生きものは 幸せ求める そうだから 害さない人 幸せになる (132)

阿羅漢であり、正自覚者であり、福運に満ちた世尊に、私は敬礼いたします。


スカカーマーニ   ブーターニ
Sukhakāmāni    bhūtāni,
幸せを願う     生き物を

ヨー    ダンデーナ ナ   ヒンサティ
yo     daṇḍena    na    hiṃsati;
(彼)   棒で     ない  害さ(ならば)

アッタノー   スカメーサーノー
Attano      sukhamesāno,
自己の     幸せを求める者が

ペッチャ  ソー   ラバティ  スカン
pecca    so    labhate   sukhaṃ.
死後に   彼は   得る    幸せを


○直訳
幸せを願う生き物を
自己の幸せを求める者が
棒で害さない(ならば)
死後に彼は幸せを得る


○一口メモ
今日は「生きものは幸せを願う。生命は幸せを求める。」ということについて考えてみます。
この命題が正しいかどうかは、自分自身が幸せを願っているかどうかよく感じてみることで分かります。自分が幸せを求めているかどうかよく感じて下さい。その感じをよく味わって下さい。

そうです。私は幸せを願っています。私は幸せを求めています。

次に私の親しい人々はどうでしょうか? 私の親しい人々も幸せを願っています。私の親しい人々も幸せを求めています。

それ以外の人々や、小さな生き物も大きな生き物も、よく観察するならば、彼らも幸せを願っていて、幸せを求めていることが分かります。

すべての生き物、生きとし生けるものもが、幸せを願っていて、幸せを求めていることを調べられませんので、初めは類推です。しかし、慈悲の心が成長すると、そのことは確信に変わっていくでしょう。

生きとし生けるものが幸せを願っていること、幸せを求めていることの確信は生き方の原点です。その確信に基づいて生きることで間違いがないのです。もう少し述べれば、私と私の親しい人々と生きとし生けるものが幸せに生きられるように、生きればよいのです。さらに具体的にはつぎの通りです。

人々の幸せを願っている時は、怒りの心はありません。怒りを克服することになります。

人々が困って、悩んだり苦しんだりしている時に、手を差し伸べることは、欲から離れた心です。欲から離れ、欲を克服することになります。

人々の願い事が叶った時、一緒に心から喜べる人には、嫉妬の心はないのです。自分と他人との境が低い人です。自我が少ない人です。心の清らかな人です。

最後は、人々が最高の幸せを達成できるように願うことです。最高の幸せは涅槃に達することです。そのためには、人々に悟りの光り、智慧の光りが現れるように願うのです。

「生きものは幸せを願う。生命は幸せを求める。」という事実に確信が持てると、ブッダの説かれた最高の真理「四聖諦」が理解できるのです。
四聖諦とは、苦諦、集諦(苦の原因)、滅諦(苦の滅尽)、道諦(苦の滅尽に至る道)という聖者の四諦(四つの悟り)です。ブッダの教えはすべて生命が苦しみを克服する方法なのです。しかし、人々はそのはじめの苦諦が理解できないのです。
人々は人生には楽しいこともたくさんあると言います。仏教は悲観主義の教えだ、暗い教えだと攻撃するのです。

「生きものは幸せを願う。生命は幸せを求める。」ということは、現状は幸せでないということです。あるいは、今の幸せには満足してないということです。これのやはり幸せでないということです。これが苦諦です。幸せを願う、幸せを求めるということから、苦諦を理解して、四聖諦を理解することができます。これが悟りの道、涅槃への道なのです。今日はここまでにしておきます。


「生きものは 幸せ求める そうだから 害さない人 幸せになる」


○この詩の解説は次の記事を参考にしてください。
http://76263383.at.webry.info/200904/article_2.html
http://76263383.at.webry.info/201002/article_9.html


○人生の万能薬(慈悲の瞑想)

私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)は(が)幸せでありますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の悩み苦しみがなくなりますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)の願いごことが叶えられますように
私(私の親しい人々、生きとし生けるもの)に(にも)悟りの光があらわれますように

私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)も幸せでありますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の悩み苦しみがなくなりますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)の願いごことが叶えられますように
私の嫌いな人々(私を嫌っている人々)にも悟りの光があらわれますように

*この言葉を毎日唱えると幸福になれます。


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この記事へのコメント

カエルくん
2012年07月15日 05:23
おはようございます。

傷ついた心に慈悲の瞑想はよく効きます。ありがたいです。

生きるということは苦である、ということを理解するのは難しいです。瞑想をしている間だけ、どんな刺激も苦しみでしかない、ということにうっすらと気付きます。
毎日忙しく過ごしているうちに、一生なんてあっという間に過ぎてしまうのでしょう。
今日も一日精進します。
noritarou
2012年07月15日 09:52
>私は幸せを求めています。
仰るとおりです。生命として生きている限り幸せでないから、幸せを求める。
昨日は、久しぶりに友人と会いましたが、そのような場で初めて、宗教上の理由ということで私はお酒を飲みませんでした。お酒は、身体に刺激を与えて欲望と無知を増大させ、心の統一を乱されるので、嫌だからです。そのような理由を言っても理解されないだろうし、場がシラケてしまうかもしれないので言いませんでしたが、飲まないことで、私はとても幸せを感じました。でも、友人に対して罪悪感もでてきました。自分の幸せと、罪悪感(世間となじむことを拒否する)と、どちらが大切かもっとよく知らなければいけませんね。精進します。
あすか
2012年07月15日 11:59
喜の心でしょうか。
幸せを素直に喜べると
幸せになれますね。

嫉妬など貪瞋癡からの心が
いかに辛く苦しいことか。

自分が幸せになるには、逆説的ですが
自分を薄くしてしまうといいんですね。

今日も生きとし生けるものが
幸せでありますように
こころざし
2015年11月20日 07:42
慈悲喜捨の実践をしますと、相手から「害のない人」として親近感を頂け、そしてその場の雰囲気が柔らかいものになり、結果として自分が幸いになる印象を感じています。
また職場でも、害のない、というのは当たり前のようで実は結構智慧のいる事と実感する機会があります。
慈悲喜捨の実践をして害を与える身口意がないように、戒めたいです。