放逸を 不放逸で なくす時 智慧ある憂い ない人となる(28)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


パマーダン  アッパマーデーナ
Pamādaṃ   appamādena,
放逸を    不放逸で

ヤダー  ヌダティ  パンディトー
yadā   nudati   paṇḍito;
ならば  取り除く  賢者が

パンニャーパーサーダマールヤ
Paññāpāsādamāruyha,
智慧の殿堂に登って

アソーコー   ソーキニン  パジャン
asoko      sokiniṃ     pajaṃ;
憂いない人が  憂いある   人々を   

パッバタットーワ     ブーマッテー
Pabbataṭṭhova       bhūmaṭṭhe,
山に立つ人のように  地上に立つ人を

ディーロー  バーレ  アウェッカティ
dhīro      bāle     avekkhati.
智慧者は  愚者を   見る


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200901/article_14.html
http://76263383.at.webry.info/200911/article_17.html


○一口メモ
放逸であれば、心には悪い思いが入り込み、自分を不幸にすることになるので、
放逸をなくす必要があります。
ではどうしたら、放逸をなくすことができるでしょうか?

それは、不放逸を実践することです。

より具体的には、五戒を守ることです。
1. 生き物を殺さないこと
2. 与えられてないものを取らないこと
3. 邪まな行いをしないこと
4. 嘘をつかないこと
5. 放逸の原因になる酒や麻薬類を使用しないこと

慈悲の実践も、不放逸の実践になります。
1. 私が幸せであるようにと念じること
2. 私の親しい人々も幸せであるように念じること
3. 生きとし生けるものが幸せであるように念じること
4. 私の嫌いな人々も幸せであるように念じること
5. 私を嫌いな人々も幸せであるように念じること

この詩では、放逸を不放逸で取り除くとどうなるか、二つの例えで説明しています。
一つは、智慧の殿堂に立って憂いのない人が、憂いのある人を見ているような気持ちになる。
もう一つは、山の上の智慧者が山のふもとの愚者を見ているような気持ちになると述べています。
放逸を不放逸で取り除くと、憂いのない、智慧のある人になるということです。

放逸を 不放逸で なくす時 智慧ある憂い ない人となる


*ここで説明した不放逸の概念は皆様が思っている概念と少し異なるかもしれませんが、
 善行為をしている時には、心に念(サティ)があるのです。


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。

この記事へのコメント

慈悲と知慧
2012年04月04日 12:22
私から皆様にオススメの方法としてこのブログを読んだり、長老の本を読んだりする際に【音読】を用いることがあります。

わざわざ自分で発音してそれを聞くことに意味があります。

因みに、耳栓してささやいて同様の効果があります。
お経や慈悲の瞑想も声に出して念じてみると結構良いです。

歩く瞑想等については長老の指示を仰いで下さい。


たかが【音読】といえども効果は結構あります。

実際、音読でひきこもりを克服して、仕事先で優秀な人材となった人もいるくらいなんです。

周りに迷惑を掛けず、常識の範囲内で【背筋を伸ばして】やることが前提です。
カエルくん
2012年04月04日 18:29
ワンギーサ先生、慈悲と知慧様こんばんは。
音読、いいですね。特にブログは携帯の小さな画面で見ているので、声を出した方が頭に入りそうな気がします。

今日の詩ですが、善行為をするときはサティがある、という説明に納得いたしました。
信号を守る程度のことでさえ、注意深くならないと実行できないからです。

憂いのない境地、に、憧れます。
ほんとに高い山を目指すように、一歩一歩進んでいきたいです。
2012年04月05日 07:45
不放逸は、山の上に行くというようなたとえ話を見て、先日、川崎市にある観音寺副住職、佐藤明彦さんの話を思い出しました。

佐藤さんは、東北大震災で親戚の寺が被災したことなどを話しながら、ご自分の誕生日が3月11日であることなども話してました。

その中で、山登りはつらい、空気もうすくなってくるし、大変だ。しかし、頂上に上れば、360度見える。だから、老年の人々は尊敬に値するとかいうような文脈でした。

禅宗の坊さんなのに、マザーテレサのことなども話し、「無関心は罪です!」という言葉を二度言って、話を締めくくっていました。
あすか
2012年04月05日 16:03
一口メモ、具体的にどうすればよいか、
とても参考になりました。
ありがとうございます。

自分を律するのは難しいです。
先生も誰も注意してくれない。
ちょっとなら、今回だけなら、
のつもりが…。
と、ならないよう、
一瞬一瞬、サティを怠らず
練習、練習の毎日です。

>慈悲と智慧さん
確かに音読は
読んで、唱えて、耳でも聞いて、
といろいろな感覚を使うので
効果が高いかもしれませんね。
早速、実践してみます。

>カエルくん
信号待ちもいいおけいこですね。
全部の信号にひっかかっても
大丈夫なように早めに準備する。
信号待ちの間は、周囲の人の
幸せを念じる。
怠けたくなったら、
決まりをやぶりたくなったら、
ここが頑張りどころ。
楽しく心のおけいこです。^^
慈悲と知慧
2012年04月05日 17:10
皆様ありがとうございます。

音読するは、器官を沢山使うので脳が活発になり、喜びを感じます。
実況中継も同様で脳がサボって妄想する余裕が無くなります。

詳しくは、市販されてませんが協会から出ている長老のダンマパダ講義のCD,DVDの『悪魔の矢花の正体』をご覧下さい。
こころざし
2015年10月17日 15:54
本文の「・・憂いのない人が、憂いのある人を見ているような・・山の上・・ふもと・・を見ているような気持ち」ですが、僕の身近でやや俗世間らしく(やや感情的に)生きている方と接する時等に(上記の心境について)こんな感じかもと思う時があります。
勿論智慧が自分についている訳ではないと思いますので、もっと精進して参りたいです。