不放逸を 楽しむ比丘は 放逸恐れ 大小煩悩 焼き尽くすべし(31)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。



アッパマーダラトー  ビック
Appamādarato     bhikkhu,
不放逸を楽しむ    比丘は

パマーデー  バヤダッスィ  ワー
pamāde    bhayadassi   vā;
放逸を    恐れと見る  または

サンヨージャナン   アヌン  トゥーラン
Saṃyojanaṃ      aṇuṃ    thūlaṃ,
結縛(煩悩)を    微細な   粗大な

ダハン  アッギーワ  ガッチャティ
ḍahaṃ   aggīva     gacchati.
焼いて  火ように   行く


不放逸を楽しむ、または放逸を恐れと見る比丘は
微細な煩悩も粗大な結縛(煩悩)も、火のように焼いて(涅槃)に行く。


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200901/article_17.html
http://76263383.at.webry.info/200911/article_20.html


○一口メモ
一口メモと言いながら、だんだん説明が長くなっています。今回も長くなりそうです。

昔、比丘はブッダに瞑想方法を習うと、森に行って、悟るまで修行を続けたようです。しかし、この詩に述べられた比丘はどうしても阿羅漢果を得られないので、ブッダの所に戻ろうとしました。その途中で大きな山火事に遭ったのでした。禿山の頂上に上り、静かに坐りながら、山火事を眺めていました。山火事の火は大きな木や小さな草も区別なく焼き尽くしている様子を見て、自分も大きな煩悩も小さな煩悩はもことごとく焼き尽くすべきだと思いました。その時、ブッダは神通力でこの比丘の心の動きを察知して、その比丘の前に坐っているかのように現れて、この詩を唱え、説法されました。この説法の終わりに、この比丘は阿羅漢果を得た(悟った)ということです

この因縁物語は、昔の比丘の修行の様子を彷彿とさせるところがあり私は好きなのです。
また、この詩はブッダの、この比丘への励まし、応援なのです。ブッダの応援は凡人の応援と異なり、とてつもない力があると思いますが、凡人の応援でも、応援された人には大きな力になるものです。応援は慈悲の実践と共通の要素(慈悲喜捨)があると思います。私は努力している人を応援しようと思っています。皆さんもぜひ努力している人を応援してください。

もう一つの説明です。この詩に出てくる「結縛」とは仏教用語で、「結」とも言います。パーリ語ではサンヨージャナです。私たちを輪廻の世界に結びつけている軛(くびき)、煩悩で、次の10種類です。

1.有身見:「私」という概念が実体のあるものだと思い、肉体と心が自分のものだと誤解していること。
2.疑:仏法僧、因果法則、四正諦、八正道などを疑うこと。
3.戒禁取:無意味な苦行やあらゆる宗教儀式・儀礼。
4.愛欲:五欲に対する渇愛。
5.激怒:異常な怒り。
6.色貪:色界禅定に対する渇愛。
7.無色貪:無色界禅定に対する渇愛。
8.慢:自分を基準にして他者と比べる働き。驕り高ぶり。卑下。
9.掉挙(じょうこ):心が浮つき落ち着きがない。禅定を妨げるもの。
10.無明:すべての煩悩の大本。煩悩の親玉。

以上ですが、これらは十結とも言い、1から5までは五下分結、6から10までは五上分結といいます。

悟りの段階と十結の関係は次の通りです。
預流果:1、2,3、の煩悩がなくなります。
一来果:4から10の煩悩は残っていますが、預流果より薄まっています。
不還果:1から5の煩悩がなくなります。6から10の煩悩は残っています。
阿羅漢果:すべての煩悩がなくなります。


不放逸を 楽しむ比丘は 放逸恐れ 大小煩悩 焼き尽くすべし


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。

この記事へのコメント

あすか
2012年04月07日 07:47
ついつい「これくらいは」
となりそうな小さな煩悩、
気を付けないと。

応援は本当に励みになります。
こちらのHPでのコメントによる
やりとりも嬉しいです。
なかなか会う機会のない方々との
交流の機会を
ありがとうございます。
カエルくん
2012年04月07日 07:53
ワンギーサ先生、おはようございます。
私はこのブログを通じて、先生や他の皆様から励ましてもらっているような気がします。ありがとうございます。

