飛ぶ鳥の 足跡わからぬ そのように 蓄えぬ人の 心解らぬ(92)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


イェーサン  サンニチャヨー  ナッティ
Yesaṃ     sannicayo     natthi,
彼らの     貯えることは   ない
    
イェー    パリンニャータボージャナー
ye       pariññātabhojanā;
彼らは   食物をよく知る者

スンニャトー  アニミットー  チャ
Suññato     animitto    ca,
空        無相      と

ヴィモッコー  イェーサン  ゴーチャロー
vimokkho    yesaṃ     gocaro;
解脱      彼らの    境地は

アーカーセー  ワ    サクンターナン
Ākāse      va     sakuntānaṃ,
空の      ように   鳥の

ガティ  テーサン  ドゥランナヤー
gati    tesaṃ    durannayā.
行方   彼らの   知り難い


○直訳
彼には蓄えることはなく
彼らは食べ物をよく知るものである
空と無想、解脱は彼らの境地
空の鳥のように
彼らの行方は知り難い


○一口メモ
この詩も阿羅漢とはどのような存在なのか述べたものです。
「彼には蓄えることはなく」の「彼」は阿羅漢のことです。「阿羅漢は何物も蓄えない」、なぜ阿羅漢は蓄えないのでしょうか? 蓄えるということは、生きるために蓄えるのです。人々は生きるために必要だと、妄想して不必要なものまで蓄えます。阿羅漢は自殺しようとは思いませんが、どうしても生きたいという欲求もないのです。そのために、生きるために何かを貯めようと思わないのです。

「彼らは食べ物をよく知るものである」、この場合は、世間の人々が食べ物についてよく知るとは意味が違います。世間の人々が考えることは、この食べ物はおいしいとか、栄養があって、健康によいとかをよく知っているということだと思います。

しかし、仏教では「食べ物」について、深い意味、生命についての本質的な理解をしているのです。「一とは何か?」と言う有名な質問があります。お釈迦様が少年沙弥(子供のお坊さん)にした質問です。その沙弥の答えは「一とは栄養(食)です。食で生命は成り立つ。」というものでした。ですから、スマナサーラ長老はこの詩の解説をされた時、この詩の意味を誤解されないように、「彼らは食べ物をよく知るものである」の訳を「彼らは生きることをよく知る」と訳されました。(このことについては、前回のこのブログの記事に書いてあります。)

ここでは詳しく説明しませんが、仏教では「食」は口から食べる「段食」と、接触による食「蝕食」、思考による「思食」、意識による「識食」に分類しています。つまり、生きるために必要なエネルギーを「食」というのです。それらは物質としての食べ物以外にも、あることを理解しているのです。心に必要なエネルギーも食と考えているのです。

ここで、「彼らは食べ物をよく知るものである」の意味は、以上を踏まえて、①食べ物についての性質を正しく知って、②それらは求めるものでなく、嫌悪すべきものと理解して、③食事によって五官に生じる煩悩や執着を断つことだそうです。この場合の食べ物も物質以外のエネルギーも含んでいるのです。しかし、阿羅漢であれば、①②③は智慧によるものであり、自然のことであり、無理に行っているのではないと思います。

「食」の説明が長くなりましたので、「空と無想、解脱は彼らの境地」及び「空の鳥のように、彼らの行方は知り難い」については、明日の詩にも同じ句がありますから、明日説明致します。


「飛ぶ鳥の 足跡わからぬ そのように 蓄えぬ人の 心解らぬ」


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200903/article_8.html
http://76263383.at.webry.info/201001/article_12.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


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この記事へのコメント

ぱん
2012年06月05日 07:26
食事中は食欲の虜になっていて、観察どころではありません。阿羅漢になれば自然に食事時に生じる執着がなくなってくると記事にあることで、思い出したのが、2年前に合宿に参加したとき、朝食を、わたしも含めて在家は、コーヒーを飲んだり、またお茶だったりとする中で、スマナサーラ長老は水を飲んでいたことに驚きました。
カエルくん
2012年06月05日 07:34
おはようございます。

ストレスがたまると、甘いものが食べたくなります。
喫茶店で心地いいBGMを聞くと、気分がよくなります。
美しい新緑の景色を見ると、うっとりしてしまいます。
どれも五感を刺激して「食事」していたのだなあ、と思いました。

こういったものに執着している限り、悟れない、ということですね。
だんだんに、頑張ろうと思います。
あすか
2012年06月05日 08:08
ボージャナーが食物よりも
広い意味なのですね。なるほど。
ありがとうございます。

食にせよ他の刺激にせよ
たしかに心を波立たせます。
触れない環境が理想ですが
食事など五感を大いに刺激するのに
生きるためには排除できません。
そういう意味では求める物というより
扱いに困るもの、というところまでは
日々実感しています。

食などで生じる煩悩や執着から
離れられたら大変安らかだろう、
ぐらいまでなら想像できます。
阿羅漢までは遠くとも
全ては変化するという事実を
受けいれたら食や物に対しても
少しは安らかになれるでしょうか。

今日も少しでも安らかにすごせるよう
精進致します。
皆様が、生きとし生けるものが
今日も幸せでありますように。
noritarou
2012年06月05日 09:49
>空飛ぶ鳥のあしあとが知りがたいように
私の大好きな詩です。鳥は飛んでいるのに、足跡のことを言っているとか、人間にわかりやすいように、無常や空をこれほど的確に表している言葉を、私は他に知りません。

>五官に生じる煩悩や執着を断つこと
断つというと、強制的な、厳しいことのように感じてしまいますが、
>いまの瞬間については不満を感じない
と、自ずから気付くことで、最高の喜びにつながる行為、人間であって人間ではない「佛」の状態だと思っています。
仏教は、生命とは何か、人間とは何か、どうすればよいか、を教えてくれます。有難いです。
こころざし
2015年11月07日 13:06
本文の「①食べ物についての性質を正しく知って②それらは求めるものでなく、嫌悪すべきものと理解・・③食事によって五官に生じる煩悩や執着を断つ・・」を拝見し、今の自分の食事の状況を思いました。
御馳走だと容易に喜んだり、美味しい物を食べようとする自分がいます。①~③を心で思えるように、冥想をして参りたいです。