賢者なら 黒い行為を 捨て去って 白い行為を 実践すべし(87)人里を 離れた所で 瞑想し 欲望捨て

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


カンハン  ダンマン    ウィッパハーヤ
Kaṇhaṃ   dhammaṃ   vippahāya,
黒い     法を      捨てて

スッカン  バーウェータ  パンディトー
sukkaṃ   bhāvetha     paṇḍito;
白い    修習せよ     賢者は

オーカー   アノーカマーガンマ
Okā      anokamāgamma,
家から    非家に 至って

ウィウェーケー   ヤッタ    ドゥーラマン
viveke        yattha    dūramaṃ.
離れた所で     所で    楽しみのない
(87)

タトゥラービラティミッチェッヤ
Tatrābhiratimiccheyya,
そこに喜びを 求めるがよい

ヒトゥワー  カーメー     アキンチャノー
hitvā     kāme       akiñcano;
捨て     諸々の欲を   何物もない

パリヨーダペッヤ   アッターナン
Pariyodapeyya     attānaṃ,
浄化するがよい    自分を

チッタクレーセーヒ    パンディトー
cittaklesehi        paṇḍito.
心の煩悩から離れて   賢者は
(88)


○直訳
賢者は黒い法を捨て
白い法を修習するがよい
家から非家に至って
楽しみのない離れた所で(87)

諸々の欲を捨て、何物もない
そこに喜びを求めるがよい
賢者は自分を浄化するがよい
心の煩悩から離れて(88)


○一口メモ
今回は、87番と88番を別にすると、意味が不完全になりますので、セットで説明します。
「黒い法」とは悪行為のこと、「白い法」とは善行為のことです。賢者は悪行為をしないで、善行為を実践するように。
「家」とは在家での生活あるいは世俗への執着という意味です。「非家」とは「出家して」という意味あるいは「世俗への執着を離れて」という意味です。
「楽しみのない離れた所」とは、「世俗的な楽しみのない人里離れた所」とい直接的な意味と「人との交わりを求めない、一人に満足する気持ち」でと言う意味があります。

そして、いろいろな欲望を捨てて、何物もない、何物もない状態に満足する。世間では、ないことに満足することは考えられないことです。あるいは考えたこともないでしょう。何かを欲しがってそれを得た時、満足することが当たり前であると思いますが、最近では、「断捨離」などと言う言葉もできて、捨てた時の満足、爽快さを味わった方もおられると思います。それをさらに徹底して、何物もない状態の満足と言うものがあるのです。

この詩では、賢者はそこに喜びを求めるがよいと述べているのです。そうすることで、心の煩悩から離れ、心を浄化できるのだと述べられているのです。

世間の生活にどっぷりつかっている間は、この詩は途方もないことをブッダは述べて、おられると思われるかもしれませんが、小さな欲やこだわりを捨てる経験をすると、それは大変なことではなく、満足できる、爽快な気分を味わえるものだと分かります。その経験の積み重ねから、この詩の意味を理解できるようになり、納得できるようになると思います。


「賢者なら 黒い行為を 捨て去って 白い行為を 実践すべし」

「人里を 離れた所で 瞑想し 欲望捨てて 喜び見出せ」


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200903/article_4.html
http://76263383.at.webry.info/201001/article_8.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


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この記事へのコメント

とも
2012年06月01日 05:02
おはようございます
以前に比べてかなり物や欲を捨てました。捨てれば捨てるほど生きるのが楽しくなっていくのを実感しています。
 でも、まだまだ捨てきれないのも一杯あり、これらを捨てることが出来たならもっと楽になるだろうな、と思います。

先生に質問があります。私は今、食べ物を捨てなければならない状況です。心苦しいです。
しかし、もったいないからといって無理に食べると量が多すぎて体調を悪くしてしまいます。なので生ゴミで捨てています。捨てるのも食べ過ぎも悪行為だと思います。
今のところ最善の方法は堆肥にするか外に蒔いておいて動物に食べてもらおうと考えています。
どうお思いになりますか?何かアドバイスいただけるとありがたいです。よろしくお願い致します。
カエルくん
2012年06月01日 06:21
おはようございます。

今日のような詩を読むと、やはり出家に憧れてしまいますね。
でもいまできることをコツコツと積み重ねていく、というのが大事だと思うので頑張ります。
夕べ、まとまった時間ができたので慈悲の瞑想を集中してやりました。そうしたら瞑想の言葉にあわせて心が明るい方向に変化していくのが感じれて、たのしかったです。
以前は夜一人になると、寂しくて誰かに電話をしたくなったのですが、一人の時間は瞑想の時間、と思うと寂しさも吹き飛びます。
一人の時間を大切にしていきたいです。
あすか
2012年06月01日 07:32
何かを得る満足はほんの一瞬で
さらにもっと欲しくなる。麻薬のよう。
増やしたい、守りたい、
そして、失う苦しみ。

