戦場で 百万人に 勝つよりも 一人の己に 打ち勝ちがたい(103)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


ヨー  サハッサン  サハッセーナ
Yo    sahassaṃ    sahassena,
彼が  千に     千によって (千×千=百万)

サンガーメー  マーヌセー  ジネー
saṅgāme     mānuse    jine;
戦場で     人間達に   勝つとしても

エーカンチャ     ジェッヤマッターナン
Ekañca        jeyyamattānaṃ,
一人の しかし   勝つなら 自己に

サ   ウェー   サンガーマジュッタモー
sa    ve      saṅgāmajuttamo.
彼は  実に    最上の勝利者(である)


○直訳
彼が百万の人間達に
戦場において勝つとしても
しかし、一人の自己に勝つならば
彼は実に最上の勝利者(である)


○一口メモ
自分に勝つということは、自分が考えている以上に難しいことであり、しかも、それは非常に価値のあることだと述べているのです。ブッダが自分に勝つならば、最上の勝利者だと言われることは、修行の完成者であると述べていることになります。なぜでしょうか?

十二因縁について簡単に説明して、それと関連して、自分(自我)に勝つことの難しさと、自分に勝つことの必要について述べたいと思います。

十二因縁
1.無明:真理を知らないこと。
2.行:作り上げる状態。業。
3.識:生まれた時の心。対象をはっきり知ること。
4.名色:心と身体が生まれること。
5.六処:眼耳鼻舌身意。対象を受ける感覚器官。
6.触:対象との接触。
7.受:対象を感じること。ここで自我が生まれる。
8.渇愛:欲が現れる。喉が渇いたように対象に触れることを望む。
9.執着:自己(自我)にも対象にも囚われる。
10.有:生命の存在のエネルギー。
11.生:再び生まれること。
12.老死:老衰と身体の生滅。

これらの12項目はつながって回転しており、ここでは便宜上、番号をふりましたが、始めも終わりもありません。これらはすべて、原因結果の関係でつながっています。

この関係をどこかで、断ち切ることができれば、苦しみの連鎖を断ち切り、輪廻から脱出する、解脱する、涅槃に至ることになります。ですから、それができれば修行の完成者、最上の勝利者になるのです。

一昨日の101番の因縁物語で述べたブッダのバーヒヤへの説法「見た時は見たままにする。聞いた時は聞いたままにしなさい。」ということは、「受」を「受」のままにして、「渇愛」につなげないようにしなさいと言うことなのです。徹底した自己観察で、心の生滅を捉えていなければできません。

「触」から「受」が生じた時、妄想すれば、自我が生じます。すなわち、何かを見た時、私が見たと妄想すれば「私(自我)」が現れるのです。何かを聞いた時、私が聞いたと妄想すれば「私(自我)」が現れるのです。正しく観察すれば、すなわち妄想しなければ、「私(自我)」は現れないのです。(参考文献:中部経典第18蜜玉経)

仏教修行として、自分(自我)に打ち勝つとは、妄想しないで、ありのままに観察して、「私がいる」という妄想に打ち勝つこと、無我を悟ることなのです。そうであるならば、ブッダが「一人の自己に勝つならば、彼は実に最上の勝利者(である)」と言われることも分かると思います。


「戦場で 百万人に 勝つよりも 一人の己に 打ち勝ちがたい」


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200903/article_17.html
http://76263383.at.webry.info/201001/article_20.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


このブログ記事に共感された方は右上の仏教バナーをクリックして下さい。
記事内容の改善の参考にしたいと思っています。

この記事へのコメント

カエルくん
2012年06月16日 04:51
おはようございます。

十ニ因縁のうちひとつでもはっきり観察できれば、輪廻を乗り越えられる、ということでしょうか。
おそらく猛スピードで回転している十二因縁の連鎖を、見極めるのは相当な集中力が必要かと思います。
まさに自分との戦いですね。

仕事中、無駄な動きが多い気がします。
気が散っているせいだと思います。
落ち着いた動きができるようになるように。頑張ります。
ささ
2012年06月16日 07:22
一昨日のバーヒヤさんへのお釈迦さまのお話。意識してみて過ごし、今の自分なりに分かったことは、見たときは見たまま、聞いたときは聞いたままに全く止められていないんだ~という事でした。
きっとお釈迦さまが仰っている事の、例えれば何層も外側にきてようやく気づいている状態かと思いますが、それでもその気づいた段階で、あくまでたった何度かですが、余計な妄想に繋げないよう意識できた事は、自分にとっては収穫でした。

