聖者への 礼拝質問 すぐれてる どんな供物や 儀礼儀式より(108)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


ヤン    キンチ    イッタン   ワ   フタン     ワ   ローケー
Yaṃ      kiñci     yiṭṭhaṃ    va    hutaṃ     va    loke,
所のもの  何であれ  祭られた  又は  供犠された  又は  世において

サンワッチャラン  ヤジェータ   プンニャペッコー
saṃvaccharaṃ    yajetha     puññapekkho;
一年間        祭るとして   功徳を望む者

サッバンピ     タン   ナ    チャトゥバーガメーティ
Sabbampi       taṃ   na    catubhāgameti,
すべてといえども  その  ない   四分の一に至ら

アビワーダナー   ウッジュガテース   セッヨー
abhivādanā      ujjugatesu       seyyo.
丁寧な挨拶が    正行の人への    より優る


○直訳
世において祭られた物、供養された物は何であれ
功徳を望む者が一年間祭るとしても
そのすべていえども(正行の人への礼拝の)四分の一にも至らない
正行の人への丁寧な挨拶がより優る。


○一口メモ
今回も、一昨日、昨日と同様の趣旨の詩です。
この詩に因縁物語も同様のものですが、今回はサーリプッタ長老が友人のバラモンに「あなたは何か善いことをしていますか?」という質問したのです。それを切っ掛けに、友人のバラモンをブッダに引き合わせます。ブッダの説法が今回の詩であります。

ここで、なぜ「正行の人への丁寧な挨拶がより優る」のか考えてみたいと思います。
「正行の人」とは、正直に行った人が辞書の意味で、人を悟りに導く人というのが注釈書の意味です。ですから、正行の人は悟られた聖者であると思います。

なぜ、聖者に丁寧な挨拶が優れているのでしょうか?
ここでの「丁寧な挨拶」は、パーリ語では「アビワーダナ」ですが、辞書には「丁寧な挨拶、敬礼、問訊」とあります。「アビワーダナ」は「アビ+ワーダナ」で「アビ」は接頭語で「対して、向かって、勝れて、過ぎて」などの意味があります。「ワーダナ」は議論などの意味があるのです。
「アビワーダナ」は丁寧な挨拶という意味もあると思いますが、聖者に質問するということもあると思います。悟った人に、如何に生きるか、如何に修行するかを質問することが優れているのではないでしょうか。


「聖者への 礼拝質問 すぐれてる どんな供物や 儀礼儀式より」


*余談ですが、本日2012年6月21日はこのブログを始めたのが2008年6月21日ですから、途中お休みがありましたが、4年になります。
始めの記事のアドレスはhttp://76263383.at.webry.info/200806/article_1.html 


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200903/article_18.html
http://76263383.at.webry.info/201001/article_23.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


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この記事へのコメント

とも
2012年06月21日 06:00
昨日、仕事のちょっとしたストレスから暴飲暴食してしまい性欲に負けて、そういう店に行ってしまいました。とても情けないです。馬鹿です。ずっと後悔していましたが、後悔はダメな事なので今から気持ちを切り替えて同じ失敗を繰り返さぬように頑張ります。
カエルくん
2012年06月21日 06:14
おはようございます。

質問するのが苦手です。
こんなこと聞いてもいいのかな、と迷うからです。
その代わり、これを聞いたら、先生ならなんておっしゃるだろうと想像します。
そうすると、たいていの問題は解決してしまいます。

時々、このコメント欄で他の方が先生に質問されているのを読むと、大変勉強になります。
私も、勇気をだして質問ができるようになりたいです。
ぱん
2012年06月21日 07:36
ワンギーサさん、質問です。

中断中に留学なさっていたスリランカの寺に行く前に、英語や英会話などの準備はなさったのでしょうか。また、一冊くらい文庫サイズのトラベル英会話のようなものを持参なさったりはしたのでしょうか。インタビューでは、仏教用語が英語で登場したりして、たとえば、道元さんが「心塵脱落」を「身心脱落」と聞き間違えるような、そういう誤解が生じたりもしたんでしょうか。
とも
2012年06月21日 07:39
ワンギーサ先生へ どうか一喝入れて下さい
 後悔はダメな事とスマナサーラ長老のお話で何度も聞いてはいるのですが、どうしても昨日の行為を悔やみ続けてしまいます。今現在も心がどんよりした暗い感じが抜けません。後悔してはダメと思えば思うほど、後悔の気持ちが強くなっていきます。どうすればパッと明るい気持ちになれるでしょうか?どうかよろしくおねがいたします。
あすか
2012年06月21日 07:54
ブログ4年になるのですね。
必死の思いでここに辿り着いた頃を思うと
感慨深いものがあります。
貴重な機会をありがとうございます。

