賢者から 何も学べぬ 愚か者 スープの味が 分からぬサジだ(64)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


ヤーワジーワンピ  チェー   バーロー
Yāvajīvampi      ce      bālo,
命ある限り      たとえ   愚者は

パンディタン  パイルパーサティ
paṇḍitaṃ    payirupāsati;
賢者に     仕え(ても)

ナ   ソー  ダンマン     ウィジャーナーティ
Na   so    dhammaṃ    vijānāti,
ない  彼は  法(真理)が   わから

ダッビー  スーパラサン     ヤター
dabbī     sūparasaṃ      yathā.
サジは   スープの味が    ように


○直訳
たとえ愚者が命ある限り
賢者に仕えても
彼は法(真理)が分からない
サジはスープの味が(分からない)ように


○一口メモ
愚か者とは辞書的には社会的常識に欠ける者を言います。世間では頭の悪い人を言うようです。また、頭の悪い人とは記憶力の弱い人、考える力の弱い人を言うようです。しかし、ブッダの使う愚か者の意味は、真理を知らない人、愚か者を自覚してない人の意味です。

(四行の詩、一つも覚えられないくらいに記憶力が弱いチューラパンタカの言う比丘が阿羅漢になったという例などがあります。ですから、記憶力は愚か者の条件にはならないのです。)

その前提を理解しておかないと、愚か者は頭が悪いから、賢者に教えてもらっても真理が分からないような意味に取りますが、そうではなくて自分が愚か者であると言う自覚のない者、無知の自覚がないから真理を理解できないのです。

何故ならば、自分が愚かであることの自覚がなければ、学ぼうとする意志がありません。賢者が教えても聞く耳を持たないのです。学ぼうという気持ちがないのですから、学べるはずはないのです。真理を学ぶためには、自分が無知であるという自覚がどうしても必要なのです。

それにしても、ブッダの「スープの味の分からぬサジ」という例えは厳しいですね。

「賢者から 何も学べぬ 愚か者 スープの味が 分からぬサジだ」


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200902/article_13.html
http://76263383.at.webry.info/200912/article_17.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。

この記事へのコメント

カエルくん
2012年05月09日 05:35
私は匙かもしれない、と思うと怖くなります。
でもすぐに、そんなふうに悩むのは愚かなことだと思います。

仏教の学びを通じて少しずつでも進歩していくこと。そのことに集中しようと思います。
ぱん
2012年05月09日 07:35
十年間仏教を学んでいるのに、あまり幸せではない私は、まさにスープの味がわからないサジなのだと思います。もしかしたら、一生、愚者のままで終わるかもしれません。

『観息正念』p73に「あの要因」、あの道具、すなわち、観息正念でその間、涅槃が生じるのである。つかの間の、まだ完全でも、長続きするものでもないが、涅槃の風味が、味見本として体験されるのだ。観息正念が尐しずつ、瞬間、瞬間、確かに生きている間に、涅槃を味見するように助けてくれるのである。それゆえ、死ぬ必要なし、なのである。」

とあります。十年の迷いの中、見つけたこの『観息正念』というテキストと、そして、ワンギーサ師のブログを通して、法がわかるようになりたいと思います。

釈尊祝祭日 ウェーサーカ祭 2012(仏歴2556)年5月12日(土)
http://www.j-theravada.net/wesak2012/
あすか
2012年05月09日 09:07
「愚か」=記憶力が悪い、
ではないとのこと、安心しました。

せっかくの教えやアドバイスがあっても
思い上がり、聞く耳もたず、では
何の進歩もありませんものね。

繰り返し「スープ」を口にしていれば
やがて味もよくわかるようになるかも。

その日を楽しみに毎日「味の違い」や
新たな発見を楽しんでいます。

ぱん
2012年05月09日 09:21
ワンギーサさん

質問があります。テーラワーだの出家は、五月にするもののように、私は思ってます。ヤサさんやワンギーサさんの出家の儀式が、ウェーサーカ祭のときだったからです。

【速報】ふたりの日本人比丘が誕生 - Theravada Online ゴータミー精舎日記
http://gotami.j-theravada.net/2004/05/post-7.html

もしも、この先出家をしたいと考えても、やはり、早くとも来年の五月になってしまうのでしょうか? 今年の五月に出家は、可能なのでしょうか? それとも、六月や、七月であっても、出家できるのでしょうか?

4月8日の記事
http://76263383.at.webry.info/201204/article_7.html

↑4月8日にコメント欄で質問して、預る果すら得ていないことに絶望をし、また最近いろいろと在家の限界を感じるので、ウェーサーカ祭が近いことを機会に質問をさせていただきました。
ワンギーサ
2012年05月09日 17:25
ぱんさんの次の質問にお答えします。

質問:「もしも、この先出家をしたいと考えても、やはり、早くとも来年の五月になってしまうのでしょうか? 今年の五月に出家は、可能なのでしょうか? それとも、六月や、七月であっても、出家できるのでしょうか?」

回答:出家の条件が調えば、いつでも出家できます。
この五月、六月、七月は条件が調わないと思いますから、多分無理でしょう。

ささ
2012年05月10日 09:54
記憶力が弱い事が愚か者とはならないとのこと。初めて伺いました。
そして心底安心しました。学び続けると、こうした新たな発見が得られる事が嬉しいです。
初めて匙の例えを聞いた時、あぁそうか!いつもスープに触れていても、匙には味が分からないのか!と、言われなければ考えもしない事に気付きハッとしました。おそらくすぐそこにあるのに気付いていない事がまだたくさんあるのかもしれません。
初期仏教に出逢う前、「人生は築くことではなく、気づくものです」という書にハッとさせられました。
手強い怠け心とたたかいながら、瞑想実践を少しずつでも重ねて、気づきを重ねていきたいです。
こころざし
2015年10月29日 07:51
スマナサーラ長老・ワンギーサ長老が教えて下さる事に何かしらのプラスな印象を感じても、他宗教など等その人の見解から色眼鏡を外して見る事が出来ず、その後時間が経過しても初めの状況と変わっていない・・に接した時の事を、本文の「賢者から学べない」を拝見して思い出しました。
固定概念等が強いほど、この偈のような意味になる方もいらっしゃるように思います。
素直に受け入れてそして真摯に実践して参りたいです。