岩山は 風が吹いても 動かない 非難賞賛 何するものぞ(81)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


セーロー  ヤター   エーカガノー
Selo     yathā   ekaghano,
岩の    ように   一つの堅い

ワーテーナ  ナ   サミーラティ
vātena     na   samīrati;
風によって  ない   動か

エーワン   ニンダーパサンサース
Evaṃ     nindāpasaṃsāsu,
そのように  非難称賛において

ナ   サミンジャンティ  パンディター
na   samiñjanti      paṇḍitā.
ない  動か        賢者は


○直訳
一つの堅い岩のように
風によって動かない
そのように非難称賛において
賢者は動かない


○一口メモ
意訳は次の通りです。「岩山は風に吹かれても揺るがないように、賢者は非難されても称賛されても落ち込むことも舞い上がることはない。」世間では、人の評価で心が揺れ動く人が多いので、この詩に述べられた賢者は憧れでしょう。

ではなぜ、賢者は非難にも、称賛にも動じないのでしょうか?

人の非難も変わらないものではないのです。「人の噂も七十九日」と言われるように、いずれ忘れられるものですし、落ち込んだ気持ちも変化するものです。反対に称賛されても、それがいつまでも続くものではなく、その喜びもいつまでも続くものではないのです。賢者はそのことをよく知っているので、非難や称賛に対して一喜一憂しないのです。

この詩は「非難と称賛」について述べられていますが、仏教では八世間法と言われる、世間の人々が、喜んだり悲しんだりする事柄を八つを指摘しています。①利、②不利、③名誉、④不名誉、⑤非難、⑥称賛、⑦幸福、⑧不幸です。世間の人々にとっては、①、③、⑥、⑦は好ましいもの、喜ぶことです。残りは好ましくないもの、悲しむことです。

しかし、これらの事柄はみな無常です。変わりやすいものであり、変わらないものではありません。賢者はこのことを知り、変わりやすいものと理解し、好ましいことにも心を動かさず、好ましくないことにも怒りを持たず、幸福も不幸も気にしないです。そして悩み苦しみをなくします。ですから、「賢者は動じない」のです。

この詩の「賢者は動じない」ということから、賢者は無常を知る人という特徴が分かります。

つまり、世間法に対する感情に左右されないためには、無常を知ることです。また、そのためには常に自分の感情を観察していることが大切です。不放逸が大切なのです。


「岩山は 風が吹いても 動かない 非難賞賛 何するものぞ」


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200902/article_27.html
http://76263383.at.webry.info/201001/article_3.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


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この記事へのコメント

カエルくん
2012年05月26日 05:53
おはようございます。

無情を知ると、岩のように不動になるのですね。なるほどと思いました。

褒められることに弱いです。
あまりないからでしょうか。それとも認められたい気持ちが強いからでしょうか。
簡単に舞い上がってしまいます。
でもそれも愚かなことなのですね。
気を付けて、心を観察します。


ぱん様
お坊様が夢の中に出てくるなんて、すごいですね。それだけ一生懸命修行をされているのだなあ…、と思いました。
私の夕べの夢は、お掃除の夢です。
部屋が散らかっているのが気になっているからだと思います。
本当にまだまだです。
ぱん
2012年05月26日 06:18

昨日、瞑想してから、散歩に出ると、道で人を見かけた瞬間に、ものすごい衝撃を受けました。昔から他人の目を気にするタイプだったのですが、瞑想によってそれが磨かれました。原因は、防衛本能でしょう。散歩中、すれ違う人々に、敵から身を守りたいという本能=怒りが生じます。そういう条件反射が消えてゆき、何ごとにも動じず、身構えず、おそれず、安心して散歩できる日が来ますように。生きとし生けるものが幸せでありますように。
とも
2012年05月26日 07:06
先生 おはようございます
仕事や生活が上手くいっているときは、少々の非難や賞賛では心は平安のままいられるのですが、仕事で上手くいかなかったときなど、非難されるとすぐイライラしてしまいます。
昨日もそうでした。 何があっても心が動じない岩山のような人は格好いいなぁと思います。 今日は非難されたら岩山を思い出します。 皆さんが幸せでありますように
あすか
2012年05月26日 07:25
こうして学んでいる時はふむふむと
納得したつもりになるのですが、
いざ外へでて人と関わると
落ち込んだり舞い上がったり。

人の評価でふらふらするのでなく、
やるべきことをできる限りしっかりやる。
世間法にふりまわされず
おだやかに過ごすよう努力します。
ぱん
2012年05月26日 19:46
カエル君さん

コメントありがとうございます。初夢という舞台を選んで登場するスマナサーラ長老やティクナットハン師がすごいだけです。きっと、新年早々から、最高クラスの聖者ならではの強力な慈しみのこころで、生きとし生けるものの幸せのために、慈悲の瞑想を行っていたのでしょう。それをたまたま、私が拾ってしまったという感じなんだと思います。とにかく、めでたいことだと受けとります。また、そういう夢を見ていなかったとしても、仏法僧の慈しみのこころは、誰に対しても注がれているのだと思います。
SRKWブッダ
2014年08月29日 10:36
覚ると、賞讃にも非難にも動じなくなる。これは本当のことである。しかしながら、その理由を説明することは難しい。そうなるからそうなる、というのが事実に則した率直な感想である。

ただし、思い当たることはある。それは、賞讃も非難も真実ならざる言葉であるということである。すなわち、賞讃の言葉は、それに賛同する人からは賞讃されるが賛同しない人からは避難される。また、非難の言葉も、それに賛同する人からは賞讃され賛同しない人からは避難される。これは、賞讃や非難の言葉が、一つの言葉でありながら同時に2つのことを主張していることに起因している。その一方で、真実の言葉はただ一つのことを語るのである。

さて、覚った人は真実の言葉のみを語る。それが覚った人の不断の振る舞いである。そして、このため、覚った人は真実ならざる言葉には動揺することが無くなると言うのが有りそうな理由である。つまり、真実を知る人は、虚偽によって動揺することがないということである。

なお、形態(rupa)の解脱が起こると識別作用が滅し、一切について──もちろん音声に対しても──動揺しなくなるが、これはこの経文の述べている範囲を超えているのでここでの説明は省略したい。

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