アビワーダナー、
日本語で言う挨拶の意味より広く、
質問したりすることも含むとなると
ますますなるほどと納得できます

>カエルくん
質問せずに解決できる。なんとすばらしい!
自分で考える、すごく良い訓練になるのでは。
私も見習い、先生に頼り切るのでなく、
まず自分で調べ考えてみます。

>さささん、発送ボランティアのみなさん、
おつかれさまです。みなさまはじめ
たくさんの方々のおかげで
パティバダーが手元に。
様子を思い浮かべて感謝しております。

今日も生きとし生けるものが
幸せでありますように。
kumetsu
2012年06月21日 08:07
ワンギーサ先生

いつもご指導下さりありがとうございます。
Abhivadanaには丁寧な挨拶ということだけでなく、「聖者に質問する」との意味もあるとのご指摘は素晴らしいと思いました。
「聖者に丁寧な挨拶をする」ということは、すなわち聖者に対して心の底から敬意を表することであり、そのためには、その聖者の本当の素晴らしさを正しく理解する智慧がなければできないことでしょう。このように智慧に裏付けられた仏法僧に対する「信」がなければできないことなので、「聖者に対する丁寧な挨拶」はより優るのだと理解していました。
しかしそれだけではなく、「聖者に質問する」ことは、仏弟子たるサーヴァカ(声聞・聴く者)が積極的にダンマを聴くことであって、智慧の道・涅槃への聖道に通じる入口ではないでしょうか。解脱への道はここから始まる、とすれば確かに優れています。ありがとうございました。
貴ブログを通じて皆様に益々智慧の光が降り注ぎますように
ワンギーサ
2012年06月21日 11:27
ともさん、おはようございます。
後悔してどうしようとしているのですか。
自分の行った行為はすべて自分が責任を取らなければいけませ。というよりは、責任を取らされるようになっています。
ちょうど、私が4年前の今日のこのブログの記事があなたの心を励ますでしょう。それは999人の人を殺したアングリマーラに関するものです。それを読んで、善行為をして、罪を償って下さい。アングリマーラは後に阿羅漢になりました。
ワンギーサ
2012年06月21日 11:43
ぱんさん、おはようございます。
英語の勉強は特別にはしませんでした。
持って行ったのは、電子辞書です。これは私には非常に役に立ちました。
外国で修行をしたいのならば、日常的に英語の仏教書をよむことです。
その時、参考になる仏教辞書を紹介します。
Buddhist Dictionary
Manual of Buddhist Terms and Doctrines
著者:Nyanatiloka
Buddhist publication society Inc.
とも
2012年06月21日 14:05
ワンギーサ先生
アングリマーラの話、読ませていただきました。
気持ちが明るくなりました。
もう、こうなったら善い行いをたくさんするしか道は無いですね。
明日から、ではなくて、今ここから始めます。
noritarou
2012年06月21日 19:23
謙虚に、全存在を懸けて質問そのものになって正行の人に問いかける事が出来れば、真理は向こうからやってくるように感じます。
ワンギーサ先生に質問があります。
一切は無常・苦・無我だと言われます。ただ、その無我を感じている静かな意識のようなものは、一体何なのでしょうか?玉ねぎの皮をむき続けるように、鏡に鏡を合わせると無限にも続くように、無我を感じつつある意識のようなものは、一体なんなのでしょうか?
ぱん
2012年06月21日 19:49
貴重な情報ありがとうございます。参考にいたします。
ワンギーサ
2012年06月21日 20:41
noritarouさん、こんばんは。

質問:無我を感じている静かな意識のようなものは、一体何なのでしょうか?

回答ではなくコメント:それは固定したものではなく、いろいろ形で感じられると思います。それを何度も観察し、感じて下さい。おのずと解ってくると思います。


noritarou
2012年06月22日 01:04
夜分にコメント失礼します。
ワンギーサ先生、とても参考になります。ご回答、コメント、ありがとうございます。ご回答から、そっと手を差し伸べて頂いてるような、ワンギーサ先生のやさしさを感じます。
固定はしていないけど、いろいろな形で感じられるのですね。僭越ですが、世の現象の数だけ感じられるかもしれませんね(^_^)
それを何度も観察し、感じるようにします。それを感じているのは、一体、誰なのでしょうか?自ら確かめよ、ですね。
ありがとうございました。
こころざし
2015年11月12日 06:33
ワンギーサ長老がこのブログ始めて下さりこの記事の日まで4年、そして今も続けて法を教えて下さっている厚意を心より感謝致します。
ワンギーサ長老より教えて頂いた事が、確実に自分の心の成長に繋がっていると実感しています。頭が下がります。
今後も真摯に学ばせて頂きながら、それが智慧になり生き方にしっかり繋がるように精進したいです。
今後もご指導をどうぞ宜しくお願い申し上げます。