しかし、この何気なく過ごしている段階で渇愛に繋がっているということですね。途方もないことですが、今日のお話にあるように、今の段階での自分に少しずつでも勝てる瞬間を増やせるように、めげずに意識していきたいと思います。
ありがとうございました。
noritarou
2012年06月16日 08:31
私が自分に勝つチャレンジをするとしたら、到底私1人の力では出来ません。ブッダや、皆様の、すべてのサンガの慈しみの力をお借りします。私は、私以外の全てで作られているといいます。その意味からいけば、自分が自分に勝つことはあり得ませんが、無我に至るには、「形成されたもの」自分という自我、妄想概念に勝つ必要があるということだと思います。
幸福に至るブッダの教えに出会えたことに感謝いたします。
ブッダの教えに導いて下さるワンギーサ様、共に学ぶ皆様の存在に感謝いたします。有難いです。
ぱん
2012年06月16日 09:10
ワンギーサさん、

質問があります。

最近、寝ていて強烈な喜びを全身で感じて、そしてその尋常じゃない喜びが冷める頃、瞑想して、少し疑問に思ったことがあります。『ブッダの実践心理学』第二巻を読み理解した、これはヴィパッサナー瞑想でいうところの、色界禅の集中力を得たあと、無色界に行かず、観察をすることであるという方法論を私は正しく実践できているのでしょうか。いい線いっているのでしょうか。

今日の法話を読み、とにかく、妄想に流れず、観察することだと理解しました。私の感じた全身の喜びは、色界禅なのでしょうか。そして、とにかくそういう禅定があっても、念覚支に集中してゆくことで、『ブッダの実践心理学』第二巻のように、ものすごい落ち込み状態ではなくても、悟りは訪れるのでしょうか。それとも私が悟るのはまだまだ先になるのでしょうか?

マニュアルだけではわかりがたいので、ご助言をいただければ幸いです。

欲や怒りの本能は強力です。弱かったら人類は滅んでいたでしょう。よほどのショックがなければ、変わりません。ヴィパッサナー瞑想を、専門知識と専門技術と専門家の助言により研ぎ澄まして、輪廻から脱出できる瞬間が来るように励みます。
ワンギーサ
2012年06月16日 10:08
ぱんさんの質問にお答えします。

中部経典第8削減経(サッレーカ・スッタ)を読んで、毎日読んで実践してください。
これは、ブッダの尊者マハーチュンダに対する教戒です。
これを実践すれば、あなたも悟れるでしょう。
あすか
2012年06月16日 10:55
刺激を受け、欲や怒りが
生まれる前にストップするのは
まだまだ難しいです。それでも
気づいた段階で手放すように
努力しています。
少しずつですが気づくのが
早くなってきた気がします。
早い時のほうが手遅れの時より
手放すのが楽です。
渇愛が生まれる前に止められたら
もっと楽になるのでしょうね。

午後以降も職場でも
サティが続くようになってきました。
不機嫌な人の八当りも気にせず
仕事できるようにもなってきました。
さぼりたい気持ちや慢に気をつけ
今日も楽しくがんばります。
ぱん
2012年06月16日 20:23
ワンギーサさん、『削減経』を紹介してくださりありがとうございます。読んでみます。2、3年前、青年交流会の勉強会で学んだことがあります。日常読誦経典にある身近さ、その大切さに気づいていませんでした。日常読誦経典中、最も多くの戒律のリストが示され、出来れば避けてとおりたかったような経典で、二、三年前に読み、その後少し復習したりもいたしましたが、すっかり忘れていました。この経典が、私が悟りの扉を開く鍵となるのですか。四十四項目を満たすというのは、至難でしょうが、最後の難関と思って取り組みます。
こころざし
2015年11月11日 07:21
十二因縁を初めて教えて頂いた時、日常の色々複雑に感じる様々なことは実はこの法則ですべて説明出来ると感じて吃驚しました。
「触」から「受」が生じた時、妄想すれば、自我が生じる事、私のような凡夫でも冥想実践で容易に感じます。今朝も家庭内で2世帯同居の親の行動に・・になりましたが、触→受で止めてそれ以上妄想しないように努めました→心が曇る前で止めれました。
お釈迦様の教えを教えて下さる長老のガイドに沿ってより精進して参りたいです。