朝起きて 無益な詩歌 語るより 心静まる 一つの詩歌(102)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


ヨー  チャ  ガーター  サタン  バーセー
Yo    ca    gāthā     sataṃ   bhāse,
彼が  また  詩偈を    百    語る 

アナッタパダサンヒター
anatthapadasaṃhitā;
意味のない句を伴った

エカン  ダンマパダン    セッヨー
Ekaṃ   dhammapadaṃ    seyyo,
一つ   真理の句が     より優れている

ヤン   ストゥワー   ウパサンマティ
yaṃ    sutvā       upasammati.
それを  聞いて     静まる


○直訳
また彼が意味のない句を伴った
百の詩偈を語るより
それを聞いて静まる
一つの真理の句がより優れている


○一口メモ
今日の詩も、一昨日、昨日の詩とほぼ同様の詩です。その趣旨も同一です。異なるところと言えば、千の詩偈ではなく、百の詩偈となっていること、また、前の二者は「語る」とい言葉はありませんが、それがあるということです。これは、スマナサーラ長老のいうパブリック・スピーチ(公開の発言)をする人、公開の発言者への警告かもしれません。
すなわち、公開の発言者は、無意味な発言を多くして、人々を興奮させるのではなく、それを聞いて、心が静まり、穏やかになる一つの真理の言葉を語りなさいということです。

この詩の因縁物語はまさにドラマのような話ですが、簡単に触れておきましょう。
ある町の富豪に一人の娘がいました。その娘はある青年に一目惚れをしてしまいました。しかし、その青年は強盗を働き、死刑の判決を受けました。富豪は娘の願いに従って、青年を助け、娘と結婚させました。ある日、夫になった青年は妻を山の頂上に誘い、そこから妻を谷に突き落そうとしました。しかし、そこで妻ともみあいになり、逆に彼女は青年を谷に落としました。夫の本心を見た妻は、家には帰らずに、持っている宝石をすべて捨て、女性出家修行者のグループに加わり、千の言葉の修行に励み、学び終えると、インドの諸地方を回りました。

あるとき、彼女はサーリップタ長老に出会い、千の言葉について質問しました。長老はすべて答えました。今度は彼女に「一とは何ですか」と質問しました。しかし、彼女は答えることができませんでした。そこで彼女は長老に出家を願いました。出家を許されると、また修行に励みました。彼女は数日後に阿羅漢の境地を得ました。この速さに驚いた比丘たちは、ブッダにこれは本当のことか聞きました。ブッダは、「比丘たちよ、意味のない句を伴った百の詩偈を語るより、それを聞いて静まる一つの真理の句がより優れている。多い少ないが問題ではない。」と答えられました。

ちなみに、「一とは何か」という問いは、92番の詩の「一口メモ」で説明したものと同じものです。
その記事のアドレス:http://76263383.at.webry.info/201206/article_5.html

この因縁物語からいろいろなことが学べますが、ここでは知識と智慧について考えましょう。知識は多い方がよいのでしょうが、智慧は多い少ないを問えるものではないのです。智慧は知識では答えられない問題を答える能力です。知識は邪魔になる場合も多いのです。知識は固定概念を作るからです。問題解決には豊富な経験が必要だと言いますが、この場合の必要なものは豊富な知識ではなく、経験で培われた智慧なのです。ですから、情報をあさり、知識を増やすことよりは、智慧を開発すること目指すべきです。そのためには、観察力と集中力を養成することです。仏教用語で言えば、正念、正定です。


「朝起きて 無益な詩歌 語るより 心静まる 一つの詩歌」


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200903/article_16.html
http://76263383.at.webry.info/201001/article_19.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


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この記事へのコメント

カエルくん
2012年06月15日 06:21
おはようございます。

テーラワーダ仏教に出会う前は、活字中毒でした。そのおかげでスマナサーラ長老の本に出会えたのですが…。
不思議といまはそんなにガツガツと本を読みたいと思わなくなりました。
どんな本を読んでも、仏教の本を読んだ時ほど心が静まらないからです。

知識欲も「欲」のひとつなのですね。
いまは仏教を知りたいという「欲」があります。この「欲」と上手につきあいながら、精進しようと思います。
ぱん
2012年06月15日 08:53
エブリデイ・カチューシャという歌があります。アイドルグループが大騒ぎする歌です。心が乱れます。

かつては歌番組が好きでした。100位~1位までのランキングを毎週チェックしていました。今は、エブリデイ・ダンマパダです。仏法僧の教えを学び、心を静かにしたいです。
あすか
2012年06月15日 09:16
今はまわりの人に語るだけでなく
PCなどで世界中に瞬時に
情報発信できるようになりました。
よりいっそう注意を払わないと
まわりに迷惑どころではありません。

口で語る時だけでなく投稿する際も
勢いで不用意な発言をしないよう、
よく考え、さらに時間を置いて
よく見直すようにしています。
(それでも「あ~ぁ、やっちゃった」
も、まだまだありますが^^;)

知識も必要なだけにしないと
心乱れ、見や慢も増大します。
これからは知識を貪るのでなく
智慧の開発に力をいれます。
noritarou
2012年06月15日 10:00
>「食べ物」を求めるものでなく、嫌悪すべきものと理解する
私を含め、生き物が生きようとしている理由がわかりません。生まれたから生きているだけなのでしょう。
「食べ物」を認識したがっている、考えたがっている、そいういった欲はなくても、大丈夫なのでしょう。
こういったことを体験するには今生だけではとても足りないように思います。
ブッダの宿題に終わりはないように感じます。

>あすかさん
>「あ~ぁ、やっちゃった」
すごく共感できます。私もそうです。コメントしてから、余計なことを書いてしまった…と思います。
このコメントもそうなることでしょう^^
共に学べる場があることに感謝します。
いまこの場で、智慧の開発を皆さまと一緒にしていけることに感謝します。有難いです。
あすか
2012年06月15日 14:18
>カエルくん
欲はすぐにはなくならないけれど
いい方向に上手に使えば、と
スマナサーラ長老も仰ってますね。

>ぱんさん
エブリデイ・ダンマパダ、
思わず目が止まりました。
なんかいいです。^^

>noritarouさん
そのときそのときベストをつくす
しかできないですものね。
失敗にめげず(?!)
向上していきましょう。

***

だいたい、このくらいの時間から
サティが続かなくなるのですが
今日からはがんばります。

みなさんと歩んでいけることに感謝。
皆様が、生きとし生けるものが
今日もしあわせでありますように。
ぱん
2012年06月15日 23:14
あすかさん、コメントありがとうございます。毎日法を説き続けてくださるワンギーサ師の存在あってのアイデアでした。
こころざし
2015年11月10日 06:10
以前、知識が増えれば智慧のようなものが増えるのでは?との錯覚をしていて、テレビ等からの情報収集(?)に明け暮れていた時期がありました。ですが一時得てもどんどん忘れていき結局時間・労力を使いながら雲を掴むような結果との印象を感じます。
有意義な言葉から学ばせて頂いて、そして観察力と集中力をやしない、智慧をつけて心の成長を得られるように精進したいです。