今日の詩ですが、煩悩の大小とはなんだろう、と考えてみました。
五欲に対する渇愛は比較的気づきやすい、と思います。
禅定への渇愛は、禅定そのものを知らないので分かりません。
難しいのは慢とじょう挙かな、と、自分を振り返ってみて思いました。人前であがったりするのは人と比べる気持ちが働くからだし、忙しかった日の夜に瞑想がしにくいのは1日心が浮わついていたからだと思うのですが、その瞬間は非常に気づきにくいからです。
結局、瞑想の時間だけでなく、日常生活の中でも気付きを絶やさないように努力をするしかないのだな、と思いました。
慈悲と知慧
2012年04月07日 12:17
私は、繰り返し【音読】の導入を薦めていますが、音読すれば、黙読よりも遅くなるかも知れません。

しかし、仏教は、【知識ではなく智慧】ですので、実践が伴わずひたすら長老の本を次から次へと貪り読んだり法話を聞いてもあまり効果はないと思います。

実践が伴わず、スリランカに行っても、唯の観光であり、パワースポットを求めての観光と変わらないでしょう。

反対されるかも知れませんが、このブログのコメントも実践を後回しにしてやるものでもないですし、漠然と毎日しなければいけないものでもないと思います。

【知識ではなく智慧を身につけるというアプローチ】が大事であると思います。
カエルくん
2012年04月07日 17:10
慈悲と知慧様。
毎日コメントしている、というと私のことかと思います。
真剣に記事を読み、思ったことを真面目に書き込んでおりますが、修行不足、人格の拙さがそのままコメントにあらわれてしまって恥ずかしいと思っていました。

おっしゃる通り、実践が何よりも優先だと思います。
明日から、しばらく沈黙して頑張ろうと思います。
慈悲と智慧
2012年04月07日 22:23
カエルくん

決して毎日書き込んではいけないという訳ではありません。

唯、最初のうちは良いのですが、だんだん毎日書き込みしなければと縛られるようになり、自分の実践が疎かになってしまうことがよくあるのです。


個別に質問がある際などは別として、ブログもツイッターで仏教を広めたり、社会福祉活動も確かに善ですが、先ずは自分のこころを落ち着けることがもっと大事だと思います。


勿論、ワンギーサ師のように出家されたプロの方は別です。


あすか
2012年04月08日 07:24
ブログもコメントもTwitterも
上手に使えばとても良いものですが
付き合い方が難しいですね。

私も誰かの役に立てたらと
お釈迦様の言葉などについて
ブログを始めたのですが
気がつくと、
閲覧数やランキングが気になり、
「うける」ものにしたいと
漫・漫・漫。

その頃の私には数字を気にせず
書くべきことを書く、
ということができなかったので
しばらくネットを離れました。

今はこうしてコメントは
するようになりましたし、
twitterも復活しました。

そのうち自分がこうして学んでいることを
ランキングが気にならないような形で
HPのようにまとめていくのも
いいかなと考えています。

このブログのコメントも
「義務」にならないよう
無理のない範囲で
参加していくつもりです。

お互い、しあわせへの道を
歩んでまいりましょう。^^

2012年04月08日 07:48
ワンギーサさん、質問があります。
7日の記事に十結のことが書かれていました。
預流果で、戒禁取が消えるとあります。

ブッダかキリストかで迷っている私は、
預流果を得ていないということなのでしょうか?

ということは、何か修行で、欲や怒りが薄まったような気がするというのは、
預流果を得ていないわけですから、
まだ本当の意味では、欲や怒りが薄まっていない、ということなのでしょうか?
ワンギーサ
2012年04月08日 22:33
ぱんさんにお答えします。

「ブッダかキリストかで迷っている私は、
預流果を得ていないということなのでしょうか?」

回答:そうです。

「ということは、何か修行で、欲や怒りが薄まったような気がするというのは、
預流果を得ていないわけですから、
まだ本当の意味では、欲や怒りが薄まっていない、ということなのでしょうか?」

回答:欲や怒りが薄まっても、預流果を得られるわけではありません。智慧が伴わなければ、悟りはえられません。
そのことが分からいといことは、智慧を伴っていないということです。ですから、当然、預流果ではありません。






こころざし
2015年10月18日 08:00
ワンギーサ長老の応援の厚意、日々感じています。
自分が発する掛け声とは裏腹に、日常で不放逸が出来ていない時は普通にあると実感しています。
少しでも放逸の時間を減らし、そして煩悩を焼きつくせるように精進したいです。
そして努力されるかたや努力に繋がる要素のある方の応援を身の丈で、是非やらせて頂きたいと思います。