仏教徒 法に反して 望まない 子供と財産 権力などを(84)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


ナ   アッタヘートゥ  ナ   パラッサ   ヘートゥ
Na   attahetu       na   parassa    hetu,
なく  自分のためで  なく  他人の   ためで

ナ  プッタミッチェー ナ   ダナン  ナ   ラッタン
na   puttamicche   na    dhanaṃ  na    raṭṭhaṃ;
ない 子供を欲し   ない  財産を  ない  国を

ナ  イッチェッヤ アダッメーナ  サミッディマッタノー  
Na   iccheyya   adhammena   samiddhimattano,
ない  欲し     法に反して    成功を  自分の

サ  シーラワー  パンニャワー  ダンミコー    スィヤー
sa   sīlavā     paññavā     dhammiko     siyā.
彼は 戒を守る   智慧のある   法に従う者で  あるだろう


○直訳
自分のためでなく、他人のためでなく
子供を欲しない、財産(を欲し)ない、国(を欲し)ない
法に反して欲しない、自分の成功(を欲し)ない
彼は戒を守る、智慧のある、法に従う者であるだろう

○意訳
賢者は自分のためにも、家族のためにも
子供も、財産も、権力も欲しいと思わない
道理に反して、自分が成功しようとは思わない
彼は戒と智慧と真理を備える者となるだろう

○一口メモ
このブログの中で、一番アクセス数が多い記事はこの84番の詩に関するものです。なぜなれば、従来のこの詩の日本語訳では仏教を誤解される恐れがあることを、2008年9月28日のこのブログで発言し、誤解のない訳を発表したからです。

その日の前日、ゴータミー精舎でスマナサーラ長老はこの詩の解説をされました。その眼目は、仏教は法(道理)に反する主張はしないということにありました。ですから、この詩において、「子を望んでではならぬ。財をも国をも望んではならぬ。」と主張することは道理に反する思考と取られます。この詩で述べていることは「法に反して、子供、財産、権力、自分の成功を望まない」ということでありました。

今回この詩をパーリ語で読み返してみると、「子供を望んではならぬ」とは書いてないのです。「子供を望まない」という賢者の気持ちが書いてあるのです。賢者は全てについて、執着がないのですから、子供、財産、権力なども望まないのです。別に無理しているわけではないのです。「自己の繁栄を願うてはならぬ」とは書いてありません。「法に反して、自分の成功を望まない」と書いてあるのです。しかし、この違いは重要で、「望んではならぬ」と書くと、仏教は反社会的主張をするように誤解されます。訂正しておかなければいけないと思います。


仏教徒 法に反して 望まない 子供と財産 権力などを


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200809/article_28.html
http://76263383.at.webry.info/200903/article_2.html
http://76263383.at.webry.info/201001/article_6.html

○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。



このブログ記事に共感された方は右上の仏教バナーをクリックして下さい。
記事内容の改善の参考にしたいと思っています。

この記事へのコメント

とも
2012年05月29日 05:01
先生 おはようございます
「法に反して」というところが大切ですね。
私は自分の成功を望む気持ちがあります。成功して自分も家族も幸せに暮らしたいと考えています。
しかし法に反することはしないぞ、と今日ブログを読んで強く思いました。
もしかしたら本当の成功は法に反しては得られないのかもしれませんね。

皆様が幸せでありますように。
カエルくん
2012年05月29日 06:13
おはようございます。

私は子供がいないので、この詩が救いになっていることは否めません。子供を欲しかったな、という想いに煩わされずにすむからです。
でも、いぜんどこかでスマナサーラ長老が「育児は人生の大学に入学するようなもの。大変勉強になる」というようなことをおっしゃっていたので、自分はその勉強のチャンスをもたなかったのだ、ということは忘れないでいようと思っています。

財産、権力を望まない(法に反して)、というのも、心が楽になる言葉です。
在家でいる以上、何も持たないわけにはいきませんが、必要なだけ、それも最小限あればよいのだと思えるからです。

それにしてもこの詩はインパクトがありますね。初めて読んだのは中村元先生の訳で、子供が欲しくて悩んでいた時期だったので、非常に戸惑ったのを覚えています。
あすか
2012年05月29日 07:41
言葉は難しいですね。
十分な情報がないまま
一部だけを見たりきいたりして
誤解が生まれ…。

お釈迦様が口をすっぱくして
言葉について注意されるのも
わかる気がします。

 * * *

ないものねだりをするのではなく
今ここで出来ることに集中して
有意義にすごします。
noritarou
2012年05月29日 10:55
独身の日本の僧侶は、どこか我慢しているが、テーラワーダの独身の僧侶は本当に明るい、と聞いたことがあります。
原始仏教の土壌がある土地では、余計なものに煩わされず、人格向上の道に専心出来る、それを共同体として大事に出来ていて、本当に理解されているのだと思います。
戒律を、自分が理解して守るのか、強制されて無理に守るのか、心に与える影響は大きいのでしょう。
子がいるものは子で悩み、財産があるものは財産で悩む、と言うように、子も財産もない方が良いとも、言葉の上ではとれます。
マニ教では、結婚を禁止していましたし、「生まれる」ということは苦の始まりなので、私はあまり賛成しません。
ただ、人間は生き物なので、生まれ成長し、数を増やすのが当たり前です。法に則った感情は快です。それを否定したら、危ないカルトです。
そして、実際に子育てをすると、無私であり、奉仕であり、その結果である成長の喜びは、何にもかえがたいとも思います。
お釈迦様はいつでも、普遍的な真理を語っているので、誰にでも成長できるように「法に反して欲しないように」書いたのですね。
生まれてきたからには、苦を乗り越えて幸福になる。
輪廻を脱することが自分の幸福ににもなるし、生きもの全体の幸福にも寄与する、そういう教えが仏教なのだと思っています。
こころざし
2015年11月05日 08:11
日本語の言葉から連想する自分の解釈ですと、容易にお釈迦様の意向と違ってしまう印象を感じる時があります。
正しく教えて下さる師におそわる事が出来る至福さを実感致します。
執着がなく子供・財産・権力等を望まない賢者の気持ちを思い、さらに「法に反して、自分の成功を望まない」生き方が出来るようになりたいです。