釈尊の 説かれた真理 守るなら 乗り越え渡たる 煩悩の河(86)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


イェー  チャ   コー   サンマダッカーテー
Ye     ca    kho    sammadakkhāte,
この   しかし  実に   正しく説かれた

ダンメー    ダンマーヌワッティノー
dhamme     dhammānuvattino;
法において  法に従順な人々は

テー      ジャナー  パーラメッサンティ
Te        janā     pāramessanti,
そのような  人々は   彼岸に行くであろう

マッチュデッヤン      スドゥッタラン
maccudheyyaṃ        suduttaraṃ.
死王の領域(を超えて)  極めて越えがたい


○直訳
しかし、実にこの正しく説かれた
法において、法に従順な人々は
そのような人々は極めて越えがたい
死王の領域を超えて彼岸に行くであろう

○意訳
しかし、ブッダに説かれた教えを
素直に実践するならば
越えがたい煩悩の大河を超えて
涅槃に達するだろう


○一口メモ
この86番の詩は昨日の85番の詩の続きです。不善の人と親しむことで、誤った考え方を聞き、その流れで、無明が現れ、人々は悩み苦しむことになる。そのため、煩悩の世界から涅槃に行く人は少ないと言うことでした。

しかし、ブッダの説かれた教えを、素直に実践すれば涅槃に到達できると今回の詩は述べているのです。昨日紹介した「無明経」(増支部10集61経)の後半に従って解説してみます。

1.善友に親しむならば、正法を聞くことができる。

2.正法を聞くことができれば、物事にたいする正しい理解ができる。

3.物事にたいする正しい理解ができれば、正しい考え方ができる。

4.正しい考え方ができれば、正しい心の状態を保ち、正しく知ることができる。

5.正しい心の状態を保ち、正しく知ることができれば、目、耳、鼻、舌、身、意において感覚をコントロールできる。

6.目、耳、鼻、舌、身、意において感覚をコントロールできれば、身体よる善行為や言葉による善行為や心による善行為ができる。

7.身体よる善行為や言葉による善行為や心による善行為ができれば、四念処(身体、感覚、心、心の要素を正しく保つこと)ができる。

8.四念処ができれば、七覚支(悟りの七つの要素:念、択法、精進、喜、軽安、定、捨)ができる。

9.七覚支ができれば、明智と解脱ができ、涅槃に到達する。

以上により、越えがたい煩悩の大河を超えて涅槃に到達するのです。四念処や七覚支などさらに説明を要する仏教用語もありますが、ブッダを代表とする善友と親しむことで修行が完成して涅槃にいたりますので、安心してブッダの説かれた教えを従順に実践してください。

「釈尊の 説かれた真理 守るなら 乗り越え渡たる 煩悩の河」


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200903/article_3.html
http://76263383.at.webry.info/201001/article_7.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


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この記事へのコメント

カエルくん
2012年05月31日 05:18
おはようございます。

昨日のnoritarou様のコメントについて、1日考えさせられました。
確かに在家でいると、無一文というわけにはいきませんし、悪行為をしてしまう機会も多いです。
私が悩むのは、在家でいながらいったいどれだけのものにたいする執着を捨てられるだろうか…、ということです。
食事の適量を知る、というのと似ていますね。生きていくために最低限のもの(人や環境を含めて)がどれくらいのものか、自分で見極めて実践していきなさい、ということでしょうか。

経典では在家で悟った方も出てくるそうですし、自分で限界を決めてしまわずに頑張ろうと思います。

noritarou 様のおかげで1日大事なことは何かということについて、考えることができました。ありがとうございます。

今日の解説の通り、お釈迦様の教えを安心して実践するのが大事なのだ、と思いました。
あすか
2012年05月31日 07:59
こうして善友と出会えた奇跡に感謝です。
正しい教えを正しく理解し実践していれば
少しずつでもいい方向に進む、少なくとも、
後退はしないと信じて努力します。

noritarou様、皆様、
考える機会をありがとうございます。

在家でできることは限られますが
在家ならではの、できることもあると
まずできるところからやっていきます。

経済活動も、必要な物を得るのと交換に、
きちんとした物を生産したり、
きちんとした仕事をしている方々を支えるため、
とよく考えて行います。

経済活動のみならず、食事の用意など
出家者の方々ではできないことを
お手伝いするなどの形で
まだまだ修行中の身であっても
何かお役に立てたら嬉しいです。

出家した方も在家の方も
生きとし生けるものが
しあわせでありますように。
noritarou
2012年05月31日 10:55
カエルくん様、
あすか様、
共に学ぶ機会を与えて頂きまして、ありがとうございます。

>執着を捨てること
>食事の適量を知る
>生きていくために最低限のもの(人や環境を含めて)がどれくらいのものか、自分で見極めて実践していくこと

仰るとおりです。法に則った、在家としての幸せの道があると思います。

>お釈迦様の教えを安心して実践するのが大事なのだ

私もそう思います。
安心して実践することで、幸福からさらに幸福に進む輝く道へと、お釈迦様は導いてくれていると思います。

>経済活動のみならず、食事の用意など
>出家者の方々ではできないことを
>お手伝いするなどの形で
>まだまだ修行中の身であっても
>何かお役に立てたら嬉しいです。

献身、奉仕の気持ちが素晴らしいです。
人は誰でも、身体を持って、言葉を持っている限りは、人との関わりの中に生きるようになると思います。
在家も出家も、お互いに支え合っているのだと思います。
善友に親しむことが出来て、正法を聞けることに心から感謝します。
とも
2012年05月31日 18:15
先生 こんにちは
今日の詩はどうコメントして良いか解らず、躊躇していました。たまたま喫茶店でスマナサーラ長老の本を読んでいて
「あなたはきょう、なにをやったのか?」という一文に出会いました。その言葉を忘れることなく毎日一生懸命生きていきます。 皆様が幸せでありますように
こころざし
2015年11月05日 08:29
私は幸いにして、正法を教えて下さる師とのご縁を頂戴出来ています。そのお陰様で日常の中で考え方等に困る機会は少ないです。
そして本文の「・・目、耳、鼻、舌、身、意において感覚をコントロールできる」が成就出来るように、冥想を行っていきたいと思います。そして善行為をして、四念処が出来るように目指したいです。