お金、エネルギーをつぎこんでも
永遠の満足は得られません。
苦しくなるだけです。

必要なだけで満足する、
ということに慣れると
今ここですぐ幸せになれ
しかもずっと幸せでいられます。

情報あふれる社会に暮らしており
まだ訓練もよくできていないので
すぐに「欲」があらわれます。
これは必要なのかな?
ただ欲しいだけなのかな?
と、欲が暴走しないうち、なるべく早く
気づくよう練習しています。

*****

あっきんさん

死はタブー視されている
感じもありますが、
逃げずにしっかり向きあうのも
大切かもしれませんね。

生きとし生けるものが
幸せでありますように。
noritarou
2012年04月23日 11:37
私には、
ブッダからの叱咤激励のように感じます。
欲にまみれるのは、よくありませんが、
にこやかに生活することは
否定されるべきではないと思います。
長老さまは、生の結果が死なので、
それは自然現象で、
雨が降るようなものだと言われます。
たとえ一瞬でも、
生滅している現実に気付けたら、
死に続けていることが分かるのでしょう。
人間である限り、
煩悩の滅尽は果てしないです。
慈しみを持って仕事をし、生活する、
当たり前の人間になることが目標です。
カエルくん
2012年04月23日 18:13
先生、皆様、こんにちは。
ふとしたことで、友人を怒らせてしまいました。それで落ち込みがあらわれて、今日1日その感情に囚われて過ごしてしまいました。
これも不満や怒りのひとつでしょうか。
人間関係がうまくいっているのが当たり前、という気持ちがどこかにあるからうまくいかなかったときに落ち込むのですね、きっと。
今夜は慈悲の瞑想を集中的におこなってから休もうと思います。
ワンギーサ
2012年04月23日 18:56
カエルくん、こんばんは。
今がチャンスです。
落ち込みのある心を落ち込みのない心に変えるチャンスです。
今がチャンスだと思えば、明るい心になって、落ち込みはなくなります。
また、明日にでも、友人に怒らせてしまったことを、素直に謝れば、その友人とさらに仲よくなるチャンスなのです。
今がチャンスなのです。
応援しています。
慈悲と智慧
2012年04月23日 20:36
http://gotami.j-theravada.net/2006/02/post-116.html
◇慈悲の瞑想こそが特効薬

慈悲の瞑想でもやれば、自尊心が傷つくことで起こる一切の問題は解決しますよ。でもいくら言っても、本音ではやりたがらないんです。みんなサディスティックというか、苦しむのが好きみたいです。慈悲の瞑想なんか、いくら言ってもやらない。一瞬たりとも楽しく生きた経験がない。落ち込んで暗く生きることには慣れている。慣れている家からは出たくないんですね。でも知ったことではありません。教えるところまでが私の義務ですから。
カメムシさん
2012年04月23日 22:06
執着で見えなくなってるものを、感じました。

前はパチンコをしていたのですが、パチンコをしてると、他人の気持ちも感じなくなるほど、パチンコに自分の事に一生懸命になります。パチンコも閉店もあれば、お金がなくなれば出来ません。人生の最後のときになんて無駄な時間を過ごしていたんだと思わないよう。今しておいた方が、気持ちが清らかになることを、その都度出来ればいいと思います。
カエルくん
2012年04月23日 23:18
先生、皆様、こんばんは。
あたたかい励ましとアドバイスをありがとうございますm(__)m
怒らせた友人には、謝罪のメールを送りました。
返事はまだですが、できることはした、という気持ちです。
彼女の怒りは私が彼女の期待に答えられなかったからですが、私にそれだけの能力がなかったのだから仕方ありません。
怒っている人の方が苦しいのだ、というふうに考える気持ちの余裕が出てきました。

以前長老がどこかで「慈悲の瞑想は心のバンソウコウ」(包帯だったでしょうか。うろ覚えですみません)とおっしゃっていましたが、ほんとうですね。
傷付いた心によく効きました。
こころざし
2015年10月24日 07:38
津波の画像を思い出しながら、本文の内容を考えました。感覚の楽しみが津波のように押し寄せている様な生き方をしている日常で、そこから逃れる困難さを感じました→輪廻を繰り返す方が多い訳だと感じます。
津波から逃れるには高台に行かなければなりません。本文の「感覚の楽しみを求めて、感覚から生まれた欲を満足させようと生活している人」ではなく、感覚から生まれる欲や執着から離れて、高台に逃れるように・悟りをえられるよう精進したいです。