阿羅漢は 森や林を 楽しむよ 快を求めぬ 人々だから(99)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


ラマニーヤーニ   アランニャーニ
Ramaṇīyāni      araññāni,
楽しい        森は

ヤッタ   ナ     ラマティー  ジャノー
yattha   na     ramatī     jano;
所を    ない   楽しま    人々が

ヴィータラーガー    ラミッサンティ
Vītarāgā        ramissanti,
離貪の人々が     楽しむだろう
       
ナ    テー    カーマガウェースィノー
na    te      kāmagavesino.
ない  彼らは  快楽を求める者で


○直訳
森は楽しい
人々が楽しまない所を
離貪の人が楽しむだろう
彼らは快楽を求める人ではない(から)


○一口メモ
「阿羅漢の章」の最後の詩の解説をしましょう。
「森は楽しい」これは森に満足している阿羅漢の言葉ですね。今でこそ、快適に整備された森があって、その中で散歩をしたり、生活することも考えられますが、仏陀の時代や今もインドの森はジャングルで、猛獣や毒蛇、危険な動植物があり、普通の人間にはとても、「森は楽しい」とは言えるものではないのです。ですから、森は人々が楽しまない所なのです。しかし、離貪の人(貪欲から離れた阿羅漢)は、そこをも楽しく思うのだろうということです。その理由は、あそこが住みやすいとか、ここは快適な場所だなどと阿羅漢は快楽を願っているわけではないからです。

ここで幾つかの喜び楽しみに説明します。
世間の人々は、願いや希望がかなった時、喜びや楽しみを感じます。これは何かを得た時の喜び楽しみです。
しかし、何かを捨てた時の喜び楽しみもあるのです。これは大掃除をしたりして、いらない物を捨てたりしたときに感じる爽快感や満足感、喜びがあると思います。皆様も感じたことがあると思います。
さらに、欲そのもの(五欲)を捨てた時に感じる喜びや楽もあるのです。これはあまり多くの人は経験してないと思いますが、瞑想で禅定状態に入った人の喜びや楽です。しかし、これは欲が根本的になくなったわけではないので、瞑想を止めて日常生活に戻ると欲は再び現れますから、この喜び楽しみは消えます。
阿羅漢は、日常生活でも煩悩はありません。何事にも満足して楽しんでいるのです。しかし、私たちが想像する楽しみではないと思います。喜びはないと思います。喜びには多少興奮という部分があると思うからです。

以上が「阿羅漢の章」のまとめです。この章を始める時にも述べましたが、これで、仏教の基本的な説明は終わりました。あとはこの教えに従って、実践するのみです。

次の詩からは、仏教の応用問題です。瞑想などの実践をし、応用問題を解きながら、少しずつ智慧を開発していきましょう。


「阿羅漢は 森や林を 楽しむよ 快を求めぬ 人々だから」


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200903/article_15.html
http://76263383.at.webry.info/201001/article_18.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


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この記事へのコメント

カエルくん
2012年06月12日 05:53
おはようございます。

やはり阿羅漢の章は難しいです。(これからどんどん難しくなるのでしょうか(^^;)

昔山登りをしていたので、寝袋ひとつで野宿をしたこともあります。最低限の道具を持って自然の中にいるのは開放感があるのですが、いつでも軽く緊張をしていました。天候や外敵から身を守らなくては、と思うからです。
阿羅漢の方々はこの「身を守らなくては」という気持ちがないので、芯から開放されているということなのでしょう。

私は山登りをしておいて良かったな、と思うのは、生きるのに必要な道具はしょせんひとつのリュックに収まる程度の量でしかない、ということを覚えたことです。
お坊様方の持ち物はもっと少ないですね。
荷物は少ない方が歩くのが楽です。
物も煩悩も、どんどん捨てていこうと思います。
あすか
2012年06月12日 07:36
得る喜びはほんの一瞬、
非常に強い刺激を得ますがすぐに
「もっと!」と欲が拡大します。

対してモノを手放す喜びは持続し、
心もおだやかです。

禅定で欲を手放す経験はまだですが
得るに関してはモノでも心でも
似たような感覚なので、
手放す方もモノの時のように
穏やかな喜びなのかなと楽しみです。

また、不要なのに欲しい物を
すっぱりあきらめたり、
後悔、不安、恨みなどを
手放した時の爽快感も
大変気持ちのよいものです。

今は著作、Webなどで学び、
戒、慈悲の瞑想、サティをしています。
直接の瞑想指導を受けられるよう
努力・準備していますがまだです。
それでも朝晩静かに観察する時間を
作ろうと考えています。
意味があるでしょうか。
とも
2012年06月12日 08:37
おはようございます
「阿羅漢の章」おわりましたね。桁外れにすごい方々です。
私にはまだまだほど遠い境地ですが、阿羅漢の方々に共感し尊敬し目指そうと思えるだけ、ちょっとは成長したかな、と思っています。 あとは実践あるのみです。
ぱん
2012年06月12日 09:24
先生のおかげで阿羅漢の理解が深まりました。
ありがとうございました。

生きとし生けるものが幸せでありますように。
noritarou
2012年06月12日 09:56
阿羅漢のように慈悲に満ちていたら、他の動物から狙われないのかどうかはわかりませんが、阿羅漢には欲がないので恐怖はもちろんないということなのでしょう。
森林という危険な所でも楽しめる阿羅漢は、人間社会だけで生きるのではない、1つの生命としての在り方を教えてくれている気がします。
厳しい自然環境の中にいれば、自然と人間は「自ら確かめる」ことが出来るようになるのではないかと思います。
人間社会は、外敵がこないようにコントロールされていて安全に生きることが出来ます。森林などは危険で、生きるのに危うい混沌そのものだと思います。僭越ながら、私は、そうした混沌そのものこそ、人生かもしれないと思います。
人間社会には煩悩による戦いがありますが、自然にはそれがありません。そのように、煩悩を滅尽した阿羅漢の心は知り難いです。
「自然」と、「人間社会」の中間に「サンガ」があると聞きました。それはやはり人間にとって超越した道、中道なのだと思います。
人間社会にいる私は、今の状況を生かして、仏教を実践していきたいと思います。ありがとうございました。
ささ
2012年06月12日 18:43
学び続ける楽しみを今回の阿羅漢の章で味わうことができました。阿羅漢の境地は程遠いですが、今回学んだおかげで、以前知り得なかったことへの理解が深まりました。

ワンギーサ先生の、仏教の応用問題へのいざないに心惹かれました。少しずつでも智慧を開発していけるよう、これからもご指導よろしくお願い致します。
こころざし
2015年11月09日 07:54
森ですと布団は当然ないでしょうし、寝袋もないのではと想像致します。雨・風・寒さ等も容赦なく来ると思いますし凡夫の僕では装備を相当準備しないと1泊も困難と想像致します。
ですが煩悩を捨てた阿羅漢には、問題にならないと感じました。そのような意味で阿羅漢の境地に少しでも近づけるように精進したいです。