対して、何かを手放した開放感は
なんとも気持ちのよいものです。
モノでは少しずつ実感できてますが
刺激となるとまだまだ。
退屈だな、となってしまいます。

心のおけいこのために
慈悲の瞑想、歩く瞑想に加えて
立つ瞑想、座る瞑想も加えてみました。
まだ今は5分でも長いです

>カエルくん
直接会ったり、声をきいたりできませんが
多くの善友が精進を続けているのでしょうね。
どこかで瞑想をしているかもしれませんね。
(私も参加!^^;)
そう思うと一人の時間も寂しさがやわらぎ
あたたかな気持ちになってきます。

>ともさん

難しくてわからないこともありますね。
今よく考えてわからなければ
そっと置いておくことにしています。
他の所を学んでいる時や、
本、講演など別の形で出会った時に
あ、こういう意味だったのかも
と気づくこともありますよ。
その日を楽しみにお互い
続けてまいりましょう。^^

+++

みなさまに、生きとし生けるものに
智慧があらわれますように。
ぱん
2012年06月01日 09:47
ワンギーサ師は「なぜ、出家したのですか」(『パティパダー』2004年8月号)というコラムに、

理由一。昨年から毎日、私はダンマパダ(法句経)を一句づつ意訳していました。その過程で分かったことは、お釈迦さまは出家を勧めておられていることです。お釈迦さまの勧めることを素直に実行しようとすれば、出家することになります。
「賢い人は・悪いことを行わず・良いことを行い・楽しみのない出家をして・何もない生活を楽しむよ(87)」
「よく観察している・賢い人は家を出る・白鳥が池を・立ち去るように・どんな家にも住まないよ(91)」(どんな家にも住まないとは、輪廻しない意味だそうですが、私は出家すると解釈しました。解脱を目指すことですから同じ意味です。)

と書かれています。今回の詩は師に出家という一大事を決意させた重要な要素の一つなのですね。
noritarou
2012年06月01日 10:53
ワンギーサ様、皆様、おはようございます。
今までも、今も、これからも、心が刺激を求め続けている、身体が苦を避け、快を求め続けている、そうした黒い世界で生きるのは在家も出家も同じだと思います。
心の作用は、心が静まった時に感じるものだと思いますが、その心が静まる状態を作るのが、在家だとさらに難しいと思います。
心はずっと静まっているのがいいという思考も、執着になると思います。
私たちは、人間関係、経済行為、仕事のための知識を得たりと、概念の世界で生きています。
そこから離れようとしますが、生活の中ですぐに引き戻されてしまいます。
これも、心がそう望んでいるからだと思います。
心も身体も、やってきては去るだけで何の意味もないと思います。
やっていることといえば、あらわれた現象についていき、新たな執着を作る。その繰り返しです。
なので、「捨てる、放っておく、気にしない、とらわれない」で、慈悲の心を成長させ、因縁論をもとに、呼吸とともに、学びたいと思います。
ワンギーサ
2012年06月01日 15:04
ともさんの次の質問のお答えします。
「もったいないからといって無理に食べると量が多すぎて体調を悪くしてしまいます。なので生ゴミで捨てています。捨てるのも食べ過ぎも悪行為だと思います。今のところ最善の方法は堆肥にするか外に蒔いておいて動物に食べてもらおうと考えています。どうお思いになりますか?」

回答:「捨てるのも食べ過ぎも悪行為だと思います。」とありますが、食べ過ぎは悪行為ですが、食べ物を捨てることは悪行為とはいえません。悪行為かどうか判断する時は、その行為が欲や怒りや無知からの行為かどうか判断すればよいのです。
食べ物を捨てる時、欲があるか?怒りがあるか?無知があるか?なければ捨ててもよいのです。
捨てたものを役立てようとすることは悪くないのですが、いつもできるとは限りません。
そこにこだわると捨てることができなくなります。捨てた方がよい時は捨てた方がよいのです。
とも
2012年06月01日 17:45
ワンギーサ先生 
ご回答ありがとうございました。少し気が楽になりました。よく考えたらなるべく捨てないですむ方法がありそうなのでじっくり考えてみます。
 朝、勢いで質問してしまって一日後悔していました。大切な時間を回答するのに浪費させてしまったようで。
時間泥棒ですね。
これからは、相手に話したりメールするときはよくよく考えて行うようにします。
ありがとうございました。
こころざし
2015年11月06日 12:46
以前心が不安定だった頃、一人が嫌で仲間が欲しくて・やや無理をして色々な集いに行った事があります。そうすると錯覚して安心するのですが、自分の心の未熟さは変わりません。
こちらで学ばせて頂いて、本文の「人との交わりを求めない、一人に満足する気持ち」の大切さを実感しています。人との関わりが多いと修行する時間の確保は難しくなりますし、なにより自身の心が満足し・爽快な気分になっている度合いが高くなっている印象を感じます。
機会を見つけて冥想合宿等も参加させて頂きながら修行を続けて参りたいです。