放逸に 耽るな、欲楽に 親しむな 不放逸な者は 安楽を得る(27)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


マー   パマーダマヌユンジェータ
Mā    pamādamanuyuñjetha,
な       放逸にふける

マー   カーマラティサンタワン
mā    kāmaratisanthavaṃ ;
な       欲楽に親しむ

アッパマットー  ヒ   ジャーヤントー
Appamatto    hi    jhāyanto,
不放逸の     実に  瞑想者は

パッポティ ウィプラン スカン
pappoti   vipulaṃ   sukhaṃ.
得る    広大な   安楽を


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200901/article_13.html
http://76263383.at.webry.info/200911/article_16.html


○一口メモ
「放逸にふけるな」は、自分の心に注意を向けずに、感情のおもむくままに生きていてはいけない。それは危険なことで、あなたの人生を不幸なものにするということです。

「欲楽に親しむな」は、欲や楽しみは求めれば際限がないものだから、それらに親しむと自分をコントロールできなくなります。修行者にとって欲楽に親しむことは、修行の妨げになります。ですから。欲楽に親しむことには注意が必要なのです。

「不放逸の瞑想者」とは、身体と感覚と心と心の対象について、熱心に、正知をそなえ、念をそなえて、瞑想する修行者のことです。

「広大な安楽」とは、涅槃を意味します。

放逸に 耽るな、欲楽に 親しむな 不放逸な者は 安楽を得る


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。

この記事へのコメント

慈悲と智慧
2012年04月03日 12:16
スマナサーラ長老の『欲ばらないこと』より。

「心に必要なのは喜びと充実感です。欲ではありません。つねに喜びを感じて充実した生き方ができるならば、欲の罠にはめられて、人生が堕落することはありません。集中力がなく混乱した心で嫌々、勉強や仕事をしたりすると、ストレスが溜まって苦しくなります。そのとき、救いを求めて欲に逃げたくなります。それが落とし穴です。」

http://ameblo.jp/jihitotie/entry-11194255313.html
カエルくん
2012年04月03日 16:28
ワンギーサ先生、こんにちは。

この間、洋服を少し整理しました。
気に入っているけれどいたんだものや、まだ着られるけれど好みにあわないものをいくつか処分しました。
迷いましたが、捨てたあとは気分がさっぱりして良かったです。
ところが服が減ったら、また新しい服が欲しくなってきました。自分に苦笑いです。
欲しい欲しい、という気持ちにはきりがないのだなあ、と思いました。
この詩で自分を戒めたいと思います。
2012年04月03日 19:24
ダンマパダというのは、ひとつの偈で教訓とこれからどうすべきか?の具体的な方向性が抱き合わせで述べられているところが素晴らしいと感じました。

折しも今は強風雨の為、電車が止まってしまっています。

冷静にサティをして行動したいと思います。
あすか
2012年04月04日 06:49
感情をどうにかしようとしても
どうにもできません。
感情のままに行動するかどうかなら
選択できます。

欲や楽しみで満足を求めても
必ず期待したほどの刺激は得られず
もっともっとの繰り返し。

細かな刺激の微妙な違いを味わい
おだやかな心に安らぎを見出せば
毎日、一瞬一瞬が幸せですね。

****

カエルくん(さん付けは変ですよね?)
のコメントを読んで、
持ち物を整理することにしました。
処分するのは買うよりも
ずっとずっとエネルギーが必要ですね。
2012年04月04日 07:49
「広大な安楽=涅槃」とはどのようなものか。僧衣を着た坊さんが、笑顔でバンザイしているイラストを描き、涅槃に到達した自分の姿をイメージしようと思っています。たとえば、ゴールテープを切ってうれしいマラソン選手や、甲子園で優勝してうれしい選手たち、受験で合格してバンザイする受験生。とにかく、何かイメージをもたないと、そこに進みにくいわけです。だから、わかりやすくいえば、その涅槃に到達したら、ガッツポーズをしたくなったり、涙が出るほどうれしかったり、また、天使たちが花束を持ってきて「おめでとうございます」と言ってくれるような場所、天上の花咲き乱れる、何かいるだけで一年中春のような、そういう場所と考えて、修行したいと思います。
ワンギーサ
2012年04月04日 08:42
みなさん、おはようございます。
コメントありがとうございます。

ぱんさんに注意があります。
イメージできない涅槃をイメージすることは修行の妨げになります。
相応部の始めのお経「度暴流経」をよくお読みください。
釈尊は「止まることなく、求めることなく、暴流(煩悩)を渡りました。」
そして、「止まるとき、沈みます。求めるとき、おぼれます。」と述べられています。
修行は、坦々と行うべきものなのです。
カエルくん
2012年04月04日 17:58
皆様こんにちは。
あすか様。
「さん付け」をとっていただいてありがとうございます。
先生もできれば、カエルくんと呼んでいただけると幸いですm(__)m
2012年04月05日 07:47
ワンギーサさん。相応部のはじまりが『度暴流経』であるということは初耳でした。勉強になります。淡々と行じたいと思いました。


こころざし
2015年10月17日 15:41
日常のごくごく身近な所で放逸になっていると、美味しいものを見ると→食べたくなり・綺麗な女性がいると→お近づきになりたいと思ったり等々、余計な思考・妄想がさっと回転する自分がいます。
はっと気がついた時点で止めるように注意していますが、その回数の少なからぬ事・・人間らしさ?を感じます。
本文の「身体と感覚と心と心の対象について、熱心に、正知をそなえ、念をそなえ」が出来るように心がけたいです。