阿羅漢の 住む所みな 楽土だよ 村であろうが 森であろうが(98)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


ガーメー  ワー   ヤディ   ワー   ランニェー
Gāme    vā     yadi     vā     raññe,
村で    または  でも    または  森で

ニンネー  ワー   ヤディ   ワー   タレー
ninne     vā     yadi     vā     thale;
低所で   または  でも    または  高地で

ヤッタ   アラハントー   ウィハランティ
Yattha    arahanto     viharanti,
所      阿羅漢は     住む

タン   ブーミン ラーマネッヤカン
taṃ    bhūmiṃ rāmaṇeyyakaṃ.
その   土地    楽しい


○直訳
村でもまたは森でも
低地(谷)でもまたは高地(山)でも
阿羅漢の住む所
その土地は楽しい


○一口メモ
この詩は阿羅漢が住む所はどこでも楽しいと述べているのですが、誰が楽しいのでしょうか? 

この詩の因縁物語でそれは分かります。サーリプッタ長老の一番下の弟レーヴァタは、少年沙弥として出家して、僧院から遠く離れた棘のあるアカシヤ森に入り、修行に専念して、阿羅漢果を得ました。仏陀は阿羅漢になったレーヴァタ長老を訪問し、その帰路、熱心な女性信者であるヴィーサーカーの家にたちより、食事のお布施を受けられました。その時、ヴィーサーカーは「尊者様、レーヴァタ長老のおられる所は大変辺鄙な所ではありませんか?」とたずねました。それに対して仏陀は「村でも森でも、谷でも山でも、阿羅漢の住む所は楽しい。」と応えられたということです。

ということは、仏陀が楽しかったのですね。以前、私は阿羅漢の共にいる人が楽しいのだと思っていました。ですから、「子供のためのダンマパダ」として、この詩を次のように訳しました。

山でも野原でも
お寺でも学校でも
アラカンのおじさんがいると
楽しいよ

これも間違いではないと思います。しかし、悪人は阿羅漢と一緒にいても楽しくないかもしれません。心の清らかですなおな人々は、阿羅漢の波動から大きな影響を受けて、心が安らかになり、いろいろ学べるから楽しいはずです。

阿羅漢の波動とは、「阿羅漢の章」で学んできたことです。
90番、悩み苦しみのない人の波動
91番、執着を捨てた人の波動
92番、蓄えない人の波動
93番、食に頼らぬ人の波動
94番、感覚静まり、煩悩のない人の波動
95番、怒ることなく、願うことない人の波動
96番、穏やか静かな人の波動
97番、盲信しないで、欲を捨てた人の波動
このような人に共感できれば、心はきれいなっている善人ですが、そうでなければ少し心配です。


「阿羅漢の 住む所みな 楽土だよ 村であろうが 森であろうが」


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200903/article_14.html
http://76263383.at.webry.info/201001/article_17.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


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この記事へのコメント

カエルくん
2012年06月11日 05:53
おはようございます。

私も阿羅漢と共にいる人々が楽しいのだと思っていました。

私は、この世の中でどなたが阿羅漢なのかはわかりません。
でも修行をして落ち着きを持っている方を見ると、ハッとします。そして背筋が伸びる思いがします。
スマナサーラ長老を見てもそうなるし、ワンギーサ先生のお顔を見てもそうなります。(最近はちっとも講演会にも行けずにいますが…。)

ずーっと眺めていたくなりますが、それではいけない、というエピソードがあったなあ、と思います。
お釈迦様を見てると楽しいからといって、修行をしないでお釈迦様を眺めていたら叱られたというエピソードが…。
叱られたお坊様の気持ちが分かります(^-^;
でもそれではいけませんね。
自分がまわりに良い波動を与えられるようになりますように。
今日も精一杯頑張ります。
ぱん
2012年06月11日 06:22
ワンギーサ師「阿羅漢と一緒にいれば楽しい、という意味かと思っていた」
スマナサーラ長老「ブッダが言いたいのはそういうことじゃないんだからね」

