尊敬と 権力願う 比丘たちは 修行を装い 供養を願う(73)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


アサンタン  バーワナミッチェッヤ
Asantaṃ    bhāvanamiccheyya,
不実の    修行を 求める

プレッカーランチャ   ビックス
purekkhārañca     bhikkhusu;
尊敬を   又     比丘たちにおいて

アーワーセース  チャ  イッサリヤン
Āvāsesu      ca    issariyaṃ,
住居においては  又    主権を

プージャー パラクレース チャ
pūjā      parakulesu   ca.
供養を   他の家では  又


○直訳
不実の修行を求めてしまう
また比丘たちおいては尊敬を
住居においては主権を
他の家では供養を(求めてしまう)


○一口メモ
直訳では分かり難いので意訳すると次のようになります。
「愚かな比丘はやってもない修行をやったように思わせ、比丘たちの仲間の間では、尊敬されるように願い、寺では自分の指導権を求め、信者の家では供養を求める」

ここまでは、思わなくとも、この詩を次のように表現してみると、
「修行をよくやっているように思われなくてよい、比丘たちの仲間の間では、軽視されてもよい、寺では自分は無視されてよい、信者の家では供養がなくてよい」とは多くの比丘は思っていないと思います。ですから、愚かな比丘のような要素を持っていると思います。警戒しなければならないことです。

現代の会社や学校や家庭でも、私たちは仕事をよくやっているように思われたいし、仲間のなかでは重要なメンバーと思われたいし、グループのリーダーでありたいし、報酬も多く欲しいと思っているのは間違いないと思いますので、愚かな比丘を笑えないのです。

さて、それではどうするかですが、上に書いた例は動機が悪いのです。つまり、すべて欲の心からの発想です。ですから動機を変える必要があるのです。これは見せかけだけの動機の変更ではなく、心から①自分が幸せになるように、②相手の人が幸せになるように、③みんなが幸せになるように、仕事をする、行動するという動機に変えるのです。これは人生の万能薬である慈悲の瞑想の発想なのです。

その結果、仕事をよくやる人と思われ、仲間から重要なメンバーと思われ、グループのリーダーになり、多くの報酬を受けるというのは全然問題のない事なのです。心から①②③からの発想で、行動する時はたとえ、結果として、リーダーにならなくとも、報酬が多くなくとも、充実感、満足感があるものなのです。


「尊敬と 権力願う 比丘たちは 修行を装い 供養を願う」


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200902/article_20.html
http://76263383.at.webry.info/200912/article_24.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


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この記事へのコメント

カエルくん
2012年05月18日 05:36
おはようございます。

自分をかえりみると、あまりに強く「周囲の人に承認されたい」と願っていることに気付き、驚きました。
欲が強いということですよね。
人から尊敬される人になりたい、というのが修行のモチベーションのひとつだったのですが、欲を強めているだけだったのですね。
怒りっぽいのは自覚があるのですが、欲の感情にも注意していこうと思います。
あすか
2012年05月18日 07:40
何かができるようになっていくのは、
気持ちがよく嬉しいことです。
しかし、ここでストップが難しい。

つい「褒めて、褒めて!」
という欲になってしまうのです。

さらにひどい時は
「なぜ評価されない?」とか
「なぜ自分ではなく?」という
怒りまで。

今は慈悲の瞑想の効果なのか
嫉妬や妬みから開放されつつあります。
も誰かが幸せなのだからいいではないか
と思えるようになってきました。

ですが「評価して!認めて!」は
まだまだ。「慢」は手強いです。
これも慈悲の瞑想で
なんとかなっていくのでしょうか。
ぱん
2012年05月18日 08:07
「良薬は口に苦し」というように、人生の万能薬も愚か者には飲みがたいと思います。ただ、それしか解決法がないならば、飲みがたくても飲むしかありません。昨日、近くの教会の祈り会に参加しました。牧師さんや信者たちとともに、ある信者のために祈ったのです。そうして、祈りが終わり、何か充実感に満たされたのです。キリスト教と仏教は、西洋医学と東洋医学と同じくらい発想が違いますが、しかし、とにかく、愛や慈悲こそが逆境をのりきる鍵であり、病を治す薬だという理解を深めたのです。
とも
2012年05月18日 08:37
先生 おはようございます
近江商人の「三方良し」を思い出しました。
昔の日本には仏教の考え方があったのですね。
今日も一日精一杯生きます。
幸せでありますように。
こころざし
2015年11月01日 07:36
本文の「仕事をよくやっているように思われたいし、仲間のなかでは重要なメンバーと思われたいし、グループのリーダーでありたいし、報酬も多く欲しいと思っているのは間違いない」を拝見して図星・・を感じました。ただこれまでの学びから、自己顕示欲が出るほどエゴ状態で転ぶ事を自覚しており、そうならないように努めています。
自分も相手も周囲の方も嬉しい行動をとれるように努めたいです。