空中も 海水中も 山中も 死なない場所は どこにもないよ(128)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


ナ   アンタリッケー  ナ   サムッダマッジェー
Na    antalikkhe     na    samuddamajjhe,
ない  空中に      ない  大海の 中に

ナ   パッバターナン  ワイワラン   パウィッサ
na   pabbatānaṃ     vivaraṃ     pavissa;
ない  山の       洞窟に     入っても

ナ   ウィッジャティ ソー       ジャガティッパデーソー
Na   vijjati      so          jagatippadeso,
ない 見出さ     その(場所)は   大地のどの地方

ヤッタッティタン    ナッパサヘッヤ   マッチュ
yatthaṭṭhitaṃ    nappasaheyya    maccu
そこに立てる者を   征服しない     死が


○直訳
空中にない、大海の中にない
山の洞窟に入ってもない
そこに立てる者を死が征服しないその場所は
大地のどの地方にも見出されない


○一口メモ
昨日の詩のテーマは「業から逃れられる場所はない」というものでしたが、今回は「死から逃れられる場所はない」がテーマです。寿命すなわち生と死も業の一部であり、業によって決まります。その意味では今回の詩は前回の各論の意味もあります。しかし、死は古来、人生問題の一大テーマなのです。ですから、死には特別な意味があります。多くの思想家、文学者によって死について多く語られています。しかし、それらの見解からは混乱と無知に陥ってしまうように思います。

まず、ブッダから死について学び、自ら確かめてみるべきでしょう。

人間は 必ず死ぬと 悟るなら 無駄な争い やめるだろうな(6)
人として 生まれて死ぬ べきならば 善いこと多く するべきだろう(53)
そして今回の詩
空中も 海水中も 山中も 死なない場所は どこにもないよ(128)

これらで述べられていることは、人間(生命)は必ず死ぬということです。

しかし、人間は本能的に「どうしても生きていたい、死にたくない」強く思っています。ですから、人間(生命)は必ず死ぬという事実は受け入れられないのです。そのため、死は人間にとって最大の恐怖となっているのです。

この事実を受け入れ、この恐怖を乗り越える道はあるでしょうか?

これは困難な道ですが、死を見ないようにするのではなく、死を見ることから始めるべきでしょう。

死は突然現れるのではなく、生まれると同時に死に初めていることを理解する必要があるのです。私たちは生きていると同時に死んでいることを理解することです。

これも受け入れるのは難しいかもしれません。老化は緩やかな死の現れでしょうが、老化も受け入れ難い事実です。

自分だけなく、自分以外のすべての生命も同じように死に、生きながら死んでいることを理解する必要があります。そうして、老化して死んでいくことを学ぶのです。この学びも心はなかなか受け入れないでしょう。しかし、繰り返し学ぶことで受け入れられるようになるでしょう。これが無常を悟ることなのです。

この詩を以って、「第9 悪の章」が終わります。この死のテーマは、次の「第10 暴力の章」に引き継がれます。そこでは「なぜ生き物を殺してはならないか?」の明確な根拠が示されます。


「空中も 海水中も 山中も 死なない場所は どこにもないよ」


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200903/article_31.html
http://76263383.at.webry.info/201002/article_7.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


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この記事へのコメント

カエルくん
2012年07月11日 06:06
おはようございます。

死ぬことに実感がありません。
自分のことも、身近な人のことも。

でも、いずれ死ぬのだ。その時に持っていけるのは業だけだ、と考えると、日々の悩みが吹き飛びます。
善業の貯金をして、悪業をすり減らし、出来れば輪廻を乗り越えたい、というのが今生の望みです。

死について考えると、思い出す詩があります。
「今日は死ぬのにもってこいの日」というタイトルの英語の詩です。
アメリカインディアンをモチーフにした詩ですが、なんでも彼らは昔、自分の死ぬ時期が分かったとか…。
自分の死期を悟り、泰然と死ぬのを待つなんてカッコいいなあ、と思います。
でも、カッコよく死にたい、というのは煩悩ですね、きっと。

今日も一日精進します。
とも
2012年07月11日 07:21
おはようございます
 小さい頃から生き物は必ず死ぬことは、わかっていました。しかし色々なことに執着し怒りや欲があり、死ぬのが怖いということは、まだ本当にはわかっていないということでしょうか。
このような当たり前のことをお釈迦様が言われる以上、何かもっと深い意味がありそうです。
 自分の苦手な人が周りにいますが、その人もいずれ死ぬと考えると怒りが和らぎます。
生きとし生けるものが幸せでありますように
2012年07月11日 07:41
おはようございます。
死念(死を念じる)のやり方に関して増支部経典かどこかでお釈迦様は「明日、今日一日で自分の命が終わり死ぬかも知れないという気持ちで、ブッダの教えを修行しようと考えている比丘は考えが(まだまだ)甘い。

食事の際のひと口の間、ひと呼吸の間しか自分の命がこの世で残されてないと思い、ブッダの教えを実践せよ云々」
みたいな記述があった事を思い出しました。
修行者たるもの、自分の髪の毛が燃えてる時その火を消し止めるべく、すぐさま修行せよに相通じるよう感じます。m(_ _)m
noritarou
2012年07月11日 09:37
ワンギーサ先生、昨日は無記のお答えを頂きました。ありがとうございます。私の質問自体が、「ウサギの角」のように、間違っていました。軽率でした。すみませんでした。

全ては、因縁による地水火風の変化だと言われます。人間は概念でものを考えるので、ある部分を切り取って「生」「死」と名付けたいだけなのかもしれません。生き物は、死んだらすぐに「物体」になるので、私たち生命は、生きている死体を持ち運んでいるようにも思います。万物は生滅変化のさなかにあり、生きつつあり、死につつあることを智慧で体験したいです。
生命を乗り越える可能性を持った人間に生まれることは、尊いことですね。
あすか
2012年07月11日 11:24
老いも受入れるまでは辛かったです。
以前のような記憶力も体力もない。
容姿の衰え。ちやほやされたり、
大目に見てもらえることもない。
今はそのままを受け入れているので
不便はありますが心は安らかです。
自分はもう無理でも誰かを応援をしたり
共に成功を喜んだりならできます。

死は毎日確認している成果なのか
怖くもなければ嫌でもありません。
(死にゆくときの痛み苦しみには
正直、抵抗がありますが。^^;)
生き続ける方が苦。輪廻があるなら
生を繰り返す方が苦です。
このブログなのでこう言いました。
けっして死にたいわけでもありません。
徳を積める貴重な機会、有効に活用します。
生きていれば新しいことも学べます。
このブログでも明日から新しいテーマ。
楽しみです。

毎日、最期の日のつもりで
今日はどう過ごそうか考えています。
蒼氓さんのコメントを読み、今からは、
毎時間、最後の一時間と考え、
瞬間瞬間の心に気をつけます。
たかし
2012年07月11日 23:54
将来、死ぬことを考えると、言いようもない不安な気持ちにおそわれます。しかし、次の瞬間にでも死んでしまう可能性がある以上、死ぬ間際まで死ぬことを自覚せずに、人は死んでいくのではないか、じゃあ、悩んでも仕方ないから、今を大切にしよう、などと考えます。でも、それがとっても難しいんですよね。
こころざし
2015年11月19日 08:45
守ろう守ろう・・と必死になっている事も、自分が死ぬと分かっていたらどうでしょうか→執着する実態は実はないと言えるのではと思います。そのような無常を心的に分かるように冥想実践をして参りたいです。