愚か者 子や財産で 苦悩する 自分も自分の ものではないのに(62)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


プッター  マッティ     ダナンマッティ
Puttā    matthi      dhanammatthi,
子が    私の いる    財産 私の ある 

イティ   バーロー  ウィハンニャティ
iti     bālo      vihaññati;
と     愚か者は   悩まされる

アッター  ヒ   アッタノー   ナッティ
Attā    hi    attano     natthi,
自分   さえ  自分のもの   ない

クトー  プッター  クトー  ダナン
kuto    puttā    kuto    dhanaṃ.
どうして  子か  どうして   財産か


○直訳
私の子がいる、私の財産がある
と愚か者は悩まされる。
自分さえ自分のものでない
どうして子か、どうして財産か。


○一口メモ
この詩もかなり過激な詩ですね。

「私の子がいる。私の財産がある。」と、私たちは自分の子供のことで心配することは当然だと考えています。また、自分の財産についても同様です。
それなのに、「自分さえ自分のものではない」ということを根拠にして、「自分の子供や自分の財産は自分のものではないのだ。」と言われるのです。だから、「自分の子供や自分の財産について、悩むのは愚か者のすることだと言われるのです。

この詩を受け入れられない方のために、子供と財産に分けて説明します。

親が子供を心配するのは悪くないのです。親として子供を心配するのは当然ですが、自分の子供だから心配するのではなく、人間として、命ある一人として子供が病気や困ったときには心配して、世話して欲しいのです。子供だけ特別扱いするのであれば、それは自我の作用です。生命を差別することになるのではないでしょうか。差別は生命の平和と調和を支える生命ネットワークを否定することで自己破壊することになるのです。

自分の財産について悩むことは意味がないのです。諸行無常と言われる通り、財産も変化します。増えることもありますが、減ることもあります。ですから財産が減っても悩む必要がないのです。生命は生きていくために必要なものは揃(そろ)うというのは業の法則なのです。

生きていくために必要なものは、生命ネットワークが支えているのです。生きるために必要なものが欠乏すると、他の生命が供給するようになっています。あなたは本当に食べるものがない人が目の前にいれば、何か食べるものをあげるでしょう。本当に必要なものは揃うのです。増減する財産は必要以外の部分が増減しているだけです。ですから、心配する必要はないのです。

しかし、ブッダは上のような説明ではなく、「自分も自分のものでない」という超過激は言葉で説明されます。自分も自分のものでないのであれば、自分の子供も自分のものではない。自分の財産も自分のものでない。だから執着するなということになります。執着がなければ悩みはないのです。

自分も自分のものではないのでしょうか?
仏教では、自分を色(身体)、受(感覚)、想(表象)、行(感情)、識(認識)と分けて考えます。色は身体で、受想行識は心と言っているものです。自分はこれ以外にはないのです。魂はありません。それは妄想です。瞑想で調べて下さい。

身体は自分のものでしょうか?身体は始め両親からもらい、その後は食べ物からできたもので、かつ固定した身体はありません。いつも変わっていますから、これが自分の身体と言えるものはないのです。感覚は常に変化し、これが自分の感覚と言えるものはありません。表象、感情、認識についても同様です。自分をいろいろ調べても自分のものと言えるものはないのです。ですから、自分も自分のものではないと言うのです。

しかし、この理論はいろいろな仏典に繰り返し述べられていますが、なかなか納得できないものです。繰り返し学んだり、瞑想の体験などで実感できるものなのです。今すぐに納得できなくとも、ブッダに与えられた課題だと思って下さい。

これが分からない人を愚か者と言っています。真理が分からないと言うことですが、非難しているわけではないのです。この真理を理解することにより、執着がなくなります。執着がなくなれば、悩みがなくなります。悩み苦しみを乗り越えてもらいたいのです。


愚か者 子や財産で 苦悩する 自分も自分の ものではないのに


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200902/article_11.html
http://76263383.at.webry.info/200912/article_15.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。

この記事へのコメント

カエルくん
2012年05月07日 05:35
家族と仕事と友人。
私にとっては必要な財産です。
執着心もハンパではありません(^^;
依存してるのだから存在に感謝しなくては、と思い、せっせと尽くしています。

そんな私に鉄槌のように響くのが、お釈迦様の言葉です。自己でさえ自分のものでないのに、何が財産か、と。
執着心を薄めていくためにはどうしたらよいのか…。
視点を少し高みにおいて、自分自身を俯瞰してみると、はっとします。
家と職場と友人宅とをぐるぐるまわって生きてる私は、備え付けの車を一晩中回して走りながら一歩も前に進めずにいるハムスターと同じではないか…、と。
身の回りのものが大切なことには変わりありませんが、この気持ちをもっと広く大きく広げていくことが大切なのかな、と思いました。
noritarou
2012年05月07日 13:18
意識も、感覚として現れ、無常だと言われます。
一瞬間に、苦・楽・不苦楽というベールを被せて判断する主観の認識システムは、明らかに間違っています。
それなのに、感情・記憶などから生まれる感覚を、まるで実体であるかのように認識してしまいます。
そして不幸への道を歩んでしまいがちです。
あべこべです。
幸福につながる智慧の道を歩みたいです。
あすか
2012年05月07日 15:53
ブッダは決して「家族なんてどうでもいい」
とはおっしゃっていませんよね。
他の所で家族を大切にということを
言っておられます。
「私の」家族「だけ」が云々というのが
危険だということなのでしょうか。
大切にするのことは必要だが
愛欲で執着するのが良くない
ということでしょうか。

すべては借りている、
と考えるようにしています。
子供すら授かりものではなく
預かりものと考えています。

子育てをとおし、親もまた
学び成長させていただき、
一定期間が過ぎたら
社会にお返しします。

財産もしかり。お金にしろ物にしろ、
誰々さんが所有してるってことにしようね。
という約束に過ぎないのかもしれません。

体もしかり。死んだら大自然にお返しする。
それまでお手入れし丁寧には扱うけれど
変わりゆく、壊れゆくことに悩む必要はない。

そのように考えると心が軽くなります。
ブッダの愛ある(?!)「愚か者」
という言葉の意味を肝に銘じ、
洗っても、洗っても、またついてしまう心の汚れ。
今日も少しずつ落としていきます。
ぱん
2012年05月07日 22:34
たしかに、苦、無常、無我という教え、自分はいない、自分のものといえるものはないという教えは、何回読んでも納得できません。瞑想をしても、あまり実感できません。真理を理解して、執着をなくして、悩み苦しみを乗り越えたいと思います。
こころざし
2015年10月28日 12:57
私事ですが、年収○○○万円を経験するとそれを維持(又はそれ以上に)しないと・・と自らそれを守る義務みたいなハードルを作る自分がいました。大きめなの少しリッチな車を持ったら等同類のような状況は少なくないと思います。
そんな妄想に振り回されるのでなく、自分の身すら自分のものではないとの智慧を持って、愚か者を脱する事が出来るようにしたいです。