ゴータミー精舎でのこの詩の説法で、このようなやり取りが合ったのを覚えています。
あすか
2012年06月11日 09:00
直接ブッダにはお会いできず
阿羅漢がどなたかわかりませんが
長老やワンギーサ先生のように
先を歩む方から受ける
落ち着いた感じは心地よいです。

善友の皆様が悩みながらも
努力なさっているのも
共に歩もうと励みになります。

対して欲、怒りなどでいっぱい
という人の近くにいるだけで
なんとも言えない気持ちになります。

欲や怒りは、周囲の人に
悪いモノをまき散らすだけでなく、
よく観察していると、自分の
ノドや皮膚の調子も悪くなったり、
傷が治りにくくなったりと、
心だけでなく体にも大きな
ダメージを与えているようです。

今日もまた、精神的にも
物理的にも汚れを落とし
少しずつキレイにしていきます。

月曜日ですね。皆様にとって、
生きとし生けるものにとって、
すばらしい週になりますように。
noritarou
2012年06月11日 09:36
「住む土地は楽しい」とは、阿羅漢がいることで、人間はもちろん、植物にも動物にも昆虫にも、土にも善い影響(波動)を与えるから、みんな楽しいのだなぁと思いました。
ワンギーサ先生の文章からも、とても静かで穏やかな感覚がつたわってきます。有難いです。

聖書で言われている、人間が動物を支配するとは、文字通りの支配(管理)ではなく、一切の生命を支え、心配するという、本来、阿羅漢が他の生命に対するような状態を意味しているのだろうなぁと思います。
kumetsu
2012年06月11日 13:29
ワンギーサ先生

今回の句について質問メールを差し上げたところ、早速ご返答を下さり誠にありがとうございました。私の質問は、この句のポイントとして下記の①、②および④の点を加えてもよろしいでしょうか、ということでした。先生から「同意見であり、ブログのコメント欄に載せてみたらどうでしょうか」とのご返事を頂きました。
そこで、下記の③(この点は、ワンギーサ先生にお送りしたメールには書き忘れていました。)をも加えて、次のとおり書き込みをさせて頂きます。

この句のポイントは次のような点にもあるのではないのでしょうか?
すなわち、
①凡夫は土地に愛着を持つが、阿羅漢は一切の愛着を断ち切っているので、いかなる土地に対しても愛着を持たない。阿羅漢は何ものにも依存せず、阿羅漢の幸福は何ものにも左右されない。阿羅漢はどこか特定の土地に住むことで楽を感じるのではない。苦因である全ての煩悩を滅尽しているので、どこに住んでいても楽を感じるのである。
②また、そのような阿羅漢が住むところは、最勝なる仏法僧という三宝が生き生きとしているところである。
③さらに言えば、阿羅漢は一切苦を滅尽して涅槃を体現されているお方(有余依涅槃)である。その意味では、そのような阿羅漢(いわば、苦を滅尽して現実に涅槃に達した生き証人)が住まわれるところは、文字通り、涅槃に最も近いところだとも言えるであろう。
④だからこそ、輪廻の苦を未だ脱していない全ての衆生にとっても、阿羅漢が住むところこそが他のどこよりも楽なるところであるはずである。
以上です。

貴ブログが益々盛況になりますように
生きとし生けるものが幸せでありますように
こころざし
2015年11月09日 07:48
阿羅漢がどのような場所にいても、心が清くて憂いがない様子を感じました。そのような方の近くにいれたらそれはそれは幸せだと思います。
私・凡夫ならではと思います余談ですが、トイレで用をたす時ウィッシュレットを探す自分がいて、あれば幸せと思うしないと・・になります。阿羅漢の境地とは程遠いと反省致します。
阿羅漢の波動の影響を素直に受け・成長出来るように精進したいです。