修行者は 優れた人と 交際し 愚かな人とは 親交するな(61)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


チャランチェー   ナーディガッチェッヤ
Carañce        nādhigaccheyya,
修行者がもし    見つけられないならば

セッヤン     サディサマッタノー
seyyaṃ      sadisamattano;
より優れた   等しい 自分と

エーカチャリヤン  ダルハン  カイラー
Ekacariyaṃ      daḷhaṃ    kayirā,
一人の行為を    堅固に   為すべき

ナッティ  バーレー   サハーヤター
natthi    bāle      sahāyatā.
するな   愚か者と   親交


○直訳
もし修行者が自分より優れた(あるいは)
等しい(人)を見つけられないならば
一人の行為を堅固に為すべき
愚か者とは親交するな


○一口メモ
この詩に納得いかない方がかなりいます。仏教は自分より優れた人とか、優れないとか言って、人を差別するのかというのです。私も本当はどう理解すべきか長い間考えていました。また以前この詩にたいするコメントに、自分の夫は自分より優れていると思わないがどう考えたらよいかという質問がありました。(文章はこの通りではありません。)この質問にお答えしましたが、少し歯切れが悪かったと思います。

しかし、ブッダはあいまいなことは言いません。この詩をよく読むと、この詩の始めは、「チャラン+チェー」と二つの言葉つながっていますが、始めの言葉は「チャラン」これは「行じつつある者」すなわち「修行者」という意味です。ですから、一般に「人間は」ということではなく、修行の場面ではと考えればよいのではないかと思います。それならば、瞑想修行では、よい指導者の指導を受けるべきであり、よい指導者がいなければ、一人で修行に励むべきだということであると思います。愚か者、正法を理解してない人の指導を受けるべきでないのは当然です。

この詩を拡大解釈して、日常生活のなかでの人間関係に適応する時は、注意する必要があります。簡単に自分より愚か者かどうかはいえません。しかし、明らかに日常的に道徳に反する行為をする人とはあまり親しく付き合わない方が無難です。


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200902/article_10.html
http://76263383.at.webry.info/200912/article_14.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。

この記事へのコメント

カエルくん
2012年05月06日 05:54
先生、皆様、おはようございます。

趣味を通じて親しくなった友人とは、趣味を手放すことで疎遠になりました。そのときは相手に不義理をしてしまったようでいろいろ考えましたが、これで良かったのだと思います。進む道が分かれてしまったのだと思います。

いまは善友を得るためにコツコツと努力をしているところ、という気がします。
以前はこの欄にコメントをするなんて思いもよらず、読むだけで精一杯だったのに、このひと月半にコメントを通じて先生にご指導いただいたり、皆様と交流する機会を得ることができました。
これを続けているうちに、いまは行かれずにいる講演会などに、また参加できる日があるのかな、と思っています。

こうしてコメントを寄せることで、先生や皆様と接することができるのはありがたいことだと思っております。
ありがとうございます。
あすか
2012年05月06日 08:13
たしかにお釈迦様は
慎重に言葉を選んでいますね。

日常生活の上ではいろいろな人と
関わらねばなりません。
無駄話をしないなどの戒に
注意して交流していくことでしょうか。

ただし寂しさや退屈を紛らわす為だけの
交流はつつしまねばなりません。
また直接の危害でなくとも影響によって
自分が不道徳に、という場合も
関係を断たなければ危険かもしれません。

自分が変わるにつれ、
付きあう人々が変わるのもまた
いたしかたない事なのでしょう。
変わりたくない、と抵抗はありますが
全ては変化するものと
受け入れねばなりませんね。

今はこうして居ながらにして
交流できて有難いです。
とはいえ限界もあろうというもの。
直接指導をうける日を楽しみにしています。
一方、瞑想指導など参加が難しいのも事実。
そのうちオンライン瞑想指導なども
あったらいいな、などと考えつつ
日々の修行に楽しく励んでおります。

善友の皆様、直接会えなくても、
もしここにアクセスできなくなったとしても、
同じ所を目指す者としてつながっています。
寂しさや退屈に負けず
共に歩んでまいりましょう。
迂山
2012年05月06日 08:38
(58)(59)の表示がおかしいと思うのですが、修正されるものと思って待っていましたが、その様子もないのでコメントいたしました。
ワンギーサ
2012年05月06日 18:43
迂山さん、こんばんは。
コメントありがとうございます。
御指摘の点はその通りですが、タイトルの表示には字数制限があります。そのため、58、59の要約短歌のすべてを表示できないのです。おかしいと思いますが。ご了承お願いします。
こころざし
2015年10月28日 07:56
本文の「明らかに日常的に道徳に反する行為をする人とはあまり親しく付き合わない方が無難です」を拝見して、日常の経験から本当にそうだなと実感致しました。と言いますのは、そういう人は先方から寄ってくるからです。恐らく色々な人に寄っていき→拒否されてそして新たな所に行くのではと感じます。
そのような人と時間を取っても利用されたり不快な思いをさせられたり→なにより悪業をためるような生き方に染まる結果になりかねないので怖いなと思います。
素晴らしい先生のもとで教えて頂いて、そして日常で智慧を持って実践し・生きて参りたいです。