善人は 楽しみ求め しゃべらない 賢い人は 動揺しない(83)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


サッバッタ  ウェー    サップリサー  チャジャンティ
Sabbattha   ve      sappurisā     cajanti,
一切処に   実に    善人は      捨てる

ナ   カーマカーマー   ラパヤンティ  サントー
na    kāmakāmā      lapayanti     santo;
ない  欲から欲へ     語ら      (善人)静かな人は

スケーナ    プッター  アタ   ワー   ドゥケーナ
Sukhena     phuṭṭhā   atha   vā     dukhena,
楽によって   触れて   また  或いは  苦によって

ナ  ウッチャーワチャン  パンディター   ダッサヤンティ
na   uccāvacaṃ       paṇḍitā      dassayanti.
ない  高低を        賢者達は    見せ


○直訳
実に善人は一切所に捨てる
善人は欲から欲に語らない
また楽に触れて或は苦によって
賢者たちは高低を見せない


○一口メモ
この詩の意訳は次の通りです。
「善人は何事にも執着しない。
善人(静かな人)は楽しみを求めて語らない。
賢者は楽しい時も苦しい時も
動揺しない。」

一行目の善人(サップリサー)は4音節、二行目の善人(サントー)は2音節ですので、音韻の関係で同じ善人でも異なる言葉を使ったということもありますが、二行目の善人はおしゃべりしないので、静かな人なのです。ですから「静かな人」という意味にもとれるサントーという言葉を使ったのではないかと思います。ブッダの言葉の使い方の巧みな所が読み取れます。

この詩では善人(サップリサー)と善人(サントー)は賢者と同じ意味と理解してよいと思います。ですから、「執着しないこと」「楽しみを求めて語らないこと」「楽しい時も苦しい時も動揺しない」これらのことは賢者の特徴と考えてよいと思います。

「楽しい時も苦しい時も動揺しない」は81番の詩で「岩山の喩え」で解説しましたので、ここでは「楽しみを求めて語らない」について解説します。

多くの人々は、おしゃべりが好きです。おしゃべりが楽しみなのです。ですから「楽しみを求めて語らない」ことには抵抗がある人が多いと思います。楽しみのためにおしゃべりしてどこが悪いと思うでしょう。

口による悪行為は四つあります。
①妄語:嘘を言うこと。
②両舌:告げ口。
③悪口:粗悪な言葉。
④綺語:くだらない言葉。無駄話。

「楽しみのためのおしゃべり」は上の④にあたります。不必要なこことのおしゃべりだから禁止しているのです。「必要なことを語ること」を禁止しているわけではありません。

「楽しみ」も必要なことだという考え方もありますが、「楽しみのためのおしゃべり」をしているときの心の状態を調べてみる必要があります。「退屈だから、おしゃべりで紛らわす。」「寂しさを紛らわすためにおしゃべりをする。」など子供(最近は大人も)がゲームで遊ぶようなものなのです。これらは、時間の無駄であり、時間の無駄は命の無駄使いです。

無駄なものに意識を向け続けていると、意識に混乱をもたらします。理性的は判断ができなくなります。悪いことばかりで、善いことはありません。それは人生を不幸なものにするのです。ですから「楽しみを求めておしゃべりをするのはやめた方がよいのです。
実は、この詩における善人は何事にも執着しないとありますので、何かを話したいと言う気持ちもないのです。ですから、おしゃべりしたいけれど無駄話は善くないからやめるということではなく、話したいという気持ちがないのです。心が静かだから、言葉もないのです。


善人は 楽しみ求め しゃべらない 賢い人は 動揺しない


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200903/article_1.html
http://76263383.at.webry.info/201001/article_5.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


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この記事へのコメント

とも
2012年05月28日 05:21
先生 おはようございます
思い返してみると今まで出会った、素晴らしい立派な人はみんな共通して大人しく、穏やかに喋り、無駄なことは言わない方ばかりでした。
私は昔から口下手で、ずっと悩んでいたのですがそんなに悪いことではないのかな、と思いました。
まぁ必要な事すら喋れず人間関係が上手く築けないのですが・・・
上手く喋ろうとせずに何事にも執着しない善人を目指します。
皆様が 幸せでありますように
カエルくん
2012年05月28日 06:29
おはようございます。

無駄話を我慢したり、何事かに動揺しないふりはできても、内面は葛藤で嵐のようです。
内面から静かな人になる、というのが賢者なのですね。
あすか
2012年05月28日 08:12
おしゃべりもゲームも
その時楽しい気がしても満足ということがなく、
さらに刺激を必要とします。
そういう意味では麻薬のようで怖いですね。

刺激中毒の身にとって無駄の禁止は
最初かなりきついです。それでも
無理やりなんとか戒を守っていると
安らかさの良さがわかってきて
あまり苦しくなく守れるようになってきました。

そのうちおだやかな方を
無理なく自然に、みずから積極的に、
選べる日が来そうな予感。

少々のことでは動じなくなれたなら、
なんと幸せなことでしょう。
楽しみに毎日おけいこ続けています。
noritarou
2012年05月28日 09:58
私は生命なので感覚を持っていて、快を求めて、不快を避けようとします。
そこからの苦しみは甚大です。
いつでも、心地よいことをしたいと思い、快適なことを求めてしまいがちです。
瞑想に関しても、会話に関しても快を求めてしまいがちです。
私の場合は、誰かといると、どうしても素晴らしい仏教について話したくなってしまいます。
賢者はいつでも、快、不快、中立というとんじんちにも動じず、静かな心で目覚めつつ、対処しているのでしょう。
ただ、そのイメージさえ、快を求めたものなので私の邪見です。
今という瞬間を生きること以外は妄想なので、気にしないようにしています。
どんな楽も苦になる可能性があり、苦しいからこそ、その生滅を観察する、そして幸福になるという仏教のスタンスは、いつの時代でも最先端だと思います。
ワンギーサ先生は、記事の中で、必要なことを的確にお話しされます。余計なことはお話されません。心が静かなのですね。素晴らしいと思います。いつもありがとうございます。
SRKWブッダ
2014年08月02日 14:28
実に、善き人は一切世間を捨て去る。この静かな人は、欲にまかせて語らない。
楽しいことがあっても、あるいはまた苦痛を受けても、賢者たちは高揚したり落ち込んだりする色を見せない。

(愚者は何ごとかに一喜一憂しては顔色を変えるが、賢者は何があろうとも平静である。)

⇨ 語らいにおいて修行者にふさわしいことは、二つ。理法(ことわり)について語らうことと、聖なる沈黙である。

***
こころざし
2015年11月04日 07:26
私事ですが、先日(家族間でもめ事があり)安易に言葉に走るような姿勢を改め、必要な事のみを話す他は観察に努めてみました。そうしましたら、相手の表情や言動等がよく見え、心の状態を感じるような機会になり吃驚しました。
普段如何にしゃべる方にエネルギーが行っており・周りが見えていなかったと分かりました。
本文の「話したいという気持ちがないのです。心が静かだから、言葉もないのです」を拝見し、心のありようを思いました。
注意していないと安易に話す方に走りがちですので、戒めたいです。