地のように 怒ることない 阿羅漢は 願うことなく 輪廻はしない(95)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


パタウィサモー   ノー    ウィルッジャティ
Pathavisamo     no     virujjhati,
地に等しい者は   ない   怒ら

インダキールーパモー  ターディ   スッバトー
indakhīlūpamo       tādi      subbato;
門柱のような       そのよう   善行者は

ラハドーワ   アペータカッダモー
Rahadova    apetakaddamo,
池の ような  離れた者 泥から

サンサーラー  ナ  バワンティ   ターディノー 
saṃsārā      na   bhavanti     tādino.
輪廻は      ない  存在し    そのような者には


○直訳
地に等しい者は怒らない
門柱のような善行者はそのようである
泥から離れた池のような者
そのような者には輪廻は存在しない


○一口メモ
この詩の意味は次の通りです。「地は、花を植えられても喜ばなし、ゴミや糞尿を捨てられても怒らない。門柱は飾りで飾られても喜ばなし、車にぶつけられても怒らない。地や門柱のような人は怒らない。また、細かい泥が沈んで、水が清らかになった池のように、煩悩がなくなって、心が清らかな阿羅漢は、何も願うことはなく、もちろん再生を望む心の要素が何もないため、生まれ変わりません。すなわち、輪廻はしないということです。」

「地に等しい者は怒らない」をさらによく理解のために、「中部経典第62大ラーフラ教誡経」(大蔵出版 パーリ仏典第Ⅰ期3 p212-213)から、次の釈尊の言葉を引用します。ちなみに、ラーフラとは釈尊の息子です。

「ラーフラよ、地のように修習しなさい。なぜならば、ラーフラよ、地のように修習するそなたには、生じている好・不好の接触が心を捉えてとどまることはないであろうからです。たとえば、ラーフラよ、地に清浄なものを投棄しても、不浄なものを投棄しても、糞そのものを投棄しても、尿そのものを投棄しても、唾そのものを投棄しても、膿そのものを投棄しても、血そのものを投棄しても、地はそれによって憂えたり、恥じたり、嫌悪したりすることはありません。ちょうどそのように、ラーフラよ、そなたも地のように修習しなさい。なぜならば、ラーフラよ、地のように修習するそなたには、生じている好・不好の接触の心を捉えてとどまることはないであろうからです。」

ブッダの詩には多くの例えが使われていますが、その例えを頭で理解するだけでなく、心に深く刻んで学ぶことは大切なことです。この詩では阿羅漢を「地」「門柱」「水の清らかな池」に例えて、阿羅漢の特質を示しているのです。

「地のように 怒ることない 阿羅漢は 願うことなく 輪廻はしない」


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200903/article_11.html
http://76263383.at.webry.info/201001/article_14.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


このブログ記事に共感された方は右上の仏教バナーをクリックして下さい。
記事内容の改善の参考にしたいと思っています。


この記事へのコメント

カエルくん
2012年06月08日 06:41
おはようございます。

地のように、怒らずに、好、不好の接触があってもとらわれずに、などと聞くと、今の自分の境地との違いに気が遠くなります(^-^;
でもめげている場合ではありませんね。

怒りっぽいわたしですが、どんなときに怒ってしまうか考えました。
何かに驚くと、怒ってしまうことが多いきがします。
そんなことは無理とおもうことを頼まれたり、思ってもみなかったことを言われたりしたときなどです。
まさに不好の接触に心がとらわれてしまうのですね。
怒るのは自己防衛の気持ちからで、自分が臆病だからです。
とっさの時に怒りがでないように、気付きを保ちたいと思います。
とも
2012年06月08日 09:16
おはようございます

今日朝、自慢話を延々と聞かされてイライラしてしまいました。そのあとでこの詩をよんで、自分は地のようにはまだまだ成れていないな、と痛感しました。
地のような人は、格好いいと思います。
ちょっとずつ近づいていこうと思います。
noritarou
2012年06月08日 10:28
ワンギーサ先生の詳しい説明があるので、よくわかりました。ありがとうございます。
大地のようにとは、地母神を敬うかのようにも思えました。土地はすべて受け入れてくれます。すべて土から生まれ土に戻ります。
不浄の身体から出る汚濁を受け入れる大地のように、血が出る時、排泄するとき、その時生じる心の働き、身体と心はそのようなものだと知って、修習したいものです。
門柱のようにとは、眼耳鼻舌身意の六門を思い起こしました。六門も、ただ存在しているだけで、そこに生じている好・不好の接触の心を捉えてしまうのは、修習していない愚者だからですね。
相手がいると、その痛みから、相手に対して怒ってしまうことがあります。痛みは「私」という妄想を増長させる強いきっかけになります。「相手」も「私」も「痛み」も作られたものですね。瞬時に変わる心を見つめていたいと思います。
あすか
2012年06月08日 11:13
刺激を受けない環境に、と言っても
生きている以上、不可能です。
となれば、刺激を受けても
動じないことが大切ですね。

まだまだ快不快も生じれば
欲、怒り、慢も生じます。
それらを育て増やすことなく
ただ見つめ流していく。

訓練を重ねれば、やがて
刺激をうけてもそれほど
激しい波が起こらなくなるかも。
そんな穏やかな日が楽しみです。

+++

ワンギーサ先生、
学びの場所をありがとうございます。
質問にもすぐ答えていただき
ありがとうございます。

先生のご好意に甘えすぎないよう
解決できること、すべきことは
できるだけ自分で努力してみます。

どうしてもというときは、また
相談、質問させていただくかも。
どうぞ見守っていてください。^^
こころざし
2015年11月08日 11:11
本文を拝見し、生き物である阿羅漢が物体である門柱の例えになっているのを興味深く感じました。そのように感覚から護り、煩悩を持たない大切さを教えて下さっていると感じます。それが出来る様に冥想を精進して参